第48話 4ー9 エピローグ

 船足は鈍かったが、薩摩の軍船は何とか奄美大島へたどり着き、そこからもう一隻の船に分乗して薩摩に戻ったのである。

 報告を受けた島津吉貴の怒りは凄まじかった。


 代官村谷は即日切腹を命じられ、他の藩士も郷士に格下げされ、郷士は士分を取り上げられたのである。

 その上で、重臣たちのいさめにも関わらず、稼働できる軍船四隻、交易船四隻、将兵三千を琉球討伐のために差し向けたのである。


 琉球から敗軍が戻ってから一か月後のことであった。

 8隻の船団は、一路南下して奄美で補給を行い、琉球へ向かった。


 琉球本島が見え始めたころ、海上に黒船が出現した。

 折からの北風に逆らって進む巨船はそれだけで水夫たちや将兵たちを恐怖に陥れた。


 その巨大な船が接近するにつれ、薩摩軍将兵は唖然とした。

 生還者から事情は聴いていたものの、巨大な船影は広く散開しているはずの薩摩船団の間さえ狭く見えたのである。


 その巨船から雷鳴のような声が轟いた。


「薩摩の軍勢は琉球に踏み入ってはならぬと警告したはずだ。

 直ちに引き返せ。

 さもなくば殲滅する。」


 薩摩の船団を指揮するは、家老格の江崎竜五郎義時であったが、恐怖に駆られながらも「大筒を放て。」と命じたのである。

 四隻の軍船は一斉に砲撃を始めた。


 だが、凄まじい速力と巨大なシルエットに距離感を惑わされ、砲弾はいずれもが届かぬか、外れていた。

 そうして巨大な船がかなりの距離を置いて回頭し、後方から凄まじい速度で接近しつつ両舷の大砲が二発ずつ轟音と共に火を噴き、瞬時に軍船四隻の舷側が一瞬のうちに大穴を開けていた。


 砲弾は後方から斜めに水際辺りの舷を貫通して反対側の舷をも一気に破壊していたのである。

 大きな破孔から大量の浸水があり、たちまちのうちに軍船は動きを止めて傾き始めると、四半時も待たずに水没していた。


 残る交易船四隻に戦う意思は残っていなかった。

 交易船には種子島はあるものの、大筒は備えられていなかったのである。


 彼らはすぐに白旗を上げた。

 降伏恭順の意を見せたのである。


 巨船からは、沈没船からの生存者救助を許され、その後に鹿児島帰投を許されたのである。

 薩摩藩は、手酷い損害を受けたのである。


 軍船四隻を建造するには急いでも数年はかかることになるだろう。

 それにもまして琉球からの収入が途絶えたことが薩摩藩の財政に大きな影響を与えることになった。


 琉球には、その後も巨大船が居座ったが、その半月後には同じ型の巨大船が現れ、交替した。

 宗徳は、琉球滞在中に、薩摩藩士の退去を見届けてから、可奈と尚舎を首里城に無事送り届けたのである。


 実のところ、この一年の間に二度、可奈と尚舎からは秘密裡に文が首里城に届けられており、二人が京都の宗徳の元に身を寄せて健やかに暮らしていることが知らせられてはいたが、数年ぶりの親子の再会は、周囲の涙を誘った。

 琉球国王夫妻の喜び様は、なまなかのものではなく、宗徳が先帝の子であり、かつ、今上天皇の弟であることがわかると、直ちに国賓としての待遇を与えたのである。


 可奈と尚舎は、宗徳の素性を聞いていたが、宗徳の勧めもあって、文の内容が島津の手に渡った時のために敢えて宗徳の素性を隠して、島津の手を逃れ、京都のとあるところに無事に匿われていることのみを伝えさせていたのである。

 可奈と尚舎が京に滞在した1年の間に太秦にある宗徳の屋敷では、彩華に子が生まれていた。


 玉のような女の子であり、薫子かおること名付けられていた。

 仙堂御所の先帝も、松倉の母と祖父母もこの孫の誕生を心から祝福するとともに、十日と空けずに太秦の館を訪れるようになっていた。


 母千代が住む屋敷は仙水屋敷、父が住むは仙堂御所、かくて太秦の屋敷は仙秦せんしん屋敷あるいは仙秦御殿ごてんと巷では呼ばれるようになっていた。

 その主が宗徳であることは京奴きょうやっこ京雀きょうすずめならば誰でも知っていることであり、その妻となった彩華のことも美人としてよく知られていた。


 彩華に比肩できるのは宗徳の母千代と、遊郭祇園では当代随一の太夫として知られる浅香太夫あさかだゆうぐらいであった。

 仙秦御殿に住む者も徐々に増えており、百人を超える使用人がいた。


 公家にあって公家ではない宗徳に、公家諸法度はあって無きものであったから、用人の数に制限などない。

 そもそも屋敷に百人もの用人を抱える公家はいなかった。


 公家諸法度で縛られていることもあるが、それだけの財力がなかったからである。

 公家は本来扶持ふちをもらっているのだが、正三位権大納言でありながら一切の領地を持たない宗徳にはそうした幕府の管轄からも外れていたのである。


 百人を超える使用人の存在は、それだけで物流を招く。

 太秦周辺の商人は地の利を得て、少しずつではあるが活性化していた。


 目先の利く商人は、太秦に進出を始めていた。

 仙秦御殿の年間の食費だけでも小粒金で数十貫が動く。


 衣類やその他の小物だけでもその倍の金が支払われていた。

 更に大阪浪速屋からの物資の流入も多くなっていた。


 浪速屋の交易船は、全国津々浦々にまで行き渡っているために、各地の物産が集まるからである。

 浪速屋は。その品々を京都太秦の商人に降ろし、その品を仙秦御殿が再度買い入れているのである。


 無論、浪速屋の金主である宗徳がわざわざ太秦の商人を介せずに、じかに浪速屋から仕入れ値で買い入れることは可能である。

 だが、宗徳は物流の流れを作るためにわざわざ高い買い物をしているのである。


 浪速屋が降ろす品は、仙秦御殿が買い占めているわけではないから、当然にその品は京都の比較的裕福な商人などによっても購入されるのであり、そうした活発な経済活動に支えられて太秦周辺はもとより、京・大阪の商業活動も活性化していたのである。

 宗徳はその中に琉球との交易を視野に入れていた。


 琉球から薩摩藩士の姿が消えて、半年後、宗徳は朝廷より征海せいかい大使に任ぜられた。

 全ては仙道御所のお膳立てである。


 宗徳の財力と霊元上皇の政治力が、ものを言ったのである。

 征海大使の何たるかが詳しくわからないまま幕府は、その地位を認めてしまっていたのである。


 大使と名のつく名誉職と安易に判断してしまった所為せいである。

 だが蓋を開ければ、外国との交渉を含め、海外交易に関する部分は、征夷代将軍の権限から全て抜け落ちていた。


 内水及び水軍の所管は幕府が行うこととされるのだが、海軍は征海大使の指揮下にあり、非常時には幕府の指揮する水軍でさえ、征海大使の指揮下に置かれることになっていた。

 全ては帝の勅許をもって行われ、幕府の干渉は排除されていた。


 幕府は遅まきながら当該勅許の廃止に向けて裏工作を講じたが、朝廷は一枚岩であり微塵みじんの揺らぎも見せなかった。

 業を煮やした幕府が名古屋、大阪、敦賀に軍を招集して京に圧力をかけようとしたが、逆に幕府が圧力をかけられることになった。


 幕府より命を受けて各藩からの軍勢が集まり始めた名古屋、大阪、敦賀の各沖に巨大な戦船が姿を現したのである。

 名古屋には大小六隻、大阪には大小四隻、敦賀にも四隻が出現したのである。


 その掲げる旗はいずれも金色の菊のご紋が入った錦織であり、その中の小さな戦船でさえ千石船の六倍から七倍ほどの長さを有するものであって、大きな戦船は千石船の二十倍から三十倍の長さを持つ巨大なものであった。

 更には江戸湾には巨船四隻が品川沖に現れ、江戸市中が大騒ぎになった。


 幕府のお膝元が脅威にさらされては、さすがに軍勢も京には進出できなかった。

 幕府が抱える水軍よりもはるかに強力な海上戦力が出現しては、江戸城とて安穏あんのんとはしていられない。


 一戦交えるのにやぶさかではないが、そのために本丸である江戸城が攻撃を受けては、一大事になる。

 招集された各地の軍は、直ちに解散されてそれぞれの国元へと引き上げていった。


 但し、加賀前田家は、敦賀から逆に京へと登り始めたのである。

 無論、戦装束ではない。


 出兵した五千のうち千名を引き連れて、毛槍を先頭に参勤交代時の大名行列さながらの行列であった。

 行列の中心の駕籠には前田綱紀中納言があった。


 綱紀はその期に便乗して、撤退が決まるとすぐに京都所司代に伺いを立てて、養女彩華の生んだ子に会うためにわざわざ金沢から出向いたのである。

 このため、敦賀には加賀藩士千名が各軍撤退後も一月ほど駐留したのである。


 これには、無論のこと裏事情もある。

 幕府は、朝廷の懐柔に宗徳の義父に当たる加賀藩主綱紀に打診して、綱紀から幕府に願いを出させて、面子を保とうとしたのである。


 江戸城の目と鼻の先に巨船が居座られては困るからである。

 ために綱紀の孫との面会のために金沢を離れることは、すぐに許しが得られたのである。


 そうした裏工作は、巨大な戦船が現れた二日後、撤退の二週間前には始められていたのである。

 綱紀にとっても喜ばしい話では合った。


 参勤の折に立ち寄れる場所ではあると言っても、西の琵琶湖を回っての参勤は経費が掛かりすぎて、少なくとも五年以上は間を開ける必要があったのである。

 従って、彩華に子が生まれたと知ってはいても、おいそれと孫の顔を見に行ける場所ではなかったのだが、表沙汰にはできないにしても幕府からの要請であれば大手を振って領地を離れることができるのである。


 前田家一行が京都に入るとすぐにも江戸湾から巨船の姿が消えた。

 幕閣一同は、ほっと胸をなでおろした。


 その後は、征海大使の一件で、幕府が無理押しをすることはなくなったのである。

 こうして幕府とは、全く異なる軍事組織が日の本に認知されたのである。


 強大な軍事力を有する清国や西欧列強もこの新たな日の本の海軍の出現に目を見張った。

 自国では建造できない巨大な船であるうえ、日の本の沿岸近くに寄れば必ずと言っていいほど戦船が現れたし、琉球さえもその縄張りの中にあった。


 日の本は、依然として幕府の方針により鎖国を続けたが、琉球は、清国はおろか南蛮交易にも携わり始めた。

 陰十二菊のご紋をつけた船大工たちが手伝って作った船は、左程大きい船ではないけれど、それまで琉球王国が持ち得たどんな船よりも大きかった。


 帆柱が三本もある船は新たな航海用具を多数積み込んでおり、両舷に六銃身の連発銃を二丁ずつ積んでいるほか、二門の砲を持っていた。

 大砲の口径は二寸五分とさほど大きなものではないが、砲身が長く射程距離も大きい上に、凄まじい破壊力を持っていた。


 この琉球の交易船は、どんな海賊船や武装船にも負けぬ装備を持っていたのである。

 三本の帆柱に複数の帆桁と前帆多数があり、操縦性能もこれまでの船に比べて格段の差があった。


 この船に琉球の若者百名余りが乗り込んで、初の船出をしたのは、島津の影響力が消えて一年後のことである。



      ― 完 ―


 長らく「仇討の娘」読んでいただき、まことにありがとうございました。

 この話はここで完結とさせていただきます。


 なお、次回からは、「戦国タイムトンネル」を掲載予定です。

 投稿時間は、毎週木曜日午後8時の予定です。


 話は日本の18歳の若者が国津神の関与もあって16世紀に転生し、羽柴秀長の息子、羽柴与一郎として生きて行く物語です。

 当然に史実とは異なる話にはなりますが、是非に読んでいただきたく存じます。


   By @Sakura-shougen


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仇討ちの娘 @Sakura-shougen

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