湖底のグラス・レディ、3

 湖のレディ。

 腰から上に人間、下半身に魚の尾をもつ伝説の生き物……漢字二文字に戻して人魚。英訳してマーメイド。空想や見間違いと嗤われながら、いつかの誰かの記憶では確かに実在した生き物たち。それでも、お伽話やメルヘンの中では今でも妖精姫として自由に息づいている。

 影斐えいの故郷ではたった一人のその存在を、敬愛を込めて『湖のレディ』と呼ぶ。



「いやあっ!」

 威勢よく登校した人魚は校門前の道で二の足を踏んで、影斐の腕にしがみついた。

「おい、なんだよこいつ!」

 突然騒ぎ出したと思ったら、茂みからぴょんと柔らかな生き物が飛び出てくる。

「猫」

「帰ろう、早く! よくわからないけどあいつはまずい」

「猫ですよ」

 赤茶色の三角耳と緑の目がぴくりとこちらを向く。しかしすっかり人に慣れた猫は特に逃げようというそぶりはなく、あくびをしてゆったりと通り過ぎていった。怖がって騒いでいるのは人魚このひとだけだ。

「やっぱり本能ですか。半分が魚だからって貴女のことを食べたりはしませんよ」

「人魚って言わなければなんでも言っていいわけじゃないからな」

 彼女は光線でもでそうな目つきで睨んでくる。

「盾にしないで下さい。私だってアレルギーなんです」

「奥様が怖がっているのにお前ってやつは」

「婚約者、ですからね」

「はいはい」

 彼女は影斐の影から出て、再びぽんと歩き出す。天敵が去った後の態度は魚というより、おしゃべりな小鳥のようだ。

「さあ、早く行こう」

「はい。……あの、その前に」

 カードを一枚差し出すと、少女はそれを指でつまんで受け取る。

「これはなんだ?」

「貴女の学生証です」

「おお、これが身分証か」

 怪訝そうだった顔がぱあっと明るくなり、まるで子供がビー玉をもらったように朝日にかざして『身分証』をじっと眺めた。

 思っていたより、彼女は陸の世界に興味があるようだ。

「……では、『井藤ルル』さん。これで貴女は堂々と本校に入れます」

「え?」

「陸での貴女の名前です。本名では何かと不便になりますし、こちらを名乗って下さい」

 やけに用意がいいじゃないと『井藤ルル』は首を傾げる。個人が名乗るには連作『クララ・モン・シェール』はこの地ではあまりに有名すぎる。こちらの都合だが、できればやめてもらいたい。

「い、とう、るる……」

「これからは井藤さんとかルルさんとか呼ばれるようになります」

 彼女は口の中で何度か響きを確認すると、歯を見せて笑った。

「いいね、気に入った」

 その歯はすっかり人間のものだった。

「じゃあお前もルルって呼んでくれるんだね?」

「……行きましょうか、井藤さん」

「さ、季節は春。水はまだ冷たいが、青少年には待ち侘びた出会いの新学期だ。エスコートしたまえ!」

 そうして編入生『井藤ルル』は跳ねるように靴を浮かせ、校門をくぐる。影斐はそれを追いかけて、新鮮な気持ちもなくただついていった。


 私立ティリア高等学校は九沈湖の湖畔、自宅のほぼちょうど対岸にある。最寄り駅からローカル線にのり、盆地の坂を沿って南へ十分揺られたところに建っている。

 九沈町にすむ中高生のほとんどがここに通うので、小学校を隣に構えた中高一貫のティリアでは新学期を迎えたからといって新しい出会いがあるはずもなく、最高学年へ近づくにつれ馴染みのある顔ぶればかりになる。誰も編入生が来るなどと期待するはずもない。

 進級の直後、誰も気付かない隙にねじ込まれた一人分の席に新顔が座っていたとして、それが受け入れられるかどうかは受験を控えた彼らの余裕と好奇心の強さにかかっている。

 そう思いながら始業式を過ごした影斐はクラスメイトより一足遅れてひとり教室へ向かう。

 戸を開けた頃には各クラスで行われる朝会のプログラムもほとんど終わっていて、担任の号令で一斉に椅子が動くところだった。早々に帰宅していくクラスメイトとすれ違いながら、影斐は井藤ルルの席を探した。

「井藤さんはどこから来たの?」

 見つけたのは廊下側前列の机。周りには思ったよりわいわいと人が集まっている。

「僕?」

「引っ越してきたんでしょう?」

「あたしたち近所に住んでいるから、困ったことがあったらいつでも聞いてよ」

 世話好きなのか好奇心が旺盛なのか、女子生徒たちが井藤さんにあれこれと話しかけている。

 浮世離れしているといえば本校の生徒たちもそういうところがあるし、彼女のように出自が特殊なものでも案外溶け込めるのかもしれない。影斐が無理に取り持ったりせずとも大丈夫そうだ。逆に、自分が慣れないことをして裏目に出る方がよろしくない。

 有り体に言えばうまく間に入れる自信がない。

 影斐は扉近くに立っていた担任に短く挨拶をして、そのまま廊下で様子を見ることにした。

「湖の底だよ」

 ルルはさらりと答えた。

「え?」


 どささっ。

「うわっ、どうした八十科くん」

 仕舞おうとして鞄に傾けたプリント類が全部手元から滑り落ち、通りかかった同級生に目撃される。

 不覚。


「湖って、どこの?」

「もちろんここ、九沈湖だ」

 カミングアウトに対してあまりに迷いがない。

「まあ、お前たちにとっては手を触れるのもためらう聖域だろう。だけれど恐縮することはないよ。僕も高校生、お前たちとは対等な仲だ」

 慣れない場所に一人で放り込まれても緊張やナーバスとは無縁らしい。絶好調に語るふてぶてしい編入生に、流石のクラスメイトたちも戸惑ってしばし沈黙が流れた。

「……もしかして、湖のレディが好きなの?」

「レディ?」

 壁一枚を隔ててひやひやしている影斐をよそに、無邪気な女子たちはめげずに会話を広げていく。

「九沈湖に伝わる伝説なの。九沈湖の底には昔から『湖のレディ』が眠ってて、今も私たちを見守ってくれているのよ」

「ふうん」

 ルルは初めて聞いた言葉のように咀嚼して、顎に指を添えてつんと仰ぐ。

「レディ、か。この湖で最も尊い存在が僕だからね! なにせこの尾びれも鱗も、人の持たない宝石だ。つまりは僕がクラ——」

 飛び込んできた影斐の手に遮られ、声が途切れた。

 危ない。

「——井藤ルルでしょう、貴女は」

 ファイルを顔面に受け止めて少しよろけるルルに、顔を寄せて小声で言った。不自然に上がる周囲の黄色い歓声は聞こえなかったことにする。

「失礼。前髪に虫が」

「だとしたら僕の顔の前で潰そうとするな」

 ファイルがばしっと奪われ、今度は自分の顔に叩きつけられる。

「遅かったじゃないか。お前の自己紹介だけ間に合ってないよ」

「生徒会役員は全校朝礼の後片付けがある。先生もわかっています」

「生徒? 役員?」

「井藤さん、八十科くんとお知り合いなの?」

 意外そうな声にしまったと思った。しかしほぞを噛んでももう遅い、井藤ルルとは嘘をつかない人物であることをものの数分で理解してしまっている。

 だから、次の言葉を予想するのも容易だった。

「うん。夫婦だからね」

「違います」

 即座に訂正しても、言葉のインパクトというのは完全には拭いきれない。

 集まっていた同級生の甲高い声が揃って繰り返した。

「……夫婦!?」

「違う」


 仰々しい鐘が鳴る。周囲のいらない期待と婚約者の挑戦的な視線で幕を開ける新学期の朝。高校最後の一年間、誰に邪魔もされず、静かに過ごす予定だったのに。

 いや、あの夜……人魚を暗闇の湖から引き上げた時点で、そんな構想は狂いに狂っていたのだろう。

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