其之四 黒気再び
桂陽と零陵の郡境は山地になっていて、地殻変動で隆起した大地が風化して削られ、
かつて若き
司馬遷の著『
道を尋ねただけなのに、この地の
「あれが九疑の山だぁよ」
さらに、みすぼらしい歯抜けの原住民が遠くのでこぼこした
「……そんで、舜帝から
語り部の
それをよそに、原住民の男たちは孫堅と
「ここの人間は病になっても、九疑の山の薬草で元気になるんだぁよ」
「霊験あらたかの薬草はとびきり効くんだぁ」
「だがよぉ、今は危なくて近寄れねぇ」
「何でだ?」
急に意気消沈した彼らにその理由を聞いてみた。歯抜けの男が答える。
「南から来た賊がよ、あの辺に出るって話だ」
「九疑の山に舜陵があってよ、いつもは守衛がいるんだが、賊が来て逃げちまった。賊に舜陵が荒らされねぇか心配だぁ」
「お宝でも納められているのか?」
「そんなん知らねぇが、この先行くのは危ねぇ」
しかし、それを知ったら、あえて行かなければならない。
風水に詳しい
その地に収められていた
「臭いますね」
「会稽の反乱と何か繋がっているのかもしれません」
孫堅と袁忠は
袁忠はその風景を
侵攻してきた賊徒かもしれない。孫堅は袁忠を隠れさせて、単独でその一団の中に入っていった。
「おめぇさ、どこさ行く?」
男の一人が孫堅を呼び止めて聞いた。
「そこの舜陵だ」
「だめだ、だめだ。ここは俺たちが占拠した」
「聖地を勝手に占拠するな」
孫堅はその男の言い分を無視して、立ち去るでもなく居直った。
「ああ、おめぇ、死にてぇのか?」
賊徒たちが一斉に剣を抜いた。孫堅はやれやれとばかりにそれに応じた。
どのみち、先を進むにはこの者たちを追い払わなければならない。
「邪魔するなら、斬り捨てるぞ」
面倒くさい駆け引きは好きではない。正面突破が孫堅の持ち味だ。
賊徒たちは孫堅を官軍側の人間だとは思いもしない。鎧も着込んでいないし、何よりたった一人なのである。ばかな地元民だと
ばかなのは相手を見た目だけで判断し、数と勢いに物を言わせて襲いかかった賊徒たちの方だった。数秒のうちに五、六人ほどの賊徒の群れが物言わぬ死体と化す。
戦場で
孫堅は腰を抜かして座り込んだ一人の首筋を捕まえると、鋭い
「どうしてここを占拠した?」
「わ、わけは知らねぇ。親分にここを見張れって言われただけだぁ!」
「その親分の名は?」
「りょ、
「どこにいる?」
「この山の洞窟に用があるって言ってたぁ。……後は何も知らねぇ!」
「
二人は舜陵を調べてみたが、そこは古代の聖人を
孫堅と袁忠はこの山で何が行われているのか確かめるため、疑惑の九疑山に分け入った。険しい岩道をしばらく行くと、
「これは……!」
岩山の麓から垂れ流れてくるそれは水に
「あの中から流れ出ているようです。私が様子を見て参りますので、ここでお待ちください」
孫堅が岩陰の袁忠に言い残して、洞穴に忍び寄った。洞穴の湿った岩肌に身を寄せつつ、中を
「この者を殺したのはお前か!」
「……何のことだ。何者か知らんが、おとなしくそれを渡せ」
「何奴か?」
「我が名は大将軍・
深い
「
「渡さなければ、殺す」
「
暗闇の中で二人の男が
「何だ、お前は?」
大将軍と名乗った濁声の男が孫堅に気付いて、目を怒らせ、声を荒げて向き直った。
一方、
その男は険しい表情で、両手で銅鏡を高く
その行為と銅鏡が孫堅の注意も引き付け、視線が掲げられた銅鏡へと注がれる。
「朱雀鏡か?」
銅鏡を掲げた男がその一言に過敏に反応して、その両手を地面に振り下ろした。
ガチャンという乾いた音が洞穴に響き渡る。銅でできているために砕けはしなかったが、岩に当たった衝撃で鏡背の朱雀の目に当たる
「これで傷入りだ。悪事には利用できまい」
地面に転がった銅鏡を二人に見せつけて、老境の男が勝ち誇ったように言った。
「父上!」
洞穴の奥から驚いた様子の少年が姿を現した。
「お前は下がっておれ!」
それを見た老境の男が一喝するように言い、少年がその場に足を止めた。
「……この野郎!」
襲いかかったのは賊徒の親玉、梁冀を騙った男の方だ。その前に孫堅が立ちはだかった。いきり立った男が両手の鉈を振るって孫堅に斬りかかったが、孫堅は難なくそれを打ち払い、逆に斬りかかる。
「この俺に逆らうのか、
しかし、孫堅が何度剣を振るおうと、それにはいつもの切れはなく、高慢な
『何だ……?』
孫堅は自分の体に異変を感じた。重い。霧が意思と質量を持っているかの如く、孫堅の体を抑え込み、動きを鈍らせる。それを振り解こうと、激しく動こうとするのにつれて、急激に体力が
「く……どういうことだ……!」
会稽で遭遇した許生・許昭親子が発生させた妖術の霧では、こんな感覚に陥ることはなかった。孫堅の
「ふはははは、
洞穴内に充満した黒い煙霧。それが元気を奪う要因だった。
〝九竅〟とは、目や鼻、耳など身体にある九つの穴のことである。
この時代、九竅から悪霊が入り込んで、生者の体に病を引き起こし、死者の遺体を腐らせると考えられた。
鼻と口から吸い込まれた陰気に孫堅は息苦しくなって、胸を抑えた。両眼は死体から立ち昇った白い霧が人の形を
『我、声を失うも、今、再びこれを得たり。
霧の人物が赤く輝いた。ほのかに光るその手が伸びて、動けない孫堅の
『……今や四方の加護は失われ、陰陽の均衡は崩れ、太陰が太陽を侵すこと
『
その声に反応したかのように、突如、激しい光が辺りを照らし、熱気が体を包んだ。孫堅の頭上で炎が霧に引火して、それが洞穴内の黒霧を
『……いったい何が起きた?』
孫堅はそれを確認する間も
「早く外へ逃げろ!」
そして、背後の老境の男と少年に忠告し、二人に続いて自らも洞穴から脱け出た。
何とか洞穴から抜け出した老年の男と少年だったが、それが精一杯だったようで、外へ出ると同時に倒れ込んでしまった。
これがどういう状況なのか、孫堅には頭を整理する暇はなかった。ただ幻聴が
「……俺様の計画をぶち壊しにしやがって。苦しみながら死ね」
梁冀を名乗る男が鉈を地面に突き立て、両腕を胸の前に
「この術は……!」
涼州にて
「――――黒気の龍?」
「――――ああ、濃密な陰気が黒い龍の形をした奴だ。妖術の
「――――都でも妖術か……。しかし、そんなことがあったとは初耳だ」
「――――洛陽の大衆が目撃したわけじゃない。目撃したのは何人かの宮中人とその場に居合わせた官僚、衛兵たちだけだからな。卒倒した者もいたし、夢か幻か、区別がつかない者もいたようだ」
「――――それで、その龍はどうなった?」
「――――オレが斬った。だが、逃げていったよ」
「――――どこに?」
「――――それは生まれた場所だろう。太陰界と言えばいいかな。龍は天子の
「――――何かの力……」
「――――この世には仙界で作られた霊宝が存在するという。それが妖術の元になっているというのは本当らしいな……」
曹操が宮中で目にした妖術。それがこの南方の山奥で再現されている。
しかし、こんな
そんな孫堅の疑問とは関係なく、突如生み出された黒い龍が孫堅に襲いかかった。
自慢の
陰気でできた龍は分断された胴体を空中で再び繋ぎ合わせて、孫堅に向かってきた。孫堅はそれを三度切り裂いたが、やはり、無駄であった。またもや、黒気の龍は一つになって
「ふはははは、無駄なあがきよ。せいぜい奮闘するがよい」
それを操る賊徒の男は孫堅から離れて、高みの見物を決め込んでいる。
会稽での経験がある。術者を斬ればよい。孫堅は妖術を打ち破る対策を知っている。孫堅が体を反転させて、その男に向かって猛然と詰め寄った。しかし、あと一歩のところで、黒気の龍が上空から飛び込んできて、孫堅の体に
「う、く……」
まただ。また視界が暗くぼやけ、剣を振り下ろす力が失われる。孫堅の手から古錠刀が
「下郎め、そこでおとなしくしていろ。すぐに素っ首を
その男は動けなくなった孫堅を尻目に、突き立ててあった鉈を引き抜こうと背を向けた。その隙に体力をいくらか取り戻した老境の男が孫堅に静かに
「これに触れるのだ」
男はそっと
「それは……」
「早く」
男に
「……きさま、何をした?」
鉈を手にした賊徒の男は自分の術が破られたことに動揺した。
「これぞ清々たる地の力ぞ」
答えたのは、孫堅を助けた老境の男だった。慌てた賊徒の男が「くそっ」と毒付いて、孫堅に鉈を放り投げた。活力を取り戻した孫堅がそれをかわす。
男は何も持たぬその手に再度陰気を集めようとした。だが、
「ぐはっ……!」
それが掌中に漲る前に体力を回復させた孫堅の一閃が男を斬り倒した。血しぶきを吹き出し、
「我が祖・暗黒の大将軍よ……。
賊徒の男が
「漢の混乱は……続く。こ……これで終わりだと……思う……な」
思わせぶりな最期の台詞を吐いて、果てた。不思議とその声はもう濁ってはいなかった。
洞穴に倒れていたのは恐らく
道中、袁忠がその清名を名乗ったことで、老境の男も本名を明かした。
昔、桓帝が荊州に
「――――天子は常に国の中心であり、陛下がおわすところを都と為すべきです。どうか荊州刺史を
これを皇帝が採択したため、胡騰は官吏・貴賓を厳然に管理し、州内は粛然となったという。竇武に
「実はあの子は私の実の子ではなく、亡き大将軍の御孫であられる。名を
胡騰が道案内で先頭を行く少年の後ろ姿を眺めて言った。
「……そうでしたか。貴殿はこの地で二つの宝を守っておられたのですな」
袁忠が感嘆の吐息とともに、何度も
袁忠が探し求めていた神器、真の朱雀鏡はこの清流派の胡騰が保持していた。
胡騰は竇武が敗れたのを知って、いち早く朱雀鏡と当時まだ二歳の赤子を抱え、南方へ身を隠したのだった。
「
胡騰は困ったように顔を曇らせた。身分を隠すためとはいえ、十年も我が子・
「それまでに世が清められればよいですが……」
袁忠も胡騰の親心に同情した。何も知らない子供が突然、真の親子ではないと知らされて、大きな運命を背負うことになるのである。その運命を左右することになろう物が、神器・朱雀鏡だ。
「そう願いたいが、それは難しい。
胡騰は懐をぽんぽんと叩いて、危機を招く神器に嘆息した。
政情が安定し、この神器を
「その男は梁冀と名乗ったそうですな」
「うむ。容姿は全く似ておらぬが、不吉なことに、あの
梁冀が支配する暗黒時代を知る二人である。その話題になると、心も
梁冀、
宦官たちが政権を握る前は梁冀があらゆる権力を
「賊徒から聞き出した情報によると、梁龍という名だそうです」
二人を警護するように歩く孫堅が告げた。
「梁龍……流刑にされた梁一族の可能性がありますな」
袁忠が言った。そして、思い立ったように
「もしかすると、梁一族の
それから、袁忠は会稽での出来事を胡騰に話して聞かせた。
会稽の反乱の元となった偽の朱雀鏡を製造し、それを会稽山に封じたのは
「……そうであったか。それで
桂陽の山中に身を潜めていた胡騰は此の度の交州の反乱が拡大するのを
「そして、導かれるように陰気
「それを知っていたということは、やはり、梁冀の一族だからでしょう。梁一族は朱雀鏡の精巧な複製を作り、それらに霊力を蓄えることで、本物に近い力を得られると知った。どうやら朝廷だけではなく、地方政権まで掌握して、漢全土を我がものにする腹積もりだったのでしょう。梁龍は先祖のように梁氏の復権を目指して、偽の朱雀鏡の力を求めたのではないでしょうか」
「
胡騰は苦虫を噛み潰したような顔で、この世に亡き梁冀を非難した。
〝跋扈〟は梁冀のことを指す。梁冀が殺したのは清流派だけに
桓帝の前の皇帝は質帝といい、まだ八歳であったが、非常に聡明で、人格才能ともに不適格ながら権勢を誇っていた梁冀のことを「跋扈将軍」と呼んだ。
梁冀の心の内が醜いことを悟り、一族が
その賢明さが後の禍となると察した梁冀は食事に毒を盛った。病死に見せかけ、
自分に不都合な人間は皇帝であろうと手にかける。
「しかし、それを受け継いだ梁龍も死にました。これで梁氏の悪しき野望も
洛陽の宮中に現れた黒気の龍。その話を孫堅から聞いていた袁忠はこれで諸悪の根源が絶たれたと思いたかった。
揚州・交州の二州で起きた反乱に隠された遠因――――跋扈将軍・梁冀という忌まわしき過去を忘れ去ることができると……。
『黒気の龍か……』
孫堅は頭でその言葉を呟きながら、辺りに目をやった。もう黒く滲んだ霧は消え去り、不穏な空気も晴れている。
孫堅は再び曹操と会うことがあれば、この
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