ある日、弥矢は庭にしゃがみ込んで、小さなプランターをじっと見つめていた。そこには、彼女が春から大切に育てていた花の枯れた茎が残されている。かつて鮮やかだった花びらはとうに散り、今ではその名残すら風に飛ばされてしまっている。


「…ごめんね、もっとちゃんと水あげてたら…」

弥矢の声は掠れ、小さな手が土の中に埋まった茎をそっとなぞる。目に涙が溜まっているのが、自分でもわかった。


その時、後ろから柔らかな声がした。

「弥矢?」

振り向くと、母親が微笑みながら立っていた。手にはコップ一杯の水を持っている。


「花が…枯れちゃったの。」

弥矢は泣きそうな顔を母親に向けた。彼女の声は震えていた。

「頑張って育てたのに…死んじゃった。」


母親はしゃがみ込み、弥矢と同じ目線になると、そっとプランターの中を覗き込んだ。枯れた茎の下には、小さな黒い種がいくつも転がっていた。


「弥矢、これ見てごらん。ほら、種ができてる。」

母親は優しく種を指差した。弥矢は目を丸くしてそれを見つめる。


「…種?」

「そうよ。この花は枯れてしまったけど、ちゃんと次の命を残してくれたの。生きているものはいつか必ず終わりを迎えるけど、それだけが全てじゃないのよ。」


母親はそっと弥矢の頭を撫でた。

「命は繋がっていくもの。こうして種を蒔けば、また新しい花が咲く。それはね、生きることだし、幸せなことなんだと思うよ。」


弥矢は黙ったまま種を見つめた。その小さな手が恐る恐る一粒を摘むと、掌の上に乗せた。軽くて、小さくて、壊れてしまいそうなものだった。


「でも…やっぱり悲しい。」

ぽつりと言った彼女の声に、母親は微笑んだ。

「悲しむのは悪いことじゃないわ。その気持ちを無理に止める必要もないの。大事なのは、その悲しみを抱えたままでも、前に進めること。」


弥矢は母親の顔を見上げた。その表情はまだ少し曇っていたけれど、どこか理解しようとしているようにも見えた。



母親はそっと言葉を続けた。

「この花はあなたに命の煌めきを見せてくれたのね。花が枯れたのは悲しいけれど、この種が次の幸せを運んでくれる。きっとね。」


弥矢はもう一度、種を見つめた。その目にはほんの少し光が戻りつつあった。彼女は小さな手を胸の前で握りしめ、そっと囁いた。


「この種、絶対に大事にする。」


母親は微笑み、弥矢の肩に手を置いた。その瞬間、庭をそよぐ風が二人の間を通り抜けていった。それはどこか温かく、どこか優しいものだった。

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