第4話
駅前にあるオムライス屋に向かう。真実子と何回も行った店だ。玄関を開けるとき、僕は余裕で生きている僕を作る。僕は悲しみなんて背負ってないし、何にも苦しくない。朗らかに笑って、落ち着いて行動する。紳士モードだ。変身のカードを集めるみたいに僕は切り替えられるモードを増やして来た。主に役作りの結果手に入れて、ときに、切羽詰まって作ったものもある。紳士モードは
エレベーターホールでボタンを押す。厳かな音がして、上の階からエレベーターが降りて来た。中にはイヤホンをしたおばさんが乗っていた。会釈をして乗り込む。おばさんのイヤホンから盛大に音漏れがしていて、まるで外向きに音を発しているみたいで、アイドルらしき歌がエレベーターの箱中に響く。だが僕は竹村は動揺しない。おばさんの方は見ないが微笑みを口許に携える。アイドルソングがサビにかかったところで一階に着いた。聞こえないことは分かっているが、僕は、では、と言ってからエレベーターを出た。後ろから付いて来るおばさんを振り切るだけのスピードが出ない。竹村ならもう少し速く歩けるはずなのに、僕の地が足を引っ張る。
おばさんとアイドルソングをBGMにランデブーをしながら、駅前に行く。おばさんはしつこく後ろにい続ける。街の具合も空の感じも僕を素通りする。若干近付いて音が大きくなり、ちょうどサビを聞かされたらまた遠ざかる。「素顔の君が好き」とアイドルは歌っていた。おばさんもそうなのだろうか。おばさんは僕を追跡しているのだろうか、ずっと付いて来る。駅までの最短ルートは一つだから偶然と言うことも十分あるが、もう少し距離を開けたらいいのに。次の曲が始まる。同じアイドルユニットのようだ。曲調も似ている。サビのところで耳に届くボリュームが増した。駅前のオムライス屋に到着した。
入店すると、おばさんも入って来た。その音量のせいだろう、店内のほとんどの客がこっちを見た。店員が半ば苦い笑顔でやって来る。
「二名様ですか?」
僕は首を振る。余裕のある振り方で。
「いえ。ひとりです」
「ではこちらへどうぞ」
窓際の奥の席に通された。おばさんは入り口で佇んで接客を待っている。席に着くと、アイドルの声は聞き取れないくらいに小さくなった。店員が水を置いておばさんのところに向かった。おばさんが音を切ったらしく、突然店内に静けさが満ちる。少し置いて、他の客の音が届く。メニューを見て、専門店らしいラインナップだが普通のチキンライスとケチャップに決めた。
顔を上げると隣のテーブルにおばさんが通されるところだった。店員がいなくなったのを見計らって、おばさんが僕に声をかけて来た。
「お兄さん」
僕は聞こえないフリをした。紳士だって冷たい紳士の場合もある。
「お兄さん」
僕は再び無視する。おばさんが僕の肩をちょんちょんと叩いた。
「何ですか?」
僕は穏やかに、苛立ちを多層のオブラートで包み隠して、おばさんを直視する。おばさんは思っていたよりも老けていて、音楽が大きかったのは難聴なのかも知れない。だが、僕の声は聞こえたようだ。
「イヤホンで音楽流していいですか?」
「さっきからの大音量なら、ダメです。店中の人に迷惑です」
おばさんは、その発想はなかった、と言うみたいな顔をする。うさぎが驚いたような顔だ。
「私にはちょうどいい音量なんですけど。ダメですか?」
「大音量だと思います。だから、ダメです」
「そうですか」
おばさんはイヤホンと本体をガシャ、と音をさせてテーブルの上に置いた。それを合図に僕は僕の正面を向いて、ちょっと話しただけなのに疲れを感じて、ぼうっとするべく窓の外を見る。夜なだけなのに窓の外はまるで雨が降っているかのように濡れて見えた。道ゆく誰も傘を差してはいないし、水の反射もない。それなのに僕には雨が降っているように見える。息にも湿度が混じる――
「お兄さん」
またおばさんだ。まだ注文もしていないのに。
「何ですか?」
「私達、同じマンションでしょ? ずっと同じ道を歩いて来たのだから、そうよね?」
「そうですね」
「二ヶ月前に、飛び降り自殺があったの、知ってます?」
誰よりも知っている。
「そんなことがあったんですね」
おばさんは秘密が口を潜り抜ける快感を隠そうともしない表情で、僕に少し寄る。
「白昼堂々よ。女の人が飛び降りたのよ。目撃した人の話によると、体中傷だらけで、あれは相当虐待を受けていたか、自分でやっていたかだって。追い詰められていたのよね、かわいそうに。お兄さんの階から飛び降りたのよ」
虐待なんてしていないし、自傷癖もない。傷だらけなんて嘘だ。まるでそれでは僕か真実子かのどちらかがおかしな人であることが大前提になっているみたいだ。追い詰められていたのは、そうかも知れないが、僕が追い詰めたのだろうか。それとも真実子が自ら追い詰まったのだろうか。どちらとも分けられない。そもそも追い詰められていたのかすら怪しい。真実子は僕の役者生命と取り引きをするために命を懸けた。それが追い詰められた結果の行為にしては、意志が強過ぎるように思う。竹村の仮面の下で僕は考え込んで、黙っていたらおばさんが続ける。
「まだ若い、二十代から三十代くらいの女の子だったらしいわ。痴情のもつれか、そうじゃなきゃ病気よ。心の病気。恐ろしいわね、絶対にかかりたくないわ」
そのどれも違う。違うが、訂正すれば当事者だと白状するようなものだから、黙る。おばさんは僕が当事者だと思っていて探っているのだろうか。知ってどうするのだ。ただ次の噂話のネタにするだけだろう。何て無意味な会話だ。噂話のための噂話のために労力を使うなんて暇過ぎる。根も葉もない噂を育成する日々、それは地獄の罰にありそうなくらい僕には苦行だ。
「一緒に住んでいた男がかなりヤバいらしくて、ヤクザじゃないんだけど堅気でもない、ヒモ男らしいわ。やっぱ暴力していたのかしらね。どんな顔してるんでしょうね?」
こんな顔だよ。
ヒモではないが、役者が堅気ではないのは確かだ。暴力なんてしたこともない。僕は手を挙げる。おばさんは次の噂を舌の上の発射台にセットしている。店員がこっちにやって来る。あと五歩。僕は手を挙げ続ける。
「見た人によると、死んだ女の子はかなりの美人だったらしいわ。血塗れでも分かるくらいに。もったいないわよね。美人ってそれだけで価値があるのに。私に顔を譲って欲しいくらいだわ」
店員が僕の前に到達する。僕はやっと手を下げる。
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