湖底のグラス・レディ、7

 生徒会室。二人は二つ並んだ一人掛けソファにそれぞれ座らされ、突然始まった説教にじっと耐えていた。

「……いいわ。あなたたちが双方の合意上で結婚の約束をしたことは分かった。だけどそれを誇張して言いふらすのは少し短慮だったんじゃないかと思うのよ」

 これが? とルルに耳打ちされたので影斐は顔を動かさず首肯した。正面に座るのは影斐と同じ生徒会役員の腕章をつけた、責任感の塊のような女子生徒。部屋を訪ねてきた影斐とルルをみるなり眉を吊り上げ、あれよというまに迎え入れた張本人である。

「はい。小葉こばほたる……件の生徒会長です」

「おい、美少女じゃないか」

「何か関係が?」

「聞いてるの、あなたたち」

 小葉ほたるの爪がトンと弱く机を打つ。

「いい? 婚約自体をどうこう言ってるんじゃないの。順序も踏まずに夫婦を名乗るのが問題なの。そうでしょ? うちの生徒がそういう浮ついたことじゃいけないわ。影斐。あなたは副会長として弁えていると思っていたんだけれど」

 責を問われても影斐は馬のように知らぬ顔で言い返した。

「予想はしてたしある程度は構わない。往々にして、事実が捻じ曲がって伝わるのも避けられないから」

「それは、わたしに皺寄せが来ても構わないって言ってるのね」

 ため息まじりに眉間を押さえてほたるは言った。しかし落とした肩を再び伸ばし、ルルに向き直る。

「もう、こいつはいいわ。それで……井藤ルルさん」

「え?」

「あなたに関して、もう一つ噂が立っているわ。……あなたが『湖のレディ』を名乗った、とか」

 出された紅茶に気を取られていたルルはカップの青い縁に口をつけながら少しだけ首を傾げてみせた。

「そんなことしたっけ」

「あれはほぼ肯定したようなものですよ」

「ああそう。まあ僕の神秘性っていうのが溢れて止まらないから、注目を浴びてしまうのも仕方のないことだよね!」

 きらりと誇らしげにルルは言う。ついさっき本性を表しかけてクラスメイト全員を震え上がらせたのはすっかり忘れたのか、切り替えが良すぎるのか。

「……ほらで注目を集めようとするのは褒められたことじゃないわ」

 生徒会長は低く呟いた。そしてふと腰を浮かすと、ルルの手を丁重に掴んでティーカップを置かせる。

「頭ごなしに否定するのは節度を過ぎることだけど、あえて言うわね。それを利用するのはやめなさい」

「ん……?」

 戸惑いの視線を向けられても、影斐に割り込む余地はない。隣で静観を決め込むべくカップを持ち上げた。

「正直なところ、土地柄かうちの生徒……特に女の子はなんだかふわふわしているというか、夢見がちでメルヘンなものが好きな子が多いわ。あなただって同じ年頃だしそれ自体はもちろん自由なんだけど。でも湖のレディを話題に出すなら話は別よ。どうしてか?」

「あ、えと」

 グイグイと迫るように諭されて固まってしまったルルに、生徒会長は続ける。

「地域では繊細な話題だから。ましてや編入したばっかりの子が本人を名乗ったりしたら反感を買ってしまうこともあるかもしれないわ。差し出がましいけど、あなたの噂に不当な尾びれがつく前にやめた方がいいと思う」

 分かった? 返事は?

 じっと見つめられたルルはとうとう黙ってただ小刻みに頷いた。

 すると生徒会長はふわりと微笑んで、気が済んだのかようやく向かいのソファに腰を沈める。

「よかった。それじゃ、真面目なお話はここまでにしましょう。影斐、フィアンセを紹介してくれる?」

 生徒会長はこの件に関してまだ何も起こっていないと思っているからこの程度の注意で済んでいるが、先程の騒ぎを知られたら流石に笑って済ませてくれることはないだろう。絶対にうるさくなる。影斐はあえて報告を伏せることにした。頼みに従って、居ずまいを正して手のひらをルルに向ける。

「ほたる、こちらは私の婚約者の井藤ルルさん。井藤さん、二度目になりますがこちらが小葉ほたる。私のいとこで、……上司のような感じです」

「よろしくね」

 指先の揃った右手を差し出して、ほたるは柔らかく微笑んだ。ルルはおずおずと握手を受け入れる。「……いとこ?」

「いくつも厳しいことを言ってごめんなさい。これも仕事だから。それで、なんて呼んだらいいかしら」

 何度目か、ルルがこちらを窺うように目配せをする。なんだか生徒会室に来る前より肩が小さくなっているような気がして、思わず影斐は無言で頷いた。

「えっと……ルルでいいよ」

「ルル。わたしのこともぜひ名前で呼んでね」

 口調や姿勢こそ大きな違いはないが、公私を切り替えたことで柔和な雰囲気を纏う。ほたるの得意とする使い分けにルルは流されるように受け答えをして。

「って、違う。いとこって言った? 聞いてないぞえい君」

「はい。私の母とほたるの父が姉弟にあたります。ですから疑いもそろそろ……」

 緊張を放り出し、ルルはキッと影斐に向かってこぶしを振り上げるフリをする。

「いとこだからなんだよ。騙されてないぞ。こんな可愛い子が小さい頃から一緒にいたら男の子はドキドキしちゃうに決まってるだろ!」

「…………」

 彼女のショックは存外根深いようで、疑いの芽が摘めない。なかなかの暴論だとは思うが根拠のない信じ込みほど崩しにくいものもない。途方に暮れて影斐は目を回した。

「なぁに? なんの話?」

「井藤さんが私とお前の恋仲を疑ってる」

「はっ!?」

 思わず跳ね上がった声に自分で驚いたのか慌てて口元に手を当てる。それから、ほたるは少し抑え気味に影斐に噛みついた。

「なんでそんなことになってるのよ」

「噂になってるらしい。勘違いしているクラスメイトがいたんだ」

「はあ……? もう、ちょっと、否定したんでしょうね」

「とりあえず先にこの人の疑いを取り払ってくれないか」

 ルルを指し示して影斐は言った。ルルは未だに眉を寄せてこちらを睨んでいる。

「他力……」

 ほたるは深いため息をついた。

「もちろんありえないわ。全然可愛くないし」

「お前に可愛がられても仕方ない」

「そうでしょ? ていうかそういう噂が立つのだって、半分はあなたが人と関わるのを面倒がるから。今年が最後の年なのよ。あなたそれでいいの?」

「…………」

「……ね、そういうことよ。分かってもらえたかしら」

 人形のように黙した影斐を諦め、ほたるは苦笑まじりに笑った。ルルは唇を結ぶ。

「むう……」

「さ、」

 小さく唸る声に重なって、空になったほたるのティーカップがソーサーに置かれる。

「生徒会室はお茶会用の部屋じゃないの。部活もないならもう帰りなさい」


 ぽんと放り出されるように生徒会室を後にした二人。影斐は鞄を持ち直しつつ、いつになくおとなしくなってしまった隣のひとをちらりと窺った。

「いつものふてぶてしさをどこへやったんです」

「なんだろうね。あの子、緊張するんだけど」

「そうですか」

 多くの生徒にとって生徒会長としての小葉ほたるはまるで誰より厳格な教師のようだ。影斐にはただの幼馴染でも、プレッシャーを抱く生徒は少なくはなかった。さしもの人魚もその例外ではないらしい。

「君は……あれだよね。緊張してないっていうか遠慮ないっていうか。僕といるときと比べて」

「いえ、そんなことは……」

 こちらを見上げた目が嘘をつくなと釘を刺すように光って、影斐は口をつぐんだ。

「あるよ、遠慮。君は僕を怖がってる」

「……あれとは付き合いが長いからですよ」

「親しいんだ? フーン」

 奥歯にものが挟まるような相槌。それから前触れなくすっと歩き始めた。

「じゃ、帰ろうか」

「……はい」

 疑いを払拭できればと思ったのに、微妙に不信感が残った気がする。

 裏目に出たり、それを修復しようとしたり。

 ころころ変わっていく表情に、影斐は目を回すのだ。

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