第6話
「奢るわ」
「いいです」
「その後に何もしないわよ。話を聞いてもらって、嬉しかったから、奢りたいの」
邪険に扱いたいが、紳士の仮面がなかったとしてもそれは人の目があってやり辛かった。おばさんももう食べ終わるところだった。確かに一方的に聞かされた対価をもらってもいいのかも知れない。それは僕が竹村紳士を演じる役者としてもらうものだ。ならば、最後まで演じ切って見せよう。
「では、謹んで奢られます。何もしないと言うことを信じます」
おばさんは、小さく頷いて、残りのオムライスを平らげる。僕はその姿をじっと見ていた。
「お待たせ、じゃあ行きましょう」
立ち上がったおばさんは僕のテーブルの上の伝票も取って、ずんずんとレジに向かう。僕はその後ろを付いて歩く。他の客の視線が痒かったが、堂々と進んだ。レジでおばさんが会計を済ませて、店の外に出る。僕は軽く頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「いいのよ。じゃあ、またね」
おばさんはイヤホンを付けて、マンションのある方に帰って行った。すぐに大音量のアイドルソングが聞こえた。振り返らなかった。僕は店の前に立ったままおばさんが曲がるまで見送って、いや、監視してから反対方向に足を向けた。だが、行きたいところがあった訳ではない。かと言って部屋に戻ってやりたいことがある訳でもない。街の中心部にコンビニのレジ袋が流れ落ちるように向かう。
人間が少しずつ増えて来るが誰もが顔がなかった。
横浜スタジアムの一塁側の外野席は午後になっても衰えることのない炎天下に白く焼かれながら、まるで太陽を焼き返すような熱気で応援が展開されていた。僕は
僕達は汗だくで、試合は投手戦、八回まで〇対〇で、九回に打たれて負けた。帰路に就く人々の波を待ちながら、僕達はグラウンドをぼうっと見ていた。外村がぼそっと呟く。
「何で俺達、応援しているんだろうな」
僕は特にベイスターズのファンではない。外村は熱狂的だ。
「それは、負けたから?」
「ベイスターズが勝っても負けても、俺の明日が変わることはない。気分は大違いだけど。なのに、ずっと応援している。……家でテレビで観るのもいいんだけど、こうやってスタジアムに出張りたいと思う。何でだろう」
外村は肩を竦める。
「僕が思うに、僕達は今日ここに『観客』をやりに来たんだよ。試合を観に来たんじゃない。それこそ試合を観るだけなら家でも出来るから」
「『観客』か。確かに、スタジアムじゃないと他の人との一体感のある応援は出来ないし、一緒になって一喜一憂出来ないな。鋭いな」
僕はちょっと得意になったよ、と鼻を触って示す。
「演劇は観客に観せるものだからね。もっとも、観客の一体感はそんなに重視はしていないけど。どっちかと言うと、劇と客の一対一のバトルが、もしくは、シンパシーが大事かな」
「同じ観客でもスポーツとはやることが違うってことか」
僕は、そうだね、と答えた。客はまだまだ引けていなかったが、僕達は何となく立ち上がって、客の波に乗った。僕は、そして多分外村も、そうした方が「観客」を楽しむことになると思ったからだ。
スタジアムの外に出ても、まだ僕達が「観客」だったのは、周囲に仲間がわんさかいたからだろう。駅に近付くにつれてその濃度は下がって行き、だが電車に乗ってもまだ尾を引いていた。僕達は選手の実家がやっている焼肉屋にユニフォーム姿のまま向かった。
顔のない人々とすれ違い、すれ違いしながら僕は地元の駅に到達した。何も用がない。だからと言って踵を返して帰路に就きたくもない。佇んでいても仕方がないので駅の向こう側に歩を進める。大通りから一本入った、比較的人気の少ない道を歩く。それでも飲み屋、レストランなどが営業していて、その明かりのせいか暗くはなかった。
左の方に気配を感じてゆっくりと首を捻って見ると、おばちゃんが小さな机に就いている。紙で「占い」と貼ってある。ばっちり目が合って、顔があった。僕の目を見ているのに愛想笑いもしない。目鼻立ちがしっかりとしていて、占いと言う曖昧さのあるものをするのに似合わない。そのらしくなさが吸引力となって、僕はおばちゃんの前に進んだ。
近付くと、おばちゃんは柔らかく笑った。それは営業的ではなく、懐かしさのある笑い方だった。
「やって行きますか?」
「……いくらですか?」
「一つのことを占うので三千円。二つなら四千円」
割安だが、二つも訊きたいことはない。いや、一つですら訊きたいことはあるだろうか。僕は未来について不確かな情報を得たいと思っているのだろうか。考える僕をじっと見るおばちゃん。既に占いのための観察は始まっているのかも知れない。
「訊きたいことがよく分かりません」
おばちゃんは目を逸らさずに、小さく頷く。
「そう言うときは、一番困っていることについて占うのがいいですよ。それすら思い付かないのなら、今のあなたには占いは必要ありません」
困っていること。そんなの今の僕は困っていることそのものだ。
「具体的には、言えないんですけど」
「問題ないです。名前と生年月日だけ教えて頂ければ、後は大丈夫です」
そう言うものなのか。ますますいい加減なことを言われそうだが、試してみてもいいかも知れない。この人の話を聞いてみたくなった。
「じゃあ、一つの三千円の方でお願いします」
「では、ここに名前と生年月日を書いて下さい」
渡された白い紙にボールペンで指定されたものを書く。ただそれだけの情報なのに僕のとても個人的なものが晒されたような気がする。おばちゃんは受け取ると、ちょいちょいちょいと何かを書き足した。
「手相も見せてもらっていいですか?」
僕は、はい、と言って両手を差し出す。おばちゃんは虫眼鏡の大きい奴でじろじろと僕の手のひらを観る。手の方は個人情報が抜かれた感触はなかった。おばちゃんは、はい、ありがとうございます、と僕の手から離れて、もう一度名前と生年月日を記した紙を見る。
「人生の中で最大級の困難の中に今、いますね」
その通りだ。僕はほんの少し前のめりになる。
「どうなりますか?」
「もう底を打っています。ですが、横ばいな状態がしばらく続きます。徐々に改善すると言うよりは、きっかけがあって急に突き抜ける感じになります」
おばちゃんは表情を作らない。自然体に見える。おばちゃんにとっては当たり前のことをしているだけだからなのだろうが、普通であることに説得力を感じる。
「どうすればいいんですか?」
「ジタバタしましょう。変化はすぐには来なくても、ジタバタするのがいいです。それがきっかけの素になります」
「具体的には?」
「考えて、行動して、の繰り返しです。例えば、ノートに書いてみる。信頼のおける人に話をしてみる。旅行に行ってみる。そしてまた考える。どうジタバタするのかを考えるのも、大事なプロセスですよ」
占い師からプロセスと言う言葉が出て来たことに僕は新鮮な驚きを感じ、おばちゃんの顔を見直す。もう少し信頼してもいいのかも知れない。
「やってみます」
「一つだけ注意点があります。失ったものを取り戻そうとしてはいけません。新しいものが必ずその欠けたところを埋めます」
僕にとって真実子が不在であることは、欠けたことなのだろうか。……客観的にはそうだ。恋人を喪ったのだ。だが、僕の実感は喪失感よりも別のところに軸足がある。役者が出来ない状態にさせられている。これは失ったことではない。あるけど押さえ付けられているものだ。だから、役者をすることを求めることはしていい。やはり、失ったものと言うのは真実子のことだ。
「分かりました」
「以上です。三千円になります」
僕は財布から千円札を三枚出して、おばちゃんに手渡す。
「ありがとうございました」
「また何かあったらいらっしゃい。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
僕はおばちゃんの元を去る。もう充分で家路に就く。顔のない人々を潜り抜けて、オムライス屋の前を通って帰る。
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