序幕三:桶狭間の罠

 二万の大軍を率いる将がいた。

 白くも凛々しい顔立ちと太くも整った眉、清廉な髭、ガタイの良く、黒い短髪と茶色い瞳の姿。

 丸みを帯びた兜を被り、裾が短い白い直衣の上に黒い甲冑を纏った姿を晒すその勇姿こそ、今川義元本人である。

「伝令、この陣に五百の軍勢が殿として迫っています! 大将はあの鬼柴田、柴田勝家です!」

「そうか、あの尾張の虎、織田信秀の宿老か。どうやら、信秀の倅を逃す為に命を賭すつもりか…」

 義元は刀を抜きに天に掲げ、号令を発する。

「皆の者! 相手は五百でも、鬼の軍だと知れ! 全軍、突撃!」

 義元率いる二万の軍は勝家率いる五百の孤軍を喰らおうと包囲する。

「来い、万象ばんしょう!」

「ぱおーーーん!」

 勝家の背に太い人鼻を持つ黄色い象、ぬりかべが現れ、彼の前方から迫る今川軍の前に次々と大地から壁が創造される。

 今川軍は次々と現れる壁に足止めされ、孤立した兵たちがそれを掻い潜ったとしても、勝家の軍に各個撃破される。

 背水の陣を率いた勝家の軍は士気が上がり、皆、勇敢な強さを発揮していた。

(信長様をここで死なせる訳にはいかん! 儂は決めたんじゃ! もう二度と主君を裏切らんと!)

 勝家は切実な死物狂いで今川の軍に特攻を続ける。

 しかし、目の前の壁が真っ二つに斬られた時、彼の奮闘は終わりを告げる。

 その壁を斬ったのは金色の妖気を纏いし狐を肩に乗せた今川義元だった。

「よくぞ、我を支えたな、金花かなはな。」

「なっ!?」

「覚悟しろよ、鬼柴田!」

 勝家に義元の刀が振り下ろされた。


「殿、森可成様の軍は散り散りになり、後に今川軍に捕虜にされました!」

「同じく、単騎掛けした前田利家様は岡部元信に捕虜にされました!」

「どうしてだよ、どうしてこんなことに!?」

 織田軍は残り二百という数にまで損害を与えられ、必死に後退した信長たち、藤吉郎以外の忠臣たちはすでに捕まり、を不思議がる余裕は見られなかった。

 ただひたすらに桶狭間の罠を抜ける為に必死に駆け抜けていた。

「どうしてだよ、何で今川の奴らは奇襲が分かってんだよ!? 本陣じゃなく伏兵に義元がいるんだよ!? 分かんねえ、分かんねえよ!?」

「狼狽えるな、藤吉郎! こうなれば、斎藤と和睦し、今川から尾張を護らなければ…」

 必死に向いた前に何かが見えた瞬間、織田軍は立ち止まった。

 それは葵御門と左三つ巴の旗印、丸根砦と鷲津砦を攻めているはずの松平元康と朝比奈泰朝の軍勢であった。

「なんでだよ…なんであいつらがここに…!?」

「ふっ、ふふふっ、ふははははは! 我はまだ舐めていたようだ、今川義元の戦を! ふははははは!」

 泣き言を零す藤吉郎、笑い崩れた信長、軍勢に囲まれ意気消沈に陥る兵たち、四面楚歌の孤軍である彼らを寂しく見つめる男がいた。

 水髪と黒い瞳、若くも毅然とし、金色が目立つ甲冑、金陀美具足を纏いし、松平元康はかつて幼き日を共に過ごした信長に対し、憐憫な眼差しを向けた。

 そんな彼の元に黒い長髪と黒い瞳を持つ背の高い若武者、本多平八郎が駆け付ける。

「元康様、いや、やっちゃん。織田軍が見えたぜ。予定通りににするか?」

「義元様からも許可をいただいている。だが、相手は尾張の大うつけ、油断せず、殺す気で掛かれ!」

「分かったぜ、やっちゃん! 俺は戦国最強になる男、手心無しで行くぜ!」

 平八郎は馬に乗り、愛槍の蜻蛉切を振り回して駆け抜けた。

 背には今川軍本隊、前には松平と朝比奈の軍勢、前にも後ろにも退けなかった織田軍は絶望感に打ち拉がれた。

「我は人間五十年には至れなかったか。」

 信長はそう呟き、苦し紛れに笑った。


 永禄三年五月十九日、織田信長は今川義元に奇襲を仕掛けるも、松平元康と朝比奈泰朝の軍に挟まれ、敗北した。

 これは誰もが知る歴史に逆らったもう一つの世界。異界史の戦国時代による新たな群雄割拠である。

 


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