湖底のグラス・レディ、4
「案外すんなり溶け込みましたね。人間のことなんて貴女には分からないと思っていましたが」
「お前は僕を侮っている節があるよな。真似っこは得意だ、心配するな」
早めの放課後、帰ったのかと思ったらふらりと校内探索をし始めて、黙ってついていけば彼女はとうとう裏庭に流れている水路を見つけてしまった。ルルが何の予兆もなく柵をよじ登って水へ飛び込むのを、止める間もなくただ見守った。ルルの言動にも笑っていた温厚なクラスメイトたちがこれを見たらどう思うのだろうか。
「お友達と帰らなくてよろしいんですか」
「友達? 誰だ?」
「教室で喋っていた人たちがいたでしょう」
「あ、そうだね。でもお前だけ男子だと気まずいだろ」
「私は一人で帰るので」
「……お前、僕のことほったらかしにする気か? 薄情だね」
井藤ルルは人間の姿を得ても気まぐれで、影斐が何か言う前に制服のまま透明な水の中に溶け込んでしまった。クラスメイトを追いかけようという気はないらしい。
「同じクラスですから多少の補助はするつもりです。……まさか早々に余計なことを言うとは思いませんでしたが」
「後から文句をつけるなよ」
水中でもこちらの声は聞こえているらしい。ざばっと上がってくると水面の下で揺らいでいた輪郭が鮮明になる。こうやって頭だけ出していると、少女の姿をしていても人魚の面影を思い出す。
「そう言うのって事前に伝えておくべきじゃないの? 言ってほしくないことがあるならさ」
「そ……」
言っていることはまともなのに、ここまで飲み込みきれないことも中々にない。影斐は言葉もなく、代わりに深いため息をついた。
対して相手の顔色に頓着しない人魚の婚約者は、何気なく話を続ける。
「それとも最初から『湖のレディ』を名乗った方が良かったのかな」
影斐はまた、とっさに言葉が出なかった。
聡いのか、試されているのか。まるでイルカの背中に乗らされているようだ。知ってやっているのなら末恐ろしい。
「そういや『湖のレディ』ってのは何だったんだ? お前が言うお友達が言ってたけど」
「人魚伝説ですよ。ずっと昔、この街が小さな村だったころ、湖に人魚が住むようになったそうです。しばらくは村人とよくしていたようですがあるとき突然彼女は湖底へ沈み、
腰から上を人の身体、下半身に魚の尾をもつマーメイド。外国のお伽話に出てくる妖精のような姿はまさに、昨晩であった彼女と同じ。人間のふりをしきれないで、水路に飛び込みこちらを見つめる少女。
「眠る前に彼女は村人と約束をしました。自分が再び目覚めたとき、彼らの願いを叶えると。それ以来私たち九沈の子孫は人魚の目覚めを待っているんです。」
彼女は異国から渡ってきたとする説がある。レディという通称はそこに所以があると言われている。
「ふうん。確かに、人魚とか言われると些か不本意だけど僕がそう呼ばれるのも頷ける。なら、ようやくの目覚めなんだね」
けれど彼女は他人事のように呟いて、頭上の水鳥を見上げている。
「貴女が、彼女ではないのですか」
「よく分からないな。気付けば泡の間を漂っていたから。聞いたかんじ、なんだかシンパシーを感じなくはないけど」
「…………」
冷たい金属に身体を預ける。ルルがしたように狭い空を見上げれば、春先の午前中、日差しの届かない校舎裏はぱしゃぱしゃといたずらに水を蹴る音しか聞こえなくなる。
彼女には自認がないらしい。
しかしこの九沈のほとりに語られる人魚は湖のレディただ一人。九沈湖のように伝説が深く染み付いた土地なんて世界にごまんとあるが、それでも時は現代。文明や化学や人の常識を超越したようなものがそうほいほいと生まれてきても困る。
たとえ別の名を名乗ろうと、疑いようもなく、彼女は湖のレディに他ならない。しかしクラスメイトたちがそれを信じるかどうかはさして問題ではない。本気にされなくても、井藤ルルがちょっと痛い高校デビューを果たした……それだけだ。
視線を戻すとルルがこちらに手を振っていた。
「おい、おーい。寝たかと思ったよ」
「問題ありませんよ。もし貴女の正体がバレたとしても、血肉を狙われたりはしませんから」
「怖ッ。なんだそれ」
人ならぬものを保護してしまった以上、影斐には監督責任がある。最低限、安全性は確保したい。湖のレディという存在は身元不明のUMAよりも信用性が保証されるだろう。例えるなら、ネス湖の首長竜のような。遠野の川に住むきゅうり好きの妖怪のような。
「それよりお友達と帰らなくてよろしいんですか?」
「またそれか。流石にもう追いつけないだろ。朝だってお前が案内してくれたんだからお前が僕と一緒に帰ればいいじゃない。どうして別の奴と帰らそうとするんだ」
「…………」
確かに、道を覚えるのに片道だけというのは不親切か。電車だってあるし、きちんと覚えてもらった方がいいだろう。影斐はようやく頷いた。
「分かりました。帰りの道も説明します。明日は誰でもいいので仲良くなれそうな人でも誘って下さい」
「頑なにクラスメイトとつるませようとしてくるな、お前」
井藤ルルは苦笑した。影斐の横着した魂胆が見透かされていそうな軽い呆れ顔。それから、とんと手のひらを自分の胸に置いて言った。
「そんなに心配するな! 僕くらいになれば、向こうから友達になりたいと懇願してくるだろうさ」
「……そうですか。お任せします」
言動はともかく、どうやらコミュニティに参加することには前向きでいるらしい。それなら見守るくらいしか影斐にできることはない。下手に介入して自分まで巻き込まれたら面倒だ。
影斐は鉄柵に預けていた肘を引いて、得意げにしているルルに手を差し伸べた。するとルルは素直に水から上がってきて、影斐の手を借りながら柵を乗り越え戻ってくる。
「それと、私の妻になるひとは他人のことを『お前』とか言いません」
「注文が細かいなあ。まったくもう」
井藤ルルはまた苦笑した。
「これでいいかい。
水浸しの婚約者はにっこりと綺麗に微笑んで。
彼女の瞳を通しても、自分の瞳が不自然に光っているのが見えた。
「どうか楽しんで。良識ある範疇で」
◯
翌日の光景は、予想がついていたというか。
ルルの座る席は無名の画家の絵が飾られたショーケースのごとく、人が寄り付かず静かなままだった。
昨日の人気ぶりが嘘のよう。あれはその場限りの好奇心の波だったらしい。
編入生、井藤ルルは孤立した。
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