第12話


「……なるほど。そういうことか」


 ことの経緯を聞き、結衣は感慨深く呟いた。

 それと、もう一つ。

 昨日の別れ際に、杏から耳にした話も伝えた。昨日から、ずっと私を絶望の崖の縁に追いやっている話だ。

 それを聞いて、結衣が言葉に詰まってしまった。


「え、何それ?」


 まだ、事実が確定したわけではないから、少し悩んだけど話してみようと思った。当然、結衣は大事なことを他言するような人物ではないのもある。

 というか、私一人では抱えきれなかった、というのが本音だったかもしれない。

 結衣は、まじか、と小さく声をこぼしてから口を開いた。


「本当なの? 記憶喪失って」


 改めて、『記憶喪失』というパワーワードを耳にすると、たちまち崖の縁から崩れ落ちそうだった。



 何でか、祐天寺駅前にあるパン屋に向かっていた。

 通知音が鳴り、『どうせ暇だろ?』という滝本のメールに、背中を押されるがままに来てしまった。

 まるで命令のような一方的な文面だったが、まあ、良い気晴らしになるかな、とも密かに思ってもいた。

 ……今はただ、別のことを考えていたい。



 少し歩いたところに、滝本の祖母が営むパン屋はあった。

 店の入口には小さな看板に『焼きたてパンあります』と、手書きの文字が描かれており、どこか懐かしく、温かみのある雰囲気を漂わせていた。古びた外観も含め、そういった親しみやすさがこの店の魅力なのだろうか。

 ガラガラと音を立ててドアを開けると、カウンターの奥に、滝本が見えた。俺の姿を確認すると、満面の笑顔で、手を振りながら迎え入れてくれる。


「おー、純、悪いな。助かる、助かる」


 その声に応えるようにして、奥から現れたのは滝本の姉だった。名前は、友希ゆきさんと言った。

 明るめの髪色で、清楚な印象を持ちながらもどこか芯の強さを感じさせる雰囲気があった。

 軽く会釈をすると、「こんにちは」と優しく挨拶をしてくれた。

 すると突然、滝本が「じゃあ姉ちゃん、俺行くから」と言い出し、「じゃあ純、あとは頼んだわ」と一方的に告げると、さっさと逃げ去るようにして走っていく。


「え、ちょっと⁈ 友也ともや、待ちなさいよっ」


 友希さんの声は虚しく、滝本はすでに店の裏口から姿を消してしまっていた。

 上げた声を耳にして思った。

 性格はやや、強めか?

 友希さんは、あのバカ、と小さく言って、俺に向き直ると苦笑いを浮かべながら「弟の友也が、ごめんね。急に頼んでしまって」と、申し訳なさそうに言う。


「まあ、仕方ないですね」


 滝本にうまく使われた気もしたが、ここまで来てしまった以上、引き受けるほかないだろう。


「ありがとう、助かるっ。バイト代は払うからっ」


 弾むような声を上げた友紀さんは、カウンターの下からトレイを取り出し、焼きたてのパンが乗ったトレイを俺に手渡した。

 そのとき、女性っぽい、パンとは別のいい匂いが鼻についた。



「純君、今日はありがとうっ」


 人生初アルバイトは、友希さんの、ほっとした笑顔で締めくくりとなった。

 あんなに嬉しそうに感謝の気持ちを伝えられると、悪い気はしない。

 急に呼び出されたときは面倒に感じたが、結局こうして人の役に立てた自分を褒めてやりたい。


 ほんと、あっという間だった。


 想像以上に賑わう店内に、客足が途切れることなく、老若男女が来店し、パンはあっという間に売り切れてしまった。

 まだ夕方にもならない時間に店を閉めた理由は、病院で検査入院している祖母を迎えに行くため、だと言っていた。

 空を見上げると、まだ日が高く、穏やかな秋の日が続いていた。

 重たい雲の隙間から差した、穏やかな陽射しの隙間を抜けていく澄んだ風が、少しだけ心を軽くした。

 そろそろ、本格的に長袖を常備する季節がやってくる。



「やば、私そろそろ行かなきゃ」


 結衣に言われて気づいた。ずいぶんと話し込んでしまった。窓ガラスからは、傾き始めた斜陽が差し込んでいた。

 帰り支度をしようと思っていたら、真剣な表情の結衣と目が合った。


 どうした? と視線で訊くと、急にテーブルに肘をつき、体を前にぐっと倒してきた。


 顔が急接近してきたせいで、私は思わず「うわっ」と後ろにのけぞってしまう。

 そんな反応を見て結衣はニヤリと笑い、「ほら、やっぱり逃げようとしてる」と、まるで悪戯をする子供のように言った。

 結衣は目をじっと見つめたまま、「桃が逃げるのなんて、もう見たくないよ」と、訴えるように吐き出した。

 その言葉のあとすぐに、突然立ち上がったかと思うと、にんまりとした表情を浮かべ背後に回り込んできた。そして私の両肩にぽんと手を置いて、「はい! 明日から頑張ろ!」と明るい声で言った。

「なんてね」と、ちょっぴり照れ臭そうにも笑う。


 あまりにも不自然な一連の動きに、私は思わず吹き出してしまう。


「もう、何なの? 急に。びっくりしたって」


 笑いながら言うと、結衣は「いや、桃が元気ないから、ちょっとでも励まそうと思って」と言い、もう一度私の向かいに座り直して「私が桃を引っ張る役目だから」と、優しい声で微笑んだ。


「それに、バスケも頑張るよ! 桃の力がないと全国行けないんだからね」

「…うん、ありがとう」


 言いたいことは伝わってきた。私は、その言葉に心から感謝した。



 家に帰ってからは、部屋にこもってスマホに搭載されたAIと、会話するように壁打ちなるものをしていた。

 始めは、記憶喪失について色々と質問していたけど、徐々に会話はヒートアップし、恋愛相談みたいになっていた。

 AIと会話していくうちに気づいたのだ。

 記憶がないということは、鳴海君にとって私は初対面ということになる。そう考えると、今日まで自分のしてきた行動が恥ずかしくなる。水を吹きかけた上に、お祭りでの押し倒し、そして謎の号泣……

 後悔ばかりでたじろいでいると、AIが話し始めた、と思ったそのとき、同じタイミングで部屋のドアが開いた。


『緊張する初デートで、会話になりやすい話題五つをご紹介します。初デートで話しやすいのはこの話題です! 一、 第一印象について話す。二、 好きな食べ物や嫌いな食べ物。三、好きな本やテレビ。四、休日の過ごし方。五、出身地や子ども時代に流行った遊び』


 回答が終わり、静けさと一緒に、ドン引いているお姉ちゃんの視線が痛い。うわああ~、と間違いなく私はさげすまれている。


「何か、ブツブツうるさいと思ったら、あんたいつもそんなことやってんの?」

「そんなことよりノックしてよねっ」


 お姉ちゃんの、ばっちりとお高くとまったメイクに、マウントを取られているような気になった。


「ほんと、ばかだね」

「もー、うるさいっ」


 追い返すようにして、ドアを閉めた。

 部屋の中が静かになり、鳴海君のことを考える。

 今思い返すと、常に少し戸惑ったような表情で、不自然だった。いつも通りの明るさを失い、どこか遠くを見ているような、そんな眼差しだった。

 私は、何かヘンテコな生物か何かだと思われているのかと思っていたけど。

 やっぱり、確かめることが必要だ。

 まずは事実確認。

 よし、明日、学校で頑張ろう。

 深まった夜は、少し肌寒くなってきた。静けさが心を包む。ベッドに横になり、目を閉じると、鳴海君の顔が浮かんでは消えた。

 そして、ふんわりと彼と初めて会った日を、そうか、と昨日のことのように思い出す。


 中学二年の二学期。


 鳴海君は、私と同じクラスに転校生として現れたのだ——。

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