第16話

「あの人……。鳴海純ですよね? さっき校門にいた人」


 キラリ君がぽつりとつぶやく。声には尊敬の念が込められていて、その瞳はいつも以上に輝いているように見えた。


「あ、すいません、いきなり。野々原先輩、青幸中の出身だって聞いて」


 そういうことか。

 何となく訊きたいことは把握できたけど、どんな風に答えていいのかいまいちわからなかった。


 とりあえず、「そうだと思うよ」と、返した。


「やっぱ、そうですよね? 俺、人違いだって言われちゃって。ひどくないですか?」

「え、そうなの?」


 何がどうなれば、そんな展開になるのだろう……


「しかも、バスケもやったことないって、めちゃくちゃです。ひどすぎですよ~。おれ、鳴海純に憧れて、バスケ始めたようなもんなのに……」


 キラリ君は苦笑いしているけど、胸中穏やかでない私は、やっぱり記憶を失って——と落ち込む。しかも、大好きだったバスケをやっていたことさえ忘れてしまったなんて。

 鳴海君の気持ちを考えると涙が出そうだった。


「あの正確さ、どんな時でも冷静に決めるのが本当に憧れで」


 鳴海君の3ポイントシュートは、本当に正確無比だった。

 輝きを増すキラリ君の言葉を聞きながら、私は無意識に遠い記憶の中に引き戻されていた。鳴海君と初めてバスケを一緒にした、あの日のことを。


 それは私が、日課の自主練習をしているとき。朝早く周りがまだ静まり返った中で、公園のバスケットゴールの前で一人でシュート練習をしていた。

 その日は少し肌寒く、手の感覚が鈍るような朝だったけれど、夢中でボールをリングに向かって放り続けていた。


 すると、おはよ、とふいに背後から声がして振り向くと、薄手のジャージ姿で、柔らかい笑顔を浮かべた鳴海君が現れたのだ。

 私はただ驚いて、その場に立ち尽くしていた。

 彼がここにいることが信じられず、何か言葉を探そうとしたけど、口からは何も出てこなかった。


 鳴海君は戸惑ったような表情を浮かべ、そのあとに照れ臭そうに微笑みながら「ここにバスケットゴールがあるって聞いたんだけど……」と、そう口にし少しだけ視線を横にそらした。


 その不器用な仕草が、今でも妙に心に残っている。

 あの瞬間、彼の表情が私の胸に深く刻まれたように感じた。そして、正確無比なシュートに驚愕した私は、思わずバスケ部に入ることを勧めてしまったのだ。


「……野々原先輩?」


 キラリ君が、ふと私の顔を見て不思議そうに首をかしげていた。


「ぼおーとして、どうかしましたか……?」

「ううん。ごめん、ごめん。なんでもない」


 わざとらしく微笑みながら、私はその言葉を飲み込む。


「おれ、中学のとき、鳴海さんのプレーを見て、3ポイントシュートの練習を始めたんです。うちの学校で大暴れしてた試合」


 つい微笑んでしまう。私も同じだった。鳴海君のシュート姿に憧れて、少しでも近づけるように必死に練習を重ねてきた。


「え、烈華れっか中学の出身だったの?」


 烈華は全国大会に何度も出場経験のある強豪校だ。ちなみに青幸中学校は、男女共に、私のお姉ちゃんの代で行ったっきり。


「はい、烈華です。ほんと、あの試合は伝説です。62得点ですからね! あれは、カリーですよ!」


 この得点は世界一の3ポイントシューターともいわれる、カリー、のキャリアハイと並ぶ数字だった。


 そう——鳴海君は、この試合を通して途中出場だったのにもかかわらず、一人で12本の3ポイントシュートを含む、計62得点というとんでもない記録をマークした。



 駅に向かう道のりは、商店街を抜けると少し狭くなっていく。住宅街の中を通りながら、道端に植えられた街路樹がゆっくりと風に揺れている。

 駅が見えて、改札でキラリ君と別れた。


「絶対、全国行きましょうね!」


 その瞳は希望に満ちていて、言葉には揺るぎない自信が込められていた。



 電車に揺られながら、もう一度さっきのことを思い返していた。鳴海君が公園にふらっと現れたときのことを。


 記憶がないとバスケできないのだろうか?

 もしかしたら、体が覚えているのでは?


 あのとき、鳴海君は豊富な知識を活かして、理論的にシュートのコツを教えてくれた。


 でも、そのフォームを見る限り、鳴海君のシュートは頭で考えているというより、体に染み付いていて、自然と動いているように見えた。

 転校前の学校は私立の進学校だったから、部活に真剣に取り組む生徒なんてほとんどいなかった、と言っていたけれど、どんなふうに練習をしていたのだろうか。


 あまり楽しくなかったのかな……? そう思うと、少し寂しくなった。

 母親もバスケには全く興味がなかったと聞いている。孤独な練習だったのかもしれない。


 それでも、青幸中が全国大会を目指していると知ったときの鳴海君の顔は、驚くほど嬉しそうに、ぱっと表情が輝いた。まるで新しい希望を見つけたかのように。

 この日から、私の日課の自主練習は二人になった。



 電車が最寄りの駅に近づくころ、手にしていたスマホが振動した。改札を出たあたりで確認すると、杏からのメールが届いていた。


『やっぱ、鳴海君。挨拶してもそっけないし、話しかけても違和感を感じるって。記憶喪失なんじゃ? って噂も広がってるみたい』


 目にした瞬間、心の中に冷たいものが広がった。

 以前、目撃者が多発していると話していた杏が、気を利かせて調べてくれたのだ。

 小さく息がこぼれる。杏に、ありがとうの気持ちを込めてスタンプを送った。


 夕陽が少しずつ沈みかけ、空の色は次第に紫がかった色へと変わり始めていた。……そういえば。

 ふと思い立つ。

 歩いて数分のところに、アクアリウムショップがあったことを思い出す。



 店内に入ると、涼しげな水の音とともに、静かな空気が広がっていた。透明な水槽の中を、鮮やかな魚たちが悠々と泳いでいる。

 不思議と、心が落ち着く。囲まれた水槽のせいか、あたかも水の中にいるような錯覚を起こした。

 水槽を眺めていると、空気を吸うように鳴海君のことを考えていた。アクアリウムが好きだと言っていたこと。記憶を失ったとしても、趣味や好みは、どこかに残っているのでは? そう思った。


 鳴海君が大切にしていたものや、好きだったことが少しでも蘇るなら……

 そんなことばかりを、ぼんやりと考えてしまう。


「綺麗~……」


 ふと、そんな言葉が口をつく。

 その瞬間、背後から聞き慣れた声が聞こえた。


「……あ」


 振り返ると、鳴海君が立っていた。

 気まずそうに視線をそらしながらも、かすかに微笑んでいる。


 まさか、こんな場所で彼に会えるなんて……。


「何してるの?」


 自然と声が出てしまった。


「……ああ。家でアクアリウムやろうかと思って」


 鳴海君は肩をすくめながら、近くの水槽を指さした。

 まるで初めてその言葉を口にした様子に、鳴海君の記憶の中に私はいない、と確信をしたけど、嬉しさが心の奥から込み上げてくるものもあった。


 アクアリウムを好きだということ、覚えていたんだ……。


 記憶の片隅に、昔の彼の部分が残っている——そう思うと、どうしようもなく嬉しかった。

 興奮して、また粗相のないように、できるだけ慎重に落ち着くように努めた。水槽を大破してしまっては大変なことになる。


「何を飼おうと思ってるの?」

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