第5話
「注文をお願いします」
店員はおばさんを一瞥してから、はい、と伝票を構える。おばさんは次の噂を放りたくてしょうがなくて、だが辛うじて社会性で衝動を抑えているような表情をする。まるでそれはエサを前にしたサルに芸を仕込んでいるみたいだった。
「普通のオムライスの大サイズを一つお願いします」
「お飲み物はいかがですか?」
「水で大丈夫です」
「承りました。……そちらのご婦人は?」
「僕達は関係のない関係です」
店員は、失礼しました、と一礼して注文を通しに行く。おばさんは頼まないのだろうか。
「男の方はパッとしない顔だったらしいわ。美女としゃもじみたいなものね。いるでしょ? しゃもじみたいな男の人。だからお兄さんじゃないわね。お兄さん、なかなかの色男だからね。女の人が放っとかないでしょう?」
誰のどういう情報で噂は成り立っているのだろうか。推量にもならない内容の最後に、僕のことだけは現物を見た感想だった。そこだけが現実だった。
「モテはしませんよ」
「嘘おっしゃい。でもいいわ。私にはいい男だから。……一〇〇三号室よ。その気になったらいらっしゃい」
おばさんは艶を出す風味の目をするが、水気が不足してパサパサの視線になった。僕はその視線を受け止めずに避ける。おばさんの一人相撲に救いの手も合いの手も入れない。シナを作ったおばさんはそのまま動かなくなって、色気のビームを出し続けているつもりなのだろう、店員がやって来て、ご注文は? とおばさんに訊いた。
「彼と同じものを」
「大サイズですがよろしいですか?」
おばさんは、あら、と僕をチラリと見る。
「小サイズで」
「承りました」
店員が伝票に走り書いてキッチンに向かうのと入れ違いに、若い女性店員がカップスープを僕のところに運んで来た。僕はすぐに口を付けて、美味い、一気に飲み干した。おばさんは黙っている。噂の種が尽きることはないだろうから、僕に誘いをかけたことの収穫を待っているのだ。放っておくのにも胆力がいる。それはかわいそうだと思ったり、気まずかったり、ちょっと自分が褒められたことが嬉しかったりするのを抑えなくてはいけないからだ。僕は胆力を全開にして、おばさんの誘惑を無視する。それは同時におばさんそのものを一旦は見ないことにすることに等しい。
おばさんはちょっとずつ収まって、何事もなかったかのように小さく座る。店内に漂っていた静けさが僕達に押し寄せる。まるでそれは波のようで、僕達はそれぞれに静けさの波に洗われる。波の上を穏やかな食事の音が流れて来る。ここに来た人達はオムライスを食べて、少し幸せになって帰って行く。僕も同じはずだった。うるさい噂話を聞くためにここに座っている訳ではないし、誘惑されるために待っている訳でもない。僕は武術家が基本に立ち返るように自分がここに在る理由を見付け直して、ゆっくりと目を閉じる。
おばさんは何も言って来ない。もう気配も分からない。
海の家の中には僕と叔母しかいなかった。ざわめきの中に誰かの名前を呼ぶ大声や、子供の泣き声が風に乗って届いていた。中学生の僕が焼きそばにがっつく前で、叔母はタバコに火をつけた。たっぷりと胸に煙を蓄えた後に、ゆったりと吐き出した。まるで煙に命を分けているみたいだった。僕を見ずどこか遠くの、多分海ではない場所を叔母は眺めていて、そこに向かって煙を届けているように見えた。
「どうしてタバコ吸うの?」
僕の声にこっちを見た叔母は、そうねぇ、と言ってまたタバコを吸った。煙が吐き出されるまで僕は待った。
「吸ったら、ほんの少しの愛情が摂取されるから」
僕は焼きそばに向かう手と意識の両方を止める。
「それってどうなるの?」
「自分に還ったり、汚れが少し拭えたり。……吸ってみる?」
僕は、え、と言って、生唾を飲み込んだ。左右を見渡しても誰もいない。流れた汗は暑さのせいじゃない。鼓動が急かすように跳ねる。
「吸ってみる」
叔母は持っていたタバコをくるりと反転させて、僕の顔の前に吸い口を提示する。叔母と間接キスになることに胸がせわしくなる。だがそれよりも、あと数センチの背徳に息が荒くなる。僕が動けないでいると、叔母は、勇気が足りない? とささやかに笑いながら首を傾げた。
「あります」
僕はタバコを咥えて、一気に吸おうとして、思った以上の抵抗があって、それでも吸ったら煙が口の中にいっぱいになった。叔母が手とタバコを引っ込めたのと同時に僕は盛大に咳込んだ。僕の周りに煙がモクモクと浮いて、叔母の吐き出す煙と形が違った。
「練習が必要だから、自主練しなね」
「まだ……未成年」
叔母はあはは、と笑う。僕はまるでファーストキスを奪われたみたいな気持ちになった。叔母が僕が吸った後のタバコに口を付けて吸う。
「そうだったね」
「愛情が全然分からない」
「それが分かったとき、雪太は大人になるんだよ」
叔母はその日の太陽のような笑顔だった――
「お待たせしました」
店員が僕の目の前にオムライスを置く。黄色に赤。ケチャップはお玉でかけたみたいに面になっていて、酸味が鼻をくすぐる。心の中で「いただきます」と言って、スプーンを手に取った。同時におばさんの声が聞こえた。
「本当は女の子は自殺したんじゃなくて、男に落とされたんじゃないかって言う人もいるわよ。なんて酷い男。許せない」
もしかしたらそれは正解で、僕のせいで落ちたのだから、僕が殺したも同然と言う解釈だ。だが、落ちたのは真実子の意思だ。どんな条件であったとしても、僕の意思ではない。僕は助けようとしていた。助けられなかった。……そんなことよりオムライスだ。おばさんに何もリアクションを取らずにスプーンを黄色と赤の境目を横断するように入れる。はだけた卵の下からオレンジのチキンライスが出て来る。スプーンに乗せたら口に運ぶ。美味い。由美のオムライスに負けない味だ。咄嗟にオムライスが真っ二つになっていないかを確かめる。大丈夫。次のひと口を運ぶ。
「わがままな男に翻弄される女の子。最後は命まで奪われちゃったのね。あんな男と付き合っていなかったら死ぬこともなかったのに。ああ、許せない」
僕の手が止まる。
落ちた真実子の意思は僕によって醸成されたものだった。それは確かに僕の意思ではないが、僕に原因がある。僕が助けようとしたこととは関係がない。助けられなかったことが胸に重しを乗せる一因にはなっているが、主だったものは真実子が飛んだ理由が僕だと言うことだ。そんなことは分かり切っている。どうしてお前にそんなことを言われなくちゃいけないんだ。許せない? それを言う権利なんてないだろう。僕の腹の底からふつふつと沸き上がる怒りを包んだ泡が喉の奥に当たって、声にしろとせっつく。僕は紳士の仮面をぐっと被り直す。おばさんの顔をさも何もなさそうな平熱さで見る。
「女の子はかわいそうですね」
おばさんは水を得た河童のような顔をする。
「そうよ。女の子は被害者よ」
「いや、自分で飛んだんじゃないでしょうか。追い詰まって」
おばさんは不服そうに顔をつぶす。
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく。人を突き落とすなんて、やるなら夜じゃないですか」
「いい視点ね。だとしたら、それはそれで被害者よ。追い詰めた男がいけないわ」
僕のオムライスが冷えていく。
「そうですね。かわいそうです」
「そうよ」
おばさんは鼻息荒く腕を組む。僕はスプーンに乗ったオムライスの一部を食べる。常温くらいに冷めていたが、それでも美味しかった。おばさんが黙っている間に次のひと口を掬う。まだ冷め切ってはいなかった。おばさんにもオムライスが運ばれて来て、すぐにおばさんは食べ始めた。黙々と咀嚼しているが、頭の中にさっきの噂話はまだ回っているのだろうか。それとも吐き出したもののことは一旦忘れるのだろうか。
僕は食べ進める。
真実子が飛ぶ。
僕のせいであり続ける。
それでも僕はオムライスを食べている。真実子の像が浮かんでいる間、オムライスの味のことを忘れて、気が付いたら皿は空になっていた。口を拭いて立とうとすると、おばさんに、ちょっと待って、と制された。
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