第17話

 私は一挙手一投足に釘付けだった。戸惑いながら答える様子は、なんだか心をくすぐる。

 鳴海君から返ってきた声は小さくて、水槽の中の泡がふっと浮かび上がるような控えめな響きだったけど。


「……シュリンプかな」


 鳴海君の視線の先には、小さな赤や青、黄色のエビたちが水中をすいすいと泳いでいた。全長二センチほどの、小さな生命たちが、何とも言えない愛らしさを漂わせている。


「昔、父親と一緒に飼ってたんだ。小型の水槽でも飼いやすくて、せわしなく動き回るのを眺めてると、なんか癒されるんだよね」


 シュリンプか……その名前をかみしめながら、目の前の小さなエビたちに視線を注ぐ。細い手足を忙しなく動かし、砂利をツマツマとついばむ様子は本当に可愛い。

 気づけば、私は顔を水槽にぐっと近づけてその姿を覗き込んでいた。

 ふと隣にいる鳴海君の存在を意識すると、胸が小さく高鳴る。

 エビに視線を集中させているつもりだったけど、実は水槽に反射する彼の顔をこっそり見つめている自分がいた。


 鳴海君が好きなものに触れられて、また少しだけ近づけた気がする。今は小さなエビでも、いつかまた、鳴海君の好きな世界にしっかりと入り込めたら——そんな願いがふと浮かんで、ひとり密かに笑みがこぼれてしまう。


 それと同時に、何だか、今にもちぎれてしまいそうな鳴海君の言葉と、私との距離感……そのひとときひとときを、大切に思う。


 今の彼の瞳に、私はどう映っているのだろう。


 水槽を無邪気に覗き込む顔は、過去の鳴海君そのものだ。


「……あの」


 無意識に声が漏れていた。二人で過ごすこの何気ない瞬間が、まるで水槽の中の泡のように、静かに浮かび上がっては消えないよう、そっと大切に抱えたくなった。


「今度……、一緒に水族館行かない?」


 ふと、勢いで言ってしまった。


 ああ、まただ……私は何をしてるのだ、と自責の念にさいなまれる。

 唐突に誘っちゃったかな? そりゃあ、びっくりするよね……。


 だと思ったのだけれども、鳴海君の返事は意外にも、さらりとしたものだった。


「いいよ」


 驚くことなく、さほど迷いもなかったように見えた。


 なのに私は、——え、ほんとにいいの? という驚きで、せっかく鳴海君がOKしてくれたのにもかかわらず、まだ水槽の中で、泡と一緒にブクブクしていたのだった。



 家に帰ると、台所からばーちゃんが顔を覗かせ、「おかえり」と声をかけてくれる。

 靴を脱いでから鞄を置いたとき、ばーちゃんの視線が、鞄に差し込んでいたアクアリウム店のパンフレットに向かっているのに気づいた。


「あら、何だか今日は嬉しそうだねえ」


 その言葉に、思わず足が止まる。自分が『嬉しそう』に見えるなんて、考えたこともなかった。

 だからか、つい言葉が先に出た。


「あ、俺……バイトしようかなって思ってる」


 ぽつりと呟くと、ばーちゃんは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。


「あら、それはいいじゃない?」

「……欲しいものがあってさ」


 言葉を濁しながら口にすると、ばーちゃんは何か言いたげに唇を動かしかけた。『それくらい私が買ってあげるわよ?』とでも言いそうな雰囲気だった。

 けれど、もう一度鞄に差し込まれたパンフレットに目を落とし、ふっと微笑んでから、「頑張ってね」とだけ、優しく声をかけてくれた。



 自分の部屋に戻ると、ばーちゃんの言葉がどうも気になる。


 ……俺が、嬉しそう?


 壁に掛けた戦隊ヒーローのお面を眺めながら、思い返す。

 言われてみれば、たしかに、いつもと違う気分かもしれないが、理由がはっきりしない。

 鞄を置いてから椅子に座り、一息つくと、自然と頭に浮かんでくるのはアクアリウムのことだ。そこでの出来事と、野々原とのやりとりが、まるで水面に映る影のように揺らめく。


 一緒に水族館に行くことを約束したことが、未だに信じられない。

 ちょうど、水族館には行きたいとは思ってはいたけど……。


 ふとした勢いで口にしてしまった?


 そう考えると同時に、店内の……まるで水の中のにいるような静けさや、魚たちが心地よさそうに泳いでいた空間が思い浮かんだ。


 ……自分が好きなアクアリウムに興味を持ってくれたことが嬉しかった?


 それと、以前、野々原を泣かせてしまったときの後ろめたさも、どこかに引っかかっている。少し気まずいような気持ちもある。


 でも、ふとした時に、隣にいる野々原を思い出すと、不思議と落ち着く感覚を覚える。どういうわけか、一緒にいると心が穏やかになる瞬間があるのは否定できなかった。


 とりあえず落ち着こう。

 再び、お面に視線を移して思った。


 ——まあ、どうやらまた毒霧を吹きかけてくるわけではなさそうだし、安全だろう。



 目黒川を眺めながら、軽やかに足を進める。

 朝の空気は澄んでいて、ひんやりと心地いい。川沿いの並木は、葉の先がほんのりと色づき始めているものの、まだ緑の鮮やかさが残っていた。


 いつもと変わらない景色。


 公園までの道のりは、何ひとつ変わらないはずなのに、今日はその穏やかさが心を落ち着かせてくれた。

 川沿いの道を少しそれると、公園が見えてくる。

 風が吹くたびに木の葉がひらひらと揺れ、心地のいい音が、足取りを自然と軽やかにした。



 公園に着き、バスケットボールを取り出すと、いつものシュート練習を始めた。手に触れる感触と、地面にボールが弾かれる音が心地よいリズムを刻む。

 ボールをつきながら呼吸を整える。しっかりと目標に狙いを定めて、ゴールに向かってボールを放つ。

 けれど、放たれたボールはリングの端に当たって、弾かれた。


「ああ、やっぱりだ……」


 そんな風に思ってしまうのは、きっと鳴海君のせいだった。この場所で、何度もシュートを打っては二人で同じように失敗した。

 過去には鳴海君が隣にいた。並んで練習していたことが、自然と思い出される。


 まずは、キャッチ。しっかりとボールを手におさめる。そして、そのままシュートを放つ。ボールを離す瞬間に軌道の高さの力加減を調整する。適切なループの角度が大事。


 そう何回も基本的なことを口にしながら、隣で微笑ましくいてくれるだけで安心だった。何も言わなくても、失敗したときの表情を隣で見られると、少し悔しくて、それが次のシュートへのやる気に変わったりもしていた。


 世界的な有名選手、カリー、の存在を知ったのもこの時だ。


 鳴海君は、カリーの真骨頂ともいえる、3ポイントラインからさらに一メートル以上離れた位置から放つ『ディープスリー』をよく練習していた。

 その姿を隣で見続けていたおかげで、私も自然と同じシュートを打てるようになり、中学時代はそれが強みとなってレギュラーに定着できた。


 ……今は、その姿がないこの公園で一人、同じようにシュートを打っている。

 なのに、どこか物足りなさを感じてしまう。



 ——秋の空は七たび半変わる。秋空みたいに、もっと気まぐれに、軽やかに生きられたら。

 そうしたら、鳴海君に少しは近づけるだろうか。


 今日は、鳴海君とは顔を合わせていない。

 昼休み、教室で弁当を食べていると、向かいに座る結衣に訊かれた。


「桃って、鳴海君の連絡先知ってるの?」


 ……ハンマーで頭を殴られたような衝撃。

 浮かれすぎて、うっかりしていた。水族館。日程を決めなきゃいけないのに、完全に忘れていた。


 連絡先を知らない私は、直接話して決めるしかない。


 ……いや、正確には、LINEで繋がってはいる。でも、それは、過去、の鳴海君。

 おそらく、今の鳴海君にはメッセージは届かない。間違いなく。



 昼食を終え、教室を早々と後にし、鳴海君の元にやっては来たけど、学校ではやっぱり無理だ。今は珍しく、一人でくつろいではいるけど。

 渡り廊下の出入口で外を見つめている。遠目からからでも圧倒的な存在感。


 この距離が限界だ。


 さりげなく近づいて、また突然訊いてしまい、もし他の誰かに聞かれたりしたら……という気持ちと、この手にしているペットボトルをわざと転がして、何食わぬ顔で話しかけてみる? みたいな気持ちが、秋空のように心が揺れ動く。


 最悪の結果。


 一緒に水族館に行くことすら消滅してしまう可能性だって十分にありえる。


 それに……また鈴木さんに変な因縁をつけられるのも恐い。

 そんなことを考えてしまっているから、また私は妙なことを引き寄せてしまう。 

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