其之六 復讐の後先

 朝霧あさぎりに包まれた畢圭苑ひっけいえん魚梁台ぎょりょうだい

 曹操そうそう曹節そうせつ。二人の間ににわかに不穏な風が吹き込み、対立が鮮明となった。自分に歯向かう相手は殺す。曹節の判断は明確である。

 死にゆく男を相手に能力を出し惜しみする気などない。目撃者はいないのだ。

冥土めいどの土産に仙珠の力の一面を見せてやろう」

 曹節の体からあふれた陰気がその体にまとわりつき、ひ弱な肉体を覆う分厚いよろいとなる。さらに、それは人の体を一瞬で寸断しそうな二本の巨大なはさみと凶悪な毒針を備えた尻尾を形作り、まるで巨大なさそりを思わせる姿となった。

「王甫が蛇で、あなたは蠍ですか。まさに蛇蠍だかつですね」

 宦官は〝腐者ふしゃ〟という蔑称べっしょうもあるが、害悪をもたらす存在として、蛇蠍にも例えられた。劉備りゅうびが持ってきた予言の文句にもあった。天周に蛇蠍が巣食うと――――。

「……それにしても、みにくい。仙珠は心の内面を具現化するようですね」

 禍々まがまがしい変容をの当たりにしても驚きもせず、また顔をしかめる曹操。冷静に仙珠の力を分析する余裕を見せる曹操を見て、

「その態度はかんにさわる!」

 曹節が驚愕と恐怖の表情を求めて襲いかかった。巨大な鋏が左右から曹操を切断しようと挟み込む。だが、数々の異形いぎょうの敵との闘いに打ち勝ってきた勇者・曹操は微塵みじんも顔色を変えない。身を低くしてそれをかわし、剣を振り下ろした。

 ギイィィン!

 しかし、固く結晶化した蠍の鎧はその刃を受け付けもしなかった。

「ふははは、お前に黄土珠こうどじゅがあろうと、私には勝てぬわ!」

 曹節は用意周到だった。万が一曹操が裏切った場合を想定して、青木珠せいぼくじゅを所持していたのだ。

 五行相克説ごぎょうそうこくせつでは、土徳どとくに勝利するのは木徳もくとくとなる。王甫おうほもそれを信じて黄土珠を持つ曹操に対抗したのだ。だとしたら、なぜ王甫が曹操に敗れたのか。それを知らない。

「ならば、それが真実かどうか証明しよう」

 曹操が態度を変えて言った。五行相生ごぎょうそうしょうの解釈では、土徳は金徳に力を与える。

 曹操がふところから取り出した宝珠。黄土珠。

 曹操がそれを握りしめると、その結晶は融解して、黄色を帯びた気が曹操の体に吸い込まれた。それは曹操の肉体にみ込んで、その右腕に握った剣を白く輝かせた。

 倚天いてんの剣。白金の力を帯びた力強い一閃いっせんは堅固なはずの曹節の鎧をものともせず斬り裂く。鎧となって固まっていた高密度の陰気を霧散させ、その下の曹節の腕を斬りつけた。

「うぎゃっ!」

 曹節がうめいてよろめいた。その表情が困惑の色をにじませる。自分の考えが間違っていたというのか。曹節は懐から切り札の青木珠を取り出して、それを否定した。

「そんな馬鹿なことがあるか! この青木珠の力を以ってすれば、お前をほふることなど!」

 曹節は怒りに震えてわめくと、蠍の尻尾の鋭利な毒針で二度三度と曹操を刺し殺そうとした。しかし、曹操はそれらの攻撃も難なくかわして、倚天の剣で曹節の術を破った。

「ぎゃあ!」

 尻尾の先端部がその一撃で斬り飛ばされ、第二撃が曹節の肉体を斬った。

 倒れ込んで呻く曹節の前に立った曹操が自分の謀略を明かしてやった。

「浅はかだな。この日のためにオレがわざと青木珠を贈ってやったのが分からないのか。お前は我が策謀に乗って、のこのこと現れた。全てはオレのはかりごとのうちよ」

「何だと……?」

 曹操は全てを読んでいた。用心深い曹節が黄土珠を持つ自分が裏切る可能性を考えて、必ず青木珠を離さずにいるだろうと。その強みが弱みに変わることも知らず。

 曹操はあえて黄土珠を見せびらかせて、曹節に青木珠を霊源れいげんにした術を使うよう誘導したのだ。だが、曹操はそれ以上曹節に攻撃を加えることはしなかった。

 剣をさやに納めて、

「……ところで、私はもう一つ仙珠を差し上げると言いましたが、それはこの黄土珠ではありません」

 また態度を変えて言った。そして、どこに向かうでもなく、その所有者を呼んだ。

張奐ちょうかん殿、おられるか?」

「ここに」

 その声に反応して、遥か西の砂漠に埋もれていた張奐が階下から姿を現した。

「この者を御存知でしょう。かつてあなた方にあざむかれ、陳太傅ちんたいふ御命おいのちを奪った張然明ちょうぜんめいです。この者が白金珠はくきんじゅを持っています。御所望ごしょもうなら、自身で手に入れるがよろしい」

 深手を負った曹節にできないことを曹操はあえて提案する。青木の力が白金に勝てないことは曹操が証明したばかりである。無論、曹操は張奐に汚名をすすぐ機会を与えているのだ。

「曹公よ。贖罪しょくざいの機会を作っていただき、心から感謝致す」

 張奐はその状況を調ととのえてくれた曹操に拱手きょうしゅして曹節に向き直った。あだに報いる剣を抜く。

「……破石はせきは何をしておるのか?」

 追い詰められた曹節が苦悶くもんの表情でつぶやいた。自分に危機が迫った時のために、苑内に弟の曹破石そうはせきと私兵を同行させていた。

 破石は豪力ごうりきの男で、兄の権力で首都防衛が任務の五校尉の一つ、越騎校尉えっきこういの要職に就いている。品性の欠片かけらもなく、部下の妻が美人だと知るや、それを奪い取った横暴かつ淫乱な男だ。曹節と同じく、生かしておいても何一つ良いことはない。

「全てはお見通しと言ったはずですが。あなたの手下はすでに私の部下に掃除されていますよ」

 曹操は密かに張奐と夏侯かこう兄弟を連れて来ていた。曹節が苑内に曹破石と兵士を隠しているのを知って、それを処分するように命じていたのだ。曹破石と私兵の数十人ごとき夏侯兄弟の敵ではない。

「邪をもって正を攻むればほろぶ、というではありませんか。散々悪行あくぎょうを働いてきたその報いを受け、歴史の舞台から消えてもらいましょうか」

 曹操が『韓子かんし』の一句を引き合いに出して、邪悪な宦官を見下した。

 この邪悪な存在ために殺された数多の清流派人士。握りつぶされた正義、踏みにじられた民草たみくさ……。

「ふふふ、黙っておればよかったものを……。やはり、勝つのはこの私よ。天運が我にあるのは明らか。こんなところで死ぬはずがないわ」

 このに及んで不敵に笑う曹節は陰気の鎧を解いて、その陰気が曹節の周りでうずを巻いた。うっすらと赤みを帯びたその中へと曹節が消える。

「逃がすか国賊め、我が仇雪きゅうせつの剣を受けよ!」

 大喝だいかつ一声、張奐が目を怒らせ、清流派の仇・曹節に突進した。その剣が届く直前、赤い渦の中から飛び出た火の玉が張奐を直撃した。張奐の老体が火の玉諸共もろとも後ろに吹っ飛んでいった。

「あれは……!」

 曹操に昔の記憶がよみがえる。宙を飛ぶ火の玉。張譲ちょうじょうの屋敷で目にした光景だ。

『奴は赤火珠せっかじゅも持っている!』

 五仙珠の一つ、赤火珠は党錮とうこ事件の前から曹節の手元にあったのだ。

 かつて白金の力を加護にして、宦官誅滅を企てた竇武とうぶ陳蕃ちんばん。曹節は赤火珠の加護でそれに勝利した。火は金属をも溶かす。五行相克。

「ふははは、我が一存が漢の命運を決めるのよ! お前たちは灰も残さず焼き殺してやる!」

 曹節を包む赤い陰気がまた蠍の姿を形成する。曹操が張奐に目をやると、その体はメラメラと炎をまとっていた。

「張奐殿!」

「……心配御無用。我が体はとうに義憤に燃えておる。炎の熱など感じぬわ」

 張奐はその身をがしながら立ち上がると、

「陳太傅、命をした我がつぐない、ご覧あれ!」

 天に向かって拱手をささげ、また剣を構えて突進した。玉砕の覚悟だ。

「張奐殿!」

 曹操が張奐を止めようとして叫んだ。白金の力は赤火に勝てない。

 ふと、曹操のほおを一滴の雨が打った。それをぬぐう。てのひらに描かれる赤い筋。

「血……?」

 再び蠍の鎧を纏った曹節に向かって突き進む張奐に、またもや巨大な火の玉が飛んできた。全身を覆った炎で目に入っていないのか、張奐はそれを避けようともしない。その刹那せつな。雨が降った。天から激しく注がれた赤い雨が張奐を焼く炎を消し、火の玉を霧消むしょうさせる。そして、同時に渦となった陰気を穿うがって、曹節の生身なまみあらわにした。

 血の雨。仙珠を所持していた陳蕃・竇武両名が死の間際まぎわに流した正義の血。

 その清らかな血が天に昇り、集まって霊気の雲を作り、今、血の雨となって張奐の身に降り注いだ。

 天佑。張奐の叫びが天の陳蕃へ届いたのか。まさに天の助けだった。

「まさか……!」

 自身を包む絶対的な天運をき消すかのような超常現象に、さしもの曹節も頭が真っ白になって、その場に立ち尽くした。

「うおおおっ!」

 天の加護を受けた張奐が身を投げ出して、憎き相手に体当たりした。全身全霊の剣の一撃が曹節の体を深々とつらぬき、勢い余った張奐は曹節に組み付いて、そのまま魚梁台の高みから落下した。

「張奐殿!」

 曹操が駆け寄って、下をのぞいた。激しく地面に打ち付けられた二人は微動だにしない。その代わり、曹節の体から二つの宝玉がこぼれ落ち、張奐の体から白い気がき昇って、宙で凝結ぎょうけつすると、地面に落ちて転がった。

 曹操は急いで階下へ向かった。

 曹操が張奐のもとに駆け寄る。手を当てて生死を確認してみたが、もう生体反応は見られなかった。焼け焦げた張奐の肉体。陳蕃の仇に報いるという使命に命を燃やし尽くしたのだ。曹操はそう思った。曹操が義に散った張奐の肉体から現れ出た白金珠を拾い上げた。

 白金珠の内部には粉雪が舞い散るように霊気が漂い、底に降り積もっていく。

 曹操のてのひらにひんやりとした感覚が伝わってきた。

『白金珠はずっと張奐殿の心の内にあったか』

 曹操が残り二つの仙珠を拾おうと振り返った時だ。火の玉が曹操を襲った。

 不意を突かれた曹操はその直撃を受けた。清流の血の雨を浴びていたお陰で曹操の体が燃えることはなかったが、弾き飛ばされ、橋の欄干らんかんに頭を打ち付けた。

 朦朧もうろうとする意識。薄れゆく視界の中で、誰かが仙珠を拾うのが見えた。

「お前のお陰で目の上のこぶが取れたどころか、一気に三つの仙珠が手に入った。曹操よ、よくやってくれたな……」

 幻聴のように聞こえた声は不快感をもよおすような、高く耳障みみざわりなものだった。その声には聞き覚えがあった。

「ずっとこの赤火珠を手に入れたいと思っておった。これで漢は私の物よ……」

 喜色きしょくに満ちた声が遠ざかっていく。それは張譲の声だった。

 何とか正気を保とうと抗っていた曹操であったが、その声が聞こえなくなったところでついに気を失った。曹操の体から静かに湧き昇った気が結晶して、かたわらにぽとりと落ちた。


 曹操の頭の中で過去の歴史がリプレイされた。

 陳蕃と竇武は白金珠の力を恃んで宦官打倒の兵を挙げた。二人はその力が自分たちの行為を助けてくれるだろうと信じた。正義は完遂されると……。

 しかし、その時、王甫・曹節側には赤火珠があった。赤火の力によって白金の力は減衰され、結局、天運は陳蕃と竇武に味方しなかった。

 宦官にだまされて陳蕃を討ってしまった張奐は死に際の陳蕃から白金珠を託された。

 それは陽気となって張奐の体に吸い込まれ、張奐の清心を感化し、以来、ずっと張奐と共にあったのだ。張奐はそれを秘匿ひとくするため、西垂せいすいの果て、敦煌とんこうの砂漠に埋もれた。

 赤火珠は曹節に渡った。漢の正色である赤の天運をつかんだ曹節はそれから権力を欲しいままにした。曹節は仙珠を所有するうちに自分の陰気と仙珠から発する気が反応して、それを自分の意思で操れることを知った。自分の片腕となって働く張譲に赤火珠の力を分気させた小仙珠を与え、曹節一派が隆盛を極め始めた。

 一方、曹節に対抗する王甫は反逆の野心のあった渤海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいが持つ青木珠を謀略によって手に入れた。劉悝の食客しょっかくであり、私兵であった百鬼ひゃっきを丸め込み、己の野望にために利用した。 

 さらに、袁家が仙珠を所持していることを知った王甫は百鬼に屋敷を襲撃させて黒水珠こくすいじゅを手に入れた。二つ目の仙珠を手に入れてから、王甫はライバルの曹節を上回る権力を得た。水が火を消すように黒水珠の力が赤火珠の力を打ち消し始めたのだ。

 王甫は次々と自分の一族を高官要職に就け、曹節の権勢を凌駕りょうがするようになった。

 危機感を覚えた曹節は曹操が中心となって動き始めた王甫誅殺計画に力を貸すことにした。曹操と言う男は曹節の予想以上だった。まるで自分のように、表には出ずに密かに謀略を進め、ついに王甫を死へ追い込んだ。

 曹節はその才覚に興味を覚えると同時に、仙珠を手にした曹操を警戒した。

 そんな時に曹操から申し出があったのだ。嘘かまことか、青木珠を献上するという。

 曹節は警戒心をあらわにしながら、兵を潜ませた自らの屋敷で曹操と対面した。

 ところが、曹操はまるで死地に踏み込んだ様子を見せない。殺気はおろか、焦り、緊張というたぐいも一切感じられなかった。加えて、青木珠を献上する曹操の理由は理路整然としたもので、納得のいくものであった。曹節は曹操に策謀の臭いを感じることができず、あっさりと青木珠を手に入れた。そして、曹操は一年余り、清流派との交際を絶ち、一派として曹節に従った。その確かな時間、その従順な態度が曹節の油断を誘った。

 曹節はいつしか警戒を緩め、曹操を有能な部下と見なすようになった。

 曹操は父の曹嵩が司隷校尉に取り立てられたことを契機にして、そのお礼に今度は黄土珠の献上を申し出たのである。

 曹節が畢圭苑ひっけいえんに向かったのを知った張譲は密かにそれを追いかけた。張譲が畢圭苑に入った時はすでに曹破石と数十人の兵士の死体が転がっており、魚梁台の下まで行った時、台上から何かが落ちたのが見えた。それは曹節と焼け焦げた男だった。

 張譲は曹操の裏切りを知った。しかし、それは張譲の望んでいたものでもあったのだ。

 張譲が手に入れたかった物。赤火珠。曹節の死で、それははからずも張譲のものとなった。

 目の前にはまだ他の仙珠も転がっている。張譲は大殊勲だいしゅくんを挙げた曹操に特別な褒美をくれてやった。火の玉という殺気をみなぎらせた恩賞。曹操はそれを受けて倒れた。

 しかし、歓喜の張譲はこの時点でも、曹操がかつて自分の屋敷を襲った男だとは気が付かず、その生死すら気に留めず、ただ禍根かこんを残して去っていった。


 曹操は獄中で目覚めた。北寺獄ほくじごく――――入ったら生きて出られぬという宦官が管理する陰謀の監獄だ。ところが、訳の分からないまま釈放された。

 それは父の曹嵩が張譲に黄土珠を譲渡したことで実現したものだった。

 畢圭苑での騒動の後、気を失った曹操は夏侯兄弟に助けられたが、間もなく曹節暗殺に関与した疑いで、張譲の派遣した兵に捕えられた。そして、北寺獄へと連行されたのだ。

 曹操は屋敷に戻ると、それを聞いて、父に詰め寄った。

「宝玉を渡したのですか?」

「そうだ。司隷校尉も辞めた」

「な……。私一人の命とあの宝玉と、どちらが大切だと思っているのですか?」

「お前だ」

 曹嵩は即答した。

「お前の祖父は類稀たぐいまれな先見の明の持ち主であった。お前が生まれた時、大層喜んで言ったものだ。この子はかけがえのない我が家の宝であるとな……。その宝と比べたら、あんな宝玉など取るに足らん。我が子の命に比べたら、天下の霊宝だろうが官職だろうが惜しくはない。お前こそ我が曹家が守らなければならん宝なのだ」

 父にそう言われて、曹操は黙り込んだ。曹嵩は息子を救うために司隷校尉の職を辞職した。張譲とほこを交えるつもりはないという態度を示し、仙珠と引き換えに息子の助命を請うたのだ。こんなところで息子を失うわけにはいかない。

 仙珠を質にした司法取引は功を奏し、曹操は無罪放免と相成った。

 曹節は百鬼の手にかかって殺され、曹操もその男によって殺されかけたというのが公式発表となり、真相を知らない民衆は百鬼の再来を恐れた。

 父がそこまで自分のことを考えていたとは知らなかった。素直に父親の気持ちが胸に染みた。両の瞳から自然と涙があふれ出た。

「祖父が父を養子に迎えた真の理由がわかりました」

「名を気に入られたらしいが」

 曹嵩。その名は中岳ちゅうがく嵩山すうざんちなんだものだ。黄土珠の封禅ほうぜんの場も嵩山である。

「それは表向きの理由。真の理由は父上の性分しょうぶん巨高きょこう低頭そのものです」

 巨高は曹嵩のあざなである。大宦官・曹騰の養子ながら、有力宦官におもねり、貴賓きひんへりくだる曹嵩の姿勢は〝巨高低頭〟と揶揄やゆされたものだ。しかし、それは一族を守るための配慮であり、その謙虚な姿勢がこうして曹操の命を救ったのだ。

「ありがとうございます、父上」

 涙が曹操の頬を伝った。それは成人してから初めて人に見せる涙だった。

「幼少の時以来だな、お前が泣くのを見るのは」

「とうの昔に枯れ果てたと思っていましたが。自分でも驚きました」

 曹操は少し自嘲じちょう気味に笑った。

 仙珠を失ったからといって、曹操の功績が消えることはない。党錮以来、清流派の長年の宿敵である王甫・曹節を除いたのだ。

 失ったものはまた取り戻せばいい。取り戻す自信はある。己の才覚を発揮はっきすれば。己の中にある自信を失わなければ――――。

 前を見据みすえろ。挫折ざせつを乗り越えろ――――曹操は自分に言い聞かせた。

 新たな時代の到来を見据える曹操の眼差まなざしは強く鋭い。もう涙は乾いていた。


 光和こうわ四(一八一)年。曹操が曹節に勝利したその年――――。

 四年にも渡った交州での反乱が朱儁しゅしゅんによって、ついに鎮静をみた。

 もともと交州といった異郷に関心の薄い中央政府は大雑把おおざっぱな報告をまとめただけで、その背後にある梁冀りょうき一族の怨念などがかえりみられることはなかった。当然、そこに孫堅そんけんの活躍などしるされるはずもない。

 益州での板楯ばんじゅんの反乱も年を重ねており、益州は交州よりも重視されていたので、詳しい情報が集められて、朝廷で対策が議論された。

 漢中郡の上計吏じょうけいり(郡の会計を上京して報告する)の程包ていほうという者が上洛した際に、

「――――板楯は白虎びゃっこの気を受けし勇民であり、前漢以来、功績を挙げてきた義民なり。先に車騎しゃき将軍・馮緄ふうこんに従って南方を征し、益州郡乱れるや、太守の李顒りぎょうは板楯を率いて之を討つ。忠功はかくの如く、本より悪心なし。しかしながら、近頃の賦役ふえきは重く、労役は奴婢ぬひの如く、刑罰は囚人の如し。今ただ明能の郡守を選べば、自ずと安集し、征討をわずらわせん」

 理想的な解決策をつづって上奏した。程苞はあざな元道げんどう、漢中南鄭なんていの人で、板楯の事情に詳しかったのである。

 また、馮緄の子で党人の馮鸞ふうらんという者が、宕渠令とうきょれい樊升達はんしょうたつ辞め、板楯大いに失望す――――そんな実情を記した書簡を清流派の官僚に書き送った。

 樊敏はんびんあざなを升達。蜀郡の人で、幼少より学問を好み、〝卓密たくみつの風あり〟と言われた。

〝卓密〟とは、仁徳を備え、民を愛し、教化した後漢初期の名臣、卓茂たくぼうあざな子康しこうと清流派「八俊はっしゅん」の杜密とみつのことを指す。

 その評価が示すように人格と政務の才を兼ねそろえた清流派に準ずる人物で、五年前に永昌えいしょう太守の曹鸞そうらん(曹操の一族)が濁流派に陥れられた事件が起こった際、樊敏は永昌長史として曹鸞を補佐する立場にあった。 長史とは、郡の兵馬をつかさどる職である。

 その後、樊敏は巴郡宕渠令に移った。巴郡は板楯の民が多く居住する地域で、特に宕渠県に多かった。彼ら板楯は勇猛であったので、各地の反乱に際してよく兵役が課せられた。

 延熹えんき五(一六二)年の荊南大反乱の際も、宕渠出身の清流派官僚・馮緄に率いられて討伐に向かっている。

 馮緄はあざな鴻卿こうけい、曲がったことを好まない列直の士と言われ、赴任した各地で不正を糾弾きゅうだんした。兵法にもけており、鮮卑や各地の賊徒討伐に活躍した。

 馮緄は地元の英雄であったので、板楯の民衆からの人気も高く、馮緄の勇名と板楯の勇猛さは賊徒から大いに恐れられた。そのせいか、馮緄が長沙ちょうさに至るとすぐに賊徒たちは降伏を願い出たという。度尚どしょうたちと共に乱を鎮定して凱旋した馮緄であったが、再び反乱が起こったのを宦官にとがめられて罷免ひめんされた。廷尉ていいの時に宦官一党の罪をどしどし断罪し、陳蕃や李膺と親交が深かった馮緄は宦官から常々憎まれていたのだ。

 この朝廷の不正な仕置きに板楯が怒りを覚えたのは言うまでもない。馮緄のことだけではない。普段から戦時に命をして働くのに、平時においては不当な扱いを受けることが多かった。もとより異民族は冷遇されがちなのだ。鬱積うっせきした不満は馮緄罷免をきっかけに爆発し、暴動を起こす事態となった。この時は清流派の流れを趙温ちょうおんという者が太守として派遣されて、これを慰撫いぶした。

 趙温はあざな子柔しじゅうといい、清流派「八俊」の一人である趙典ちょうてんの甥にあたる。蜀郡成都の人なので、地元の事情に精通している彼を清流派が送り込んだのである。

 樊敏は趙温と同じく、彼らを仁徳で導き、教育を施した。板楯の民は樊敏を心から信頼し、彼の長期在任を願った。しかし、それは叶うことはなかった。

 樊敏が職を辞した理由は母の喪のためで、これは儒教文化では当たり前で仕方のないことであったが、後任が良くなかった。前が良過ぎたというのもあるが、再び冷遇の時を迎えた彼らはそれを嫌って、再び叛旗はんきしたのであった。

 ともあれ、馮鸞・程包らから一連の事情が伝えられて、清流派官僚たちはこぞって清廉な人物を太守として派遣するのが鎮定の一番の方法だと論じた。

 曹操もそれに賛成し、朝廷はその言葉に従って、清廉温厚な曹謙そうけんを選んで巴郡太守とし、赴任させたのだった。曹謙の派遣で状況は改善された。

 曹謙はかつての趙温と同じように恩情をもって板楯に対し、光和五(一八二)年に至って、ようやくこれを降すことに成功したのである。


 漢を揺るがした二つの大きな反乱がしずまった。長年、漢の領土をおびやかし、外患がいかんとなっていた鮮卑の大人たいじん檀石槐だんせきかいが死に、内憂の王甫・曹節もついに取り除いた。

 傾きかけた漢の社稷しゃしょくは曹操、孫堅、劉備らの活躍と清流派官僚の努力によって回復するかのように思われた。

 しかし、光和五(一八二)年の二月、疫病が流行して、多くの死者が出るという被害があり、さらに、ひでりも続いた。

 皇帝はこの天の意志は何を意味しているのか下問かもんして尋ねた。議郎の曹操は宦官の二大巨頭を排除したのを契機に上奏を行い、堂々と党人を擁護ようごした。

「――――疫病は陰気が荒れ狂って起こり、旱も陰がおごることが原因と申します。これは未だに世に陰気が溢れており、浄化されていないことのしるしでございます。先に陛下は民衆の怨嗟えんさの的になっている官僚官吏を調べ、罷免させる決定を下されましたが、実はこの時に罷免された者は多くが清涼正義の者でありました。佞臣ねいしんたちが陛下に虚偽の報告をしたのです。そのほとんどが宦官とそれに従う悪徳官僚たちであります。かつて竇武・陳蕃はそのような奸臣を排除しようとして決起しましたが、逆に彼らの陰謀によって反徒とされ、殺されてしまいました。忠正の者は党人として天下から遠ざけられ、以来、不義不忠の者が世に蔓延はびこっているのです。近年の賊徒の跳梁ちょうりょうも、此度こたび疫病大旱えきびょうたいかんも全てそのことに起因するものと考えます……」

 王甫・曹節の反駁はんばくがなくなったせいで、皇帝も少しはまともな判断を下せるようになった。曹操のこの上奏で、濁流派に罷免された官僚たちが議郎として再任された。

 しかし、まだ張譲や趙忠ちょうちゅうといった宦官が存在する。依然として党人は許されず、一気に政界を浄化・改革する機運は盛り上がらなかった。

『一度倒れかけた国家が立ち直るのは容易ではない。民草の怨嗟の声は深く大地に染み込んだ。時はんでいる。憂いは次へと受け継がれる……』

 各地を駆け巡り、政権の内と外とを良く知る曹操には全く安堵あんどの色はなかった。

 むしろ、まわしさは徐々に増している感覚さえある。

 あちこちの反乱の根っこには政治腐敗と濁流派がき散らす不義不正がある。

 王甫・曹節は死んだが、濁流派が根絶されたわけではない。王甫・曹節亡き後、それに代わる濁流派の二大巨頭として台頭を始めたのが張譲と趙忠だ。首がげ替わったに過ぎない。

 未だ党錮政策は解除されず、清流派人士の多くが汚名を着せられたまま、野に埋もれている。民衆の不満はまだ顕在化けんざいかこそしていないが、確実に充満している。異民族の侵略は各地で勃発ぼっぱつし、国を滅ぼしかねない要素は依然として残っている。

 張譲に渡った仙珠。新たな敵。それは最初の敵でもあった。

 状況は振り出しに戻り、時代は新たな局面を迎える。

 その胎動たいどうはすでに各地で始まっていた――――。

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三国夢幻演義 清濁抗争篇 第六章 双頭終焉 光月ユリシ @ulysse

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