第2話

 これまでだってひとりで部屋にいることは何度だってあったのに、僕はポツンとしている。真実子のものは前と変わらずにあって、だがもう動くことはなくて、真実子の手鏡を手に取る。もしかしたら真実子の残像が映るかも知れない。……どの角度にしても映らない。僕だけが鏡の中に映し出され続ける。手鏡の柄をぎゅっと握ってから元の場所に戻す。冷蔵庫には真実子の飲みかけのポカリがそのままになっている。玄関の靴は脱いだままだし、ベッドの上の布団の皺も変わらない。まるで混じらない赤と青がこの部屋の中に存在して、赤の真実子は停止し続けていて、青の僕だけが流動しているみたいだ。

 タバコに火をつける。部屋の中で吸ったことなんてなかった。だが、あの日以来ベランダに出ることが出来ない。ここからだってベランダの欄干は見える。見る度にそこに真実子が乗っているような気がする。実際にはそこにはもういない。真実子のタバコをちゃぶ台に置いた。一本だけ吸ってみた。スースーして不味かった。それ以来真実子のタバコは減らない。僕のタバコだけが減る。今もまた一本減った。

 煙が揺らめいて消える。前までは空に溶けていた。

 テレビを付ける。画面の中で笑い声が起こっても、こっちの僕には何が面白いのか分からない。テレビってどうやって楽しむものだったっけ。まるでただノイズを部屋の中に垂れ流しているみたいだが、付けっ放しにする。自分以外の音があることが、少しいい。

 高校生のとき、寮に住んでいた。一匹の犬がいて、持ち回りで世話をしていた。犬はフクと言って、寮生が毎年ところてん式に入れ替わる中、寮母さんとフクだけはずっと寮で暮らしていた。ずっと先代の顔も知らない先輩の時代からいったいどれだけの時間をフクが寮で過ごしていたのか考えたこともなかった。そのフクのことが急に思い出された。

 ある日僕はフクの腹を撫でていた。知識のない僕から見ても老犬で、いつかいなくなってしまうのだと思ったら涙が溢れた。僕は「フク、フク」と泣きながら腹を撫で続けた。どうやって終わったのかは覚えていない。それからずいぶん経った。フクはきっともういなくて、次の犬が飼われているだろう。気付いたら、テレビの音がしている。今の僕はフクのために泣かない。

 真実子の実家にも犬がいたらしい。一度も会ったことはない。会ったことがない犬の顔は全部フクになるから、真実子がフクを撫でている映像が僕の中にある。本当は別の犬だと分かっている。真実子のフクは真実子がもういないことを理解することが出来るのだろうか。なんとなく、出来そうな気がする。あの日の夜にいつもはしない遠吠えをしたのだ。もう別に暮らしていたから主人でもないだろうが、友人くらいには思っていただろう。テレビから犬の鳴き声がした。見ると、フクではない犬が真実子ではない女と戯れていた。急にテレビが煩わしくなって、消す。音は残響もなくブツリとなくなって、キンと静けさが鳴る。

 キッチンに行き、蛇口を捻って水をコップにザーッと注いで、一気に飲み干す。喉の鳴る音に一致して喉仏が上下するのが分かる。シンクの脇にコップを置く硬い音。ゴミが溜まっている匂いがする。袋には入れているが、数が多くそれぞれの袋から漏れて来る匂いが集合して僕の鼻に届いて、不愉快なジャブを鼻腔に喰らわせる。きっとこの匂いにもいつか慣れてしまう。そうしたら、ゴミがどんどん増えていき、ゆっくりとこの部屋の全部を埋める。埋めてしまえばその下にあるものの全ては封じられる。真実子の形跡が保存される。僕は敷き詰められたゴミの上で生活をする。ゴミ屋敷は永遠に続くから、真実子も永遠に保たれることになる。ゴミが捨てられない理由が保存なら、納得がいく。納得はいくが、そんなことをするつもりはない。脳裏に浮かんだゴミ屋敷のイメージを魔法の杖でひとさらいするように払拭する。だが、僕自身がゴミ屋敷になっている。

「稽古に行かなくちゃ」

 子供に言い聞かせるように、何かに縋るように、口にした言葉は、僕にも誰にも届かずに床に落ちて消えた。僕はその言葉を探そうと屈むのだが、消滅の後には痕も残っていない。その格好のまま、再び呟く。

「稽古に行かなくちゃ」

 それでも僕の目で追うスピードより遥かに速く、言葉は消えてしまう。言った僕にも言った内容にも、問題があるのかも知れない。だが、逃げる馬の尻のように問題が何かに手が届かない。後ろ足で跳ねた泥ばかりが顔にかかって、それは問題のヒントにすらならない。僕は泥を手で拭いながら、何がいけないのか見当もつかない。しゃがんだまま考えることも上手く出来ずに、無為に消滅すると分かっているが、もう一度声にする。

「稽古に行かなくちゃ」

 三度目の行かなくちゃはしゅるると固まり、床の上に石のような、木片のような物体になった。僕は指で摘み、手のひらに乗せる。コルクのような質感なのに重い。指先で触れると音楽のように物語が流れ込んで来る。

 真実子はずっと欄干の上で僕を睨み続けている。

「役者をやめて」

「セリフしか言わないあなたは嫌だ」

「私の命とあなたが役者をすることとどっちが大事なの?」

 そして飛び降りる。なのに、僕が駆け寄るよりも早く再び真実子はまた欄干に乗っている。

「役者をやめて」

「本当の言葉のないあなたは嫌だ」

「命まで賭けているのに、それでも役者をやろうと言うの?」

 また飛び降りる。すぐに元の位置に真実子が現れる。真実子は僕を睨め付けながら口を開く。

「役者をやめて」

 その言葉はナイフのように心臓に刺さる。あの日、本当に言われたときにはそんなことはなかった。きっと真実子は刺そうとしていた。ずぶりと僕は刺されるべきだった。だが、僕には普通の言葉としてしか聞こえなかった。もしかしたら、真実子が欄干に乗っていなかったらもっと真正面から受け止めていたのかも知れない。僕の意識は真実子が落ちるか落ちないかに集中していた。だから、受け止めなかった。のか? じゃあ何で今、刺さっているのだ? 繰り返される真実子の最期の度に、刺さり方は深く、深くなっている。今日だけじゃない。毎日だ。一日に何度だってある。もうとっくに僕の心臓は貫かれているはずなのに、ずっと刺さり続けている。

「セリフじゃなくて本当の言葉を言って」

 僕は全てを掻き消すように騒いだら、この真実子が消えるんじゃないかと空想している。だが、試すことが出来ない。それはナイフのせいかも知れないし、コルクから流れ出た物語だからそもそも訂正不能なのかも知れない。ループはいつもいつの間にか終息する。それまでの間、僕は刺され続ける。僕は真実子にかけるべき言葉が何か分からない。分からないことも含めて物語なのかも知れない。

「私の命より、役者を選ぶんだね」

 僕は首を振りたい。真実子を助けたい。だが、振れない。この振れなさだけは、僕が役者をやりたいことと繋がっている。僕そのものと繋がっている。真実子のために嘘をつけばよかった。とにかく下ろそうとすればよかった。その両方ともが出来なかった。それは僕が役者をやりたいからだ。僕は知らず知らずの内に天秤にかけたに違いない。真実子の命と自分の役者の命を。それは真実子に要請されたものでもあり、結果は期待外れだった。

 いつもより早く、物語が終わった。僕は床にうずくまっている。

 それなら、僕は真実子の命の分まで役者を全うするしかない。

 そう何度も思うのに。

「稽古に行かなくちゃ」

 行けなくなってしまった。

 山口やまぐちには事情を話して、理解されて、待ってくれると言われた。だが、いつまで待つのかはきっと、今回の公演の本番の終わりまでだろう。僕の役は宍戸ししどがするらしい。掴んだ主役の座だった。やっとだった。悔しいのに悔しさを感じない。まるで、絹のカーテンが風にそよぐみたいに感情が通り抜けて行ってしまった。ナイフのせいだ。もし、公演が終わっても僕が復活していなかったら、僕の役はない。当然だ。全てが理論的に流れていく。僕の感情は全部が真実子の物語に囚われてしまった。ループしている間にナイフに刺されるそのときの感情だけが僕の生きている感情だ。それ以外は理性だけで動いている。まるで僕が二つに分けられたみたいだ。貝の身と貝殻みたいに。

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