第47話 4ー8 帰還

 畏敬の念を抱かせ、また友として信ずるにあたる人物として、黄大人は最大の儀礼を持ってオランダ領事館の入り口まで自らが送り出したのである。

 次に宗徳を迎えたヘンダーデンも、同じく宗徳に好印象を持つとともにその知性の閃きに恐れを抱かせた。


 西洋事情にこれほど詳しい和人にあったのは初めてのことであった。

 オランダのみならず、列強と呼ばれるフランス、ドイツ、イギリスの知識も豊富であった。


 ヘンダーデンが何かを口にすると、打てば響くがごとき返事が返り、適時の相槌が打たれ、さらにはヘンダーデンが答えられないような質問を発するからである。

 ジパングの者は外交が下手と称されているが、この帝の異母弟は間違いなく外交官となっても辣腕らつわんをふるうだろうと思われた。


 フランス語、ドイツ語、英語はもとより、スペイン語、ポルトガル語、ロシア語にも精通している様子がうかがえたからである。

 このジパングに来て初めて賢人・哲人に出会ったとそう思った。


 無論、賢いと思える者には数多く会ったのではあるが、彼らには世界に関する学が無かった。

 そうしてまた、ヘンダーデンの信ずるキリスト教にさえ詳細な知識を有する和人は、バチカンの優秀な枢機卿をさえ思い起こさせた。


 何故にそのようにキリスト教に詳しいのか、また、キリスト教の信徒なのですかと尋ねると、人が信ずるものの背景を知ることも必要と思っているからだと微笑みとともに答えが返ってきた。

 貴公子の妻女もまた知性あふれる女性であった。


 物静かであるのでオランダ語を解さないのかと当座は思っていたのだが、愛想笑いではなく、ウィットに反応して素敵な笑顔を見せるからである。

 質問を妻女に振り向けると、鈴の鳴るような声でこれまた見事なオランダ語が返ってきたのである。


 オランダ語は誰に習ったのかと問うと、結婚してから夫に習ったと答えが返ってきた。

 しかもどうやら僅かに二月程度の期間であるらしい。


 午後のお茶を楽しみ、ジパングの貴公子夫妻は出島の散策をしながら領事館を引き上げていった。

 長崎に多くの感銘を与えて宗徳一行は翌日には港を出て行った。


 『まつくら』は、長崎からの帰路はどこにも寄港せず、大阪へと向かったのであるが、大隅海峡を避けてさらに南の迂回路うかいろを取っていた。

 大隅海峡には薩摩の軍船二隻が待ち構えていたからである。


 島津公から命を受けた彼らにしても、まつくらが屋久島の南を通過するとは思ってもいなかった。

 長崎を出た船がわざわざ遠回りをして大阪に向かうことは予想もしていなかったのである。


 京の太秦うずまさにある新居に一行が戻ったのは水無月の晦日みそかのことであった。

 可奈と尚舎の二人は仙堂御所に参内して後、太秦の新居に賓客として住まうことになった。


 公的な使者ではないために、帝に拝謁を賜る必要はないとされたのであるが、その事実は帝の側近に伝えられ、帝の耳にも届いている。

 京都所司代も仙堂御所の威光を気にしてか何も手を打つことはしなかったが、その情報は江戸表に伝えられた。


 尤も、大阪浪速屋で、可奈も尚舎もそれまでの琉球の扮装から大和の衣装と髪型に変えていたので、都でもさほどに目立つことはなかったのである。

 島津も京都所司代の目を掻い潜って京の都で騒ぎを起こすことは控えた。


 茨戸衆14名もの腕利きが返り討ちにあったばかりであり、信頼のできる手を差し向けることができなかったのが一因である。

 浪人を使うことはできるが、そこから糸を手繰られては困るからである。


 可奈と尚舎は太秦の新居にあって、日々種々の教えを受けていた。

 彼らの師は、宗徳であり彩華であった。


 ◇◇◇◇


 姉弟の京都滞在は1年余りに及んだが、ある日、宗徳から琉球へ返す算段が付いたと言われた。

 大阪を出た『まつくら』は、一気に南下し、室戸岬の南南西200里余り、琉球からだと80里余り東にある小島に到着した。


 そこで薩摩の軍船などが小舟に見えるような巨大な黒船に乗り換え、琉球へと向かったのである。

 巨大な黒船が琉球沖に到着したのは、その小島沖を発した翌日のことであった。


 たまたま琉球中部にある屋宜湊やぎみなとの沖に停泊していた薩摩の軍船は、巨大な黒船の出現に驚愕した。

 薩摩の軍船に比べると二十倍ほども大きな船は巨大な大砲を積んでいたからである。


 その巨大船から4隻の小舟が降ろされ浜に向かってくるのが見えたので、琉球支配を命じられていた代官村谷幸四郎は、ただちに鉄砲を携えた手勢を向かわせたが、その軍勢があっという間に蹴散らされてしまった。

 二百間を超える距離から威嚇射撃を受けたのである。


 けが人は出なかったが、わずかに数丁の鉄砲と思しき武器から無数の弾丸を連続して放たれた時は、肝をつぶして逃げ帰るしか方法がなかったのである。

 事態の急転に驚く間もなく、それらの小隊は代官所に向かってきた。


 無頼の一団は総勢で八十人ほどであるが、一旦は砂浜に乗り上げた船が何度も往復し半刻も経たぬうちに数百人にも膨れ上がっていた。

 いずれも群青色の衣装を整えた異形の扮装であるが、明らかに軍装である。


 手にたずさえるのはおそらくは銃と思しき武器であり、やがて整然と隊列を組み、代官所へと行軍して来たのである。

 代官所へ二町余りに迫った彼らは散開して代官所に通じる道を三か所に渡り封鎖した。


 南北と西方向である。

 東方向に手勢は配置されていないが、その方向は1町半ほどで海辺であって、逃げ場は無い。


 知らせを聞きつけて周辺の家から駆けつけてきた島津藩の手勢が五百を超えていたが、新型銃の威力を恐れて誰も飛び出して迎え撃つようなことはしない。


 残り三百名ほどは、首里城で警備についているはずだが、これでもし首里城に反乱でも起きれば抑えようがないのである。

 そうして間もなくその恐れは現実のものとなりつつあった。


 代官所から5町ほども離れた海岸に更に巨船からの上陸部隊が集結しつつあったのである。

 その数は周囲を取り巻く数よりもさらに多く、優に五百を超えると思われる数である。


 新たな部隊は、隊列を組むと整然と首里城めがけて行進を始めた。

 代官村谷は、決断をしかねていた。


 周囲を取り巻く部隊は百ほどの人数で三つに分かれている。

 叩くならば西側の部隊を強襲して一気に首里城に逃げ込む策もあるが、同時に先発している五百あまりの兵に迎え撃たれ、背後からは三百を超える部隊に挟み撃ちに遭う危険すらある。


 手持ちの銃は僅かに五十丁あまり、先込め式の種子島は二発目の装填に時間がかかる。

 一方、相手はどう見ても数発以上の連発銃で、全員が銃を携えているようである。


 仮に、百丁の銃が5発を撃てば、手勢が持つ銃の実に十倍の威力を発揮することになる。

 どうみても接近戦に持ち込む以外には手がないのであるが、少なくとも四町以上の射程を有する新型銃に立ち向かうには決死の覚悟が必要なのだ。


 既に初老を迎え、戦に出征したこともない村谷にさほどの勇気はないのであるが、同時に放置してこのままこの異邦人らに琉球を占拠されるようになれば、村谷は鹿児島に生還できたとしても切腹を賜るのは必定である。

 だが、島に駐留する薩摩軍千名足らずの将兵を無駄死にはさせたくはないのである。


 村谷は究極の決断に迷っていた。

 だが何をするにせよ時期を失すれば、何もしなかったと同じである。


 死ぬならば一戦してからと、ようやく腹を決めたのはそれから四半時後であった。

 兵に弾除けの盾になるようなものを準備させるのにさらに四半時を要した。


 手勢五百の手持ちは主に槍と刀である。

 それに加えて、弓が30張、鉄砲50丁が手持ちの武器の全てである。


 大筒4門が来春には届けられることになっているが、いまだその手配もついていない状況では如何ともしがたい。

 沖に停泊する島津の軍船には船頭と水夫しか乗っていないので、海上で巨大な黒船と戦うのは無理であった。


 大筒一門が備えられてはいても、それを扱うものが上陸していては使えないのである。

 仮に大筒が使えたとしてもメダカがクジラに挑むようなものである。


 見た目にも貧弱な大筒一門に対して、黒船の甲板には3つの長大な砲身を備えた砲台と思える装備が前後に各2基、合わせて12門が見えるし、舷側にもやや小さめの2つの砲身が覗く砲台4基が備えられている。

 この大砲が張りぼてでなければ、この大砲は間違いなく相当の威力を発揮する筈である。


 沖の巨船の動きを気にしながら、薩摩の兵士は村谷の下知げちを受けて代官所の南側に集結し始めた。

 少なくとも首里城へ向かった敵との挟み撃ちを避けるために南側の包囲軍を突破しようと考えたのである。


 これならば北側の敵は同士討ちを恐れて発砲しまいと考えたのである。

 そうして号令一過突撃を開始しようとした途端、南側の敵軍から次々に白煙が上がった。


 狼煙のろしではない。

 何かの物体が緩やかな放物線を描きながら集結した突撃隊の中央部めがけて落ちてきたのである。


 兵士たちは右往左往しながら落下場所から避難した。

 物体は地上に落下すると大きく弾んで地面に転がった。


 その瞬間白い煙が周囲に噴出した。

 途端にその周囲にいた兵士たちがバタバタと倒れ始めたのである。


 異変に気付いた時には遅かった。

 周囲に数十発の同じような物体が落下して来て、わずかの間に薩摩軍兵士五百名余りが地面に気を失って倒れていたのである。


 それから半時後には首里城に籠城していた薩摩軍にも同様の攻撃がなされ、薩摩軍兵士全てが昏倒していたのである。

 薩摩軍兵士たちが気付いたのはそれから二刻ほど後のことであり、全員が腕を背後に回され細紐のようなもので縛られていた。


 足首も同様に縛られ白く細い紐ながら大力の者が全力を出しても切れることはなかった。

 返って腕に食い込む紐が痛みを増しただけであった。


 周辺の村に駐在していた島津兵もその日の夕刻までには武装解除されて沖合の薩摩軍船に順次運ばれたのである。

 無論、薩摩軍船もすでに制圧されていた。


 彼らにはなす術も無かった。

 船に備え付けられていた大筒は海中に投げ込まれ、船内にあった武器はほとんどが同じように海に投棄されていたのである。


 水夫二人が拘束を解かれ、帆柱に二丁の小刀を突き刺して、異形の兵士たちは命じた。


「薩摩に帰れ。

 商人の正当な交易ならば場合によって認めるが、薩摩の武士が二度と琉球の地を踏むことは決して許さないと島津公に伝えよ。

 われらは琉球の守護神じゃ。

 仮に、兵士を送り込むならばその全てを殲滅する。」


 兵士が薩摩の軍船を離れると、水夫二人は薩摩兵のいましめを解き始めた。

 薩摩の軍船は比較的大きいものであったが、荷蔵までが鈴なりの状態で兵士が詰め込まれ、その状態で鹿児島に向けて出港したのである。


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