第14話

 結衣は、そのことか、と前もって用意していたかのように答える。


「大丈夫、大丈夫。滝本君とはそういう関係じゃないから」


 私は結衣の目を、じいーっと見つめる。


「狙いは何?」


 少し考え込んだあと、隣で練習をしている男子バスケ部の方に結衣の視点がチラリと向いた。


「もー、何にもないって。言ったでしょ? ナリだって」


 また、はぐらかされた。結衣がチラ見した先は、男バスのキャプテン。その隣には、お祭りで一緒だった、女の子もいる。


「なるほど」


 恋愛って、他人から見たらわからないことがたくさんあるんだな……

 なんて心の中で呟いて妙に納得していると、女バスのキャプテン沙織さおりんもこっちにやってきた。


「あの子、一年のマネージャーでしょ? 最近入った」

「ああ、そうなの?」

糸田いとだも大変だよねっ。キャプテンで、それどころじゃないのに」


 まあ、たしかに。ぱっと見て、糸田君が言い寄られてる感は拭えない。


「男バスも代替りして、気合い入ってるもんね」


 結衣はもう、隣にいなかった。


 ……ん?


 そう思っていたら、急に視線を感じた。


 何? 私? 私を見ている?


 沙織んも何かただならぬ気配に気付いた様子で、周りを見回す。


「あれ、鈴木さんじゃん。三組の。こっち見てるけど…なんだろう」


 三組といえば、鳴海君と同じクラスだ。


「あの子、可愛いよねー。小さくてお人形さんみたいで。何か用事でもあるのかな」


 そう言う、沙織んに、さ練習練習、と声をかけられ、私は一緒にコートに向かった。



 練習も熱を帯びてきて、皆んなの声にも力が入り出した頃、沙織んのシュートしたボールが、大きくリングに弾かれた。


「やばっ。ごめんっ」

「あ、いいよ、いいよっ。私いく」


 一番近くにいた私が、転がっていくボールを追いかけた。すると、扉のところで立っていた鈴木さんの方にボールが。


 まだいたんだ……


 話したこともなかったので、できるだけ関わらずに済ませたいと思い、勢いよく転がっていくボールを追って急いだ。

 そして、ようやく目の前でボールが止まったその瞬間、背後から誰かの声が聞こえた。


「桃ーっ、ごめーん。もう一つボール行ったー!」


 振り返る間もなく声が上がる。どうやら別のボールも遠くへ転がっていったらしい。


「オーケーっ!」


 少し焦りながらも大きく返事をした。振り向いた視線の先で、鈴木さんがまだ扉の近くに立っているのが見えた。ボールは拾ってくれているけど。

 どうしてまだここにいるんだろう。少し気にはなったが、今は目の前のボールを拾わないと——。


「ごめん。ありがとっ」


 ボールに手を伸ばした瞬間だった——

 ゴンッ。


「……え?」


 鈍い音とともに、ボールが私の顔面にぶつかった。驚きで反射的に顔を押さえた。


「……ごめん」


 鈴木さんの声が聞こえたけど、すでに彼女は体育館を後にしていた。私は何が起きたのかよくわからないまま、ほんのりと痛む頬に手を当てた。


 皆んなの元に戻ると、


「桃、大丈夫?」


 すぐに結衣と沙織んが駆け寄ってくれた。


「あ、うん、大丈夫……ただちょっとびっくりしただけ」


 笑顔を作ろうとしたけど、鈴木さんの、ごめん、という言葉が頭の中に何度も響いて、心がざわついたままだった。

 結衣に、よしよし、と頭を撫でて慰めてもらう。そんなときだ、もう一つ別の視線が私の背中を刺すように感じた。


「なんか、視線感じない?」


 背筋を伸ばして、振り返ってみると、そこには一年生の男バスの子が、私? をじっと見つめている。

 少年のような無垢な瞳と、いつも直向きに、ただただ3ポイントシュートの練習をしている彼を、女バスの間では、キラリ、と呼ばれている。


「大丈夫ですか……?」


 近寄ってきたキラリ君に、初めて声をかけられた。


 ……え? 何何何何ーー⁈


 ほんとに何なの? どうして私?

 チームメイトたちも不思議そうに見ている。


 今日は一体何なんだろ……


 波乱の予感しかしないんですけど。



「何? どうしたの? そんなにベニクラゲが見たかったの?」


 水族館のレストランで遅めの昼食をとっていたが、どうにも食欲が湧かない。フォークでパスタをいじっていると、ぼそっと声が漏れた。


「べつに……それほどでもないけど」

「まあ、また見に行けばいいんじゃない? 都内に戻れば見れるんだしっ」


 と、母さんは俺の顔をちらっと見る。


「そんなことより、新しい学校はどう? 友達は?」


 その視線がどうにも気に入らない。過保護なのは分かってるけど、正直うっとうしかった。

 それにベニクラゲは、俺にとって特別な存在だった。

 水族館に来た幼い頃、あの透明で儚げな姿に心を奪われたのを今でも覚えている。父さんがいつも詳しく教えてくれて、あれから俺はベニクラゲが好きになった。


「なんか元気ないみたいだけど、大丈夫?」


 母さんは続けて心配そうに聞いてくる。


 ちょっと過剰すぎるだろうと思いながら、俺は「別に」とそっけなく返した。


 そのとき、突然頭の中に野々原の笑顔が浮かんだ。

 どうして今思い出したのだろうと、訳がわからない。


 そもそも祭りの日、何で泣いていたんだ?


 頭を振ってその考えを追い払おうとするが、何かが引っかかっている感覚だけが残る。


「どうしたの? 具合悪い?」


 再び母さんが過剰に反応した。

 軽くため息をつきながら、「いや、なんでもない」と返したとき、ふと思った。


 ……俺は。


 何か大事なことを忘れている気がする。

 それが何なのかはまったく思い出せない自分がもどかしい。

 一人暗い部屋で怯えながら、慎重に積み上げてきた積み木が崩れ落ちそうな恐怖を感じたけど、意を決して訊いてみた。


「母さん……何か俺に隠してること、ない?」


 心のどこかで、何か重大なことを知らされていないんじゃないかという疑念がずっといぶっていた。

 でも、少し驚いたような顔をした母さんは、すぐに微笑んで「そんなことないわよ」と軽くはぐらかすのだった。



 その後、食事を終え、出入口付近にあったお土産売り場をぶらつくことになった。

 母さんが何か探している様子を見て思い出した。昨日、バイト代を手に入れたことと、うろ覚えだが昔、母さんが言っていたことを。

 仕方なく照れ臭くてしょうがなかったが、何となく訊いてみた。


「母さん、何か欲しいものある? 昨日バイト代入ったからさ」

「何っ? 純、バイトしたの?」


 以前、自分の子供のお金で何かを買ってもらうのが夢だと、母さんは言っていたことがあった。

 その言葉を思い出したのか、母さんは目を見開き、涙ぐんだ。


「純が……そんなこと言ってくれるなんて」


 正直、戸惑った。でも、「大げさだよ」と照れ隠しのように俺は笑ってみせた。

 それでも、母さんの嬉しそうな顔を見ていると、悪くない気分ではあった。



 外に出て歩き始めた、そのときだった。突然、誰かに声をかけられる。

 振り向くと、同い年くらいの男が、にこやかに笑いながら立っていた。


「あれ? 純っ? 久しぶりじゃんっ。元気してた?」


 と、言われるが、俺にはまったく記憶がない。隣に連れた彼女? が「友達?」との問いに、男は、そう、と頷いてから「中学のとき同じクラスだった」と答えるが、俺には何一つとして思い当たるものはなかった。

 そのあとは、なんとか笑顔を作りつつ適当に会話を合わせて、その場を去る。


 車内に戻ってからも、何となく胸の中にモヤモヤした感覚が残った。


 ……あいつが、本当に友達?


 その沈黙の中で、また心配そうに見つめる母さんの視線が、俺の胸を締め付ける。



 車窓の外には、海岸沿いを江ノ電と並走する風景が広がっていた。でも、閉ざされた窓の向こうに見える景色は、月明かりのない海のようにどこか暗く、沈んでいる。


 今日一番の目的だった父さんの墓参りも、湿っぽくて、まるでお通夜のときと同じ空気だった。

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