湖底のグラス・レディ、6

「誰だい、それは」

 紅葉は気が付けばルルの両手に頬を挟み込まれており、強引に引き寄せられて覗き込む円い湖と対峙していた。

「紅葉ちゃん!」

 あかねの悲鳴と、クラス中で息を呑む音。「おい、何してんだよ」と間に入ろうとする男子を完全に無視して、すごい力で紅葉の顔を随意の位置に固定している。

 十七の少女の、その華奢な手で出される力ではない。

「やっ……」

「井藤さん」

 影斐が立ち上がって制止をかけるけれど、周りの声などまるで耳に入っていないようだった。

「女だね? 黙っていないで、詳しく教えておくれよ。誰だって? セイトカイチョウ?」

 動転してまともに声も出せずにいる紅葉をすらすら責め立てる編入生。二人を引き剥がそうと何人かが苦心していても、その手は銅像の如くびくともしなかった。

「レディ、落ち着いて。ただの噂、事実無根の噂です」

「お前には聞いていない」

 ぴしゃりと、影斐の否定は虚しく言い捨てられる。

「ねえ、発言には責任を持たなきゃね。それが本当なら僕、ここが涙で沈むくらい泣いてしまうかも……」

 悲しげに細めた目尻にはしかし一滴の水も浮かんでいない。

 どんどん人ではなくなっていく螺鈿の瞳をクラス中が見ている。

「うぐ、あんた、誰……っ、」

「い、井藤さん……! 離してあげて!」

 身体をねじる友達を案じてあかねが声を上げる。

 誰か止めろ、と教室のどこかから小さな呟きが聞こえてきた。しかしこうなってしまっては誰が止められる?

 騒然とした渦中で、誰も見ていない机の上で、影斐は深くため息をついた。

 ……やはり駄目なのか。

「井藤ルル」

 そっと名を呼ぶと、想定より声が響いたのかクラスの全員が影斐を見る。影斐はルルの学生証を掲げて見せた。

「手を離しなさい。これ以上危害を加えるようなら、全て白紙にします」

「…………」

 ゆっくりと首をひねってこちらを向く。そんな彼女を見て、抑えた悲鳴のような声が後ろで聞こえてくる。

 ものすごい圧迫感。下手を踏めば本当に教室を飲み込めそうな冷たい炎。

 これが人魚の怒りか。

「捨ててしまえ」

 しかし、張り詰めた空気を視線一つで支配しながら、彼女の声は薄い氷のように小さい囁きだった。

「……井藤さ、」

「僕を騙そうとするなら、侮辱するなら、理解しないなら、形を変えたって結局同じなら! こんなところまで来た甲斐がない! 捨てたらいいだろ、なかったことにしてやる。もう知らない!」

 ガタッ。机にぶつかる音と、一拍置いて紅葉の咳き込む声がルルからの解放を示した。

 人魚は、その足をもつらせながら、逃げるように教室を去っていった。

「…………」

「なんだったんだ、今の……」

 教室に呼吸の音が戻ってくる。

 力が入らず床に座り込んだ紅葉に数人が手を貸して、動揺と安堵を含んだざわめきが広がっていく。

 そこにちょうど静かに入ってきた数学の先生が授業の支度を始め、クラスメイトたちは不承不承席へ戻っていった。紅葉も特に怪我もないらしく、こちらを一瞥してから大人しく自分の席に着く。

 椅子に手をかける。鐘がキンコンと鳴った。



 放課後の鐘が鳴り、紅葉をはじめ事件めいた出来事を目の当たりにしたクラスメイトたちから質問責めにされる前に教室を抜け出して。

 影斐は婚約者の姿を探して校内を歩いていた。

 授業が終わって一時間も経っていないのに、いやに静かな校舎を彷徨って。裏庭を見てもいつもの場所に影の一つもなく、まるで凶兆を表すかのような沈黙。思わず窓の外へ目をやった。

 怒らせてしまったのだろうか。

 元々一つ踏み外せば命を落としそうな契約だった。人魚との婚約など、湖に身を捧げるようなものだ。湖底に引きずり込まれても文句は言えない。

「…………はぁ、」

 いや。影斐には見えていた。影斐に肩をぶつけながら走り去っていくその姿が、煮えたぎるような怪物の憤慨とは違うことを。

 湖は、相変わらず緩やかに水面を揺らすだけ。

 教室へ戻ってみてもやはり彼女はいない。半ば諦めて、今日は帰ろうと廊下の個人用ロッカーを開けた。

「……井藤さん?」

 その中に、二度と見ないはずの少女の姿。

 影斐のロッカーに、膝を抱えてうずくまった人魚がすっぽりと入っていた。

「こんなところで何を……人間が入れるスペースあったのか……」

 それにしてもよくこんなピッタリの隙間に入ったなとは思うが、なら影斐の教材や鞄はどこへ行ったのか。冷静に呆れる自分より、予想外すぎて唖然とする方が大きくてまともに言葉が出てこない。

 腕にうずめているせいで彼女の顔は見えないけれど、開けてしまった以上こちらに気付いていないわけがない。

「許されると思うなよ」

 くぐもった声がロッカーの中で響く。

「こんな裏切りをされるくらいなら、湖の底でぐるぐる泳いでた方がましだった」

 痛みに耐えるように震える声。

 狭いロッカーに隠れているせいか、今まで少なからず異物で脅威に感じていた彼女の心が、小動物のように小さく萎んで見えた。

「……くるのが遅くないか」

「いつからこんなところに入ってたんです」

 何か気配を感じて振り返ると、教室の出入り口からあの執事が顔を覗かせていた。手にはロッカーにあったはずの影斐の鞄を抱えている。まさか、昼休みに教室を飛び出してからずっとここで待っていたのだろうか。なんて面倒……難しいひとだ。

 影斐は彼女の足元に学生証をそっと置いて。

「生徒会長の件、……あれは根も葉もないデマですよ」

 人魚は少しだけ顔を出した。ちらりと見える目が赤く腫れていて、ロッカーが水浸しにならずに済んでよかったと思った。どちらにせよ荷物は追い出されているけれど。

「私が副会長だからそういう関係を期待されるんです。それだけです」

「……本当?」

「嘘なら町ごと沈めて構いません」

 真顔で覚悟を決める影斐に、ルルは思わず笑った。

「逡巡なく言うけど、さては反省してないよな」

「いえ……」

 実際、あのような暴行まがいのことは金輪際やめてほしいところだ。今日の収穫といえば、おそらく影斐の力ではルルに腕力で敵わないということだけ。うっかり機嫌を損ねたら首の骨だって折られかねない。彼女の気まぐれがお互いの立場を危うくするようなことがないことを祈る。

「全く、火のないところには煙だって立たないんだ。君の態度が中途半端なのが悪いんだろ。生徒会長がなんだか知らないけどあれがデマなんだったら、だから君は誤解されるんだ」

「はあ」

「はあじゃないよ」

 小言を言いつつ、差し出された影斐の手を取って狭い箱から出てくる。

 影斐は胸を撫で下ろす代わりに、ふっと瞼を伏せた。


「いい機会ですから、お会いになりますか」

「……だれに?」

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