湖底のグラス・レディ、5

「井藤さんってさ、なんなんだろうねあれ」

「井藤さん? ……ああ、」

 洗ったばかりの濡れた手でハンカチを取り出しながら、水澄みすみ紅葉もみじの呟きにぼんやりと返事をする。

「自称『湖のレディ』ちゃんでしょう。あれって本気なのかしら」

 高校最後の年に現れた編入生の存在は、好奇心旺盛でいつでも話題に事欠かない娘たちにとってかっこうの種であった。

 一番おしゃべりな紅葉は短く笑った。

「いや、そこ? どうせ編入デビュー用のジョークでしょ! それだって滑っちゃってるけど。ウケる」

「編入デビューとはあんまり言わない気がするけど」

 鏡に映る重ためな前髪を整えながらあかねが会話に加わって、小さく笑った。さらに水澄が一蹴されたのを気にも留めずコメントを足して言う。

「だけど納得もしてしまうわ」

「ええ……、それほんと?」

「あかねもわかるわ。よく見てみたら」

「確かにレディの名前にふさわしく、すごい美人だけど」

「そんなことはいいってば。妄想に決まってんじゃん。そもそも人魚なんて昔のおとぎ話だし」

 思ったのと違った方へと話が運ばれていくので、もどかしそうにスカートをはたきながら紅葉はぞんざいに言い切る。

「どうしたの紅葉ちゃん」

 あかねの問いかけに力強く人差し指を立てて、女子トイレにいることも忘れて声を張り上げた。

「他につっこみどころあるでしょうが!」

 二人は顔を見合わせた。


「お一人ですか」

「くるのが遅い」

 井藤ルルが編入してきて初めての昼休み、声をかけると理不尽にも彼女の一言目はこうだった。

 裏庭の水路は今日も寂寂としている。柵に寄りかかって弁当を膝に置いた彼女を見つけるのはそう難しいことではなかった。

「やれやれ……遠慮がちなんだな、みんな。高嶺の花に声をかけるのに緊張してるんだ」

「誰も誘わずこんなところで隠れていれば一人にもなります」

「朝はおはようって言ったぞ」

「それでどうでしたか」

「普通に返してくれたと思うけど」

「普通に、ですか」

「なんだよ」

 昨日の強気な宣言はどこへやら、グループに入りそびれてしまった井藤ルル。確かにルルは丁寧に一人ずつ挨拶をしていたけれど、クラスメイトたちの反応は不自然にぎこちなかった。

 少し悔しげに見上げてくる彼女の横に立ち、影斐は自分も簡易的な昼食を取り出した。

「ていうか、それはなんだ。何を食べてるんだ?」

「昼食ですが」

「そんなので足りるか、お馬鹿。えい君のはこっち」

 膝に押し付けられた見覚えのない漆器の弁当箱を受け取って、名のない草と水玉が描かれた漆黒の蓋を見下ろした。開けてみると素朴でバランスの考えられた食事が詰め込まれている。

「これは、……あの執事ヒトが?」

 首肯する代わりに、ルルは肩をすくめた。

「君の分だよ。居間に置いてあったのに忘れていったろ。ちゃんと持ってってやってくれ」

「…………」

 ルルと共に我が家にやってきた寡黙な老紳士。彼は説明もないのにいつの間にかうちのキッチンを使いこなしているらしい。執事なんだか、家政婦なんだか、シェフなんだか、もう分からない。

 見ればルルの持つ濡れば色の弁当箱も同じ形で、蓋には菱形の紋様が描かれている。まるで二つで一対のような弁当箱。それを抱えて彼女の横に座り込み、影斐は自然を手を合わせた。

「どうだい、美味しいかい」

 自分で作ったわけでもないのに得意げな顔をしてルルはこちらを眺めている。

「……向こうから寄ってくる、でしたか」

「うるさいね」

 彼女は八つ当たりのつもりか影斐の足に軽くこぶしを食らわせた。

「お任せしますと言った手前、口は出せませんでしたが。貴女以外はほとんどの生徒が知り合い同士なんです。クラス替え直後とはいえグループの形成もあっという間でしたね」

「おい、勘違いするなよ。昨日はお前がああやって言うから予想を口にしただけだからな」

「……”お前”?」

「はいはい、ア・ナ・タ」

 煩わしそうに訂正して、彼女は言う。

「僕だって、小さくて凡庸なメダカの群れに僕のような存在がそぐわないという自覚はある。それでもまあまあうまく溶け込んだと思うけどね。君だって昨日、サポートすると言ってくれたじゃない? 何か不備があるの?」

 昨日はもう少しやる気を見せてくれていたのに、たった半日放っておいただけで冷めてしまったようだ。

「私のことは数に数えないで下さい。昼休みにこの有様では、今日も誰とも帰れないままです」

「一人でいることがまるで不自然かのように言うじゃないか」

 重めの言葉が刺さった。影斐は反論の言葉を失う。

「…………」

 口をつぐむ影斐の肘につんと触れて、宥めるようにルルは微笑みかけた。

「ね、僕は今のままでも新鮮で楽しいよ。なんだかんだ、君がこうやってきてくれるしね」

「……すぐに飽きますよ、二人だけの生活なんて」

 孤独を謳歌する。湖畔にぽつんと立って、口笛を吹くような。悪い過ごし方じゃない。影斐だってメダカの群れで水の流れを享受するよりも、孤独の楽を取ったのだから。選んで一人を過ごしているとはいえ、群れることをやめた彼が、一方では彼女に友達を作ることを強く勧めるのは筋の通らないことだろうか。

 しかしこれじゃ、湖の底でごぼごぼ泡を吐いているのと何が違う?

 そんなことでは婚約した意味がない。

「孤高すぎる高嶺の花は、避けられるのと大して違いがない。せっかく制服まで下ろしたのに、それじゃつまらないでしょう」

「…………」

 人と関わってほしい。

 できれば影斐が助ける必要がないくらい、人の輪に受け入れられてほしい。

「作戦を立てましょう。陸で貴女が退屈しないように」


 と、言ったものの。


「それで……」

 鬱蒼とした森を目前にしたような顔で、教室の入り口で立ち止まった彼女はこちらを振り返った。

「作戦ってのはどういうのだ。僕は何をしたらいい?」

 もちろん、まだ何の戦略も立っていない。

「試しに話しかけてみたらどうですか」

「それで?」

「ちゃんと受け入れられれば解決です」

「おい。さてはまるで考えてないな」

 あからさまな仲介は影斐には向かず、うまく助言ができるわけでもない。クラスメイトとどう仲良くなるかとか、影斐にわかるわけもない。

 影斐はもはや婚約者の不平を聞く耳を持っておらず、話し合っていたことすらなかったかのように自分の席へ戻っていく。ルルは諦めたようにため息をついて、窓際にかたまってだんしょする女子たちの輪に割り込んだ。

「やあ。こんにちは」

「うわっ……」

 戸惑った顔の三人の顔を順番に見て、爽やかに微笑みかける。そこまではいい。

「何かって言ったな。そうだな……君たち」

「な、なに?」

「僕に何か質問があったら答えてあげよう」

 ……やはり駄目か。

 女子たちは互いに目配せをしてから、ややあって紅葉がルルに身体を向けて口を開いた。三賀紅葉。クラスメイトとの関わりが薄い影斐はよく知らないが、高等部からティリアに入学してきた外部生である。

「じゃ、遠慮なく。ズバリ八十科くん」

「八十科くん?」

「あんたと八十科くんって、結局どういう関係?」

 本当にズバリだな、と他人事のように耳だけを傾けて影斐は思う。三賀紅葉は恐ろしくも常に直球、遠回しなことをしない。

「昨日言ったろ、ふう……おっと違った、婚約者だ」

「それほんと?」

 ルルの言葉を半ば遮るようにしながら紅葉は言った。

「八十科くんってさあ、聞くところによるとこの辺では名家のおぼっちゃんらしいんだよね。そんでモテるのにフラれた乙女は数知れず。ぜーんぜん人に興味ないの。ね? どっからきたかも誤魔化すような子と結婚するわけないじゃん」

 ね、と彼女は目配せしてくる。よく本人の前で本人の説明ができるなと口軽さに呆れつつ、ストレートな評価には心外ながら別段否定しなければならないような中傷でもない。影斐は無言、無反応を貫いた。

 黙って聞いていたルルは腕を組んで、挑戦的な紅葉の表情に引っ張られるように棘ついた視線を彼女に向けた。

「だからなんだ。こいつの性格なんてとっくに分かってることだし、それが君に疑われる理由にはならないだろ。それに」

「そーれに」

 ルルの反論に被せて紅葉は言った。

「八十科くんって生徒会長と付き合ってるんでしょ?」


 ルルがこちらを振り返れば、見開かれた目には異様な光が宿っていた。

 裏切り者を見る目であった。

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