其之四 黒気再び

 孫堅そんけん溱水しんすいの流れに沿って桂陽けいよう郡を北西行し、山間を抜けて零陵れいりょう郡に入った。

 桂陽と零陵の郡境は山地になっていて、地殻変動で隆起した大地が風化して削られ、奇峰きほうと化して林立している。そして、この山々が桂・零、荊州と交州を分けている。

 かつて若き司馬遷しばせんは全国を巡る旅に出たが、まさに孫堅と同じようなルートを歩いた。会稽山かいけいざん禹穴うけつが過ごしたという洞窟)を訪れ、そこから南下して嶺南れいなんの地に入り、この地の風景をつぶさに見ている。

 司馬遷の著『史記しき』によれば、零陵という地名は伝説の五帝(五人の聖天子)の一人、しゅんほうむられた地であることに由来する。人々は名君の死をいたみ、零涙れいるいしたのである。舜は蒼梧そうごの原野に崩じ、その遺体は九疑山きゅうぎさんに葬られた。九疑山は似たような形状の九つのみねが並びそびえていることから名付けられたという。

 道を尋ねただけなのに、この地のかたらしき老人がそんな伝説や由来まで語ってくれ、

「あれが九疑の山だぁよ」

 さらに、みすぼらしい歯抜けの原住民が遠くのでこぼこした稜線りょうせんを指さして、それを教えた。

「……そんで、舜帝から禅譲ぜんじょうされたのが禹王じゃな。禹王の会稽山も有名な霊山じゃというが、舜帝の九疑山もそれに負けず劣らず有名な霊山じゃて」

 語り部のおきなは久しぶりに蘊蓄うんちく披露ひろうすることができて満足げだった。

 それをよそに、原住民の男たちは孫堅と袁忠えんちゅうを無知な旅人と見なして地元自慢を続ける。

「ここの人間は病になっても、九疑の山の薬草で元気になるんだぁよ」

「霊験あらたかの薬草はとびきり効くんだぁ」

「だがよぉ、今は危なくて近寄れねぇ」

「何でだ?」

 急に意気消沈した彼らにその理由を聞いてみた。歯抜けの男が答える。

「南から来た賊がよ、あの辺に出るって話だ」

「九疑の山に舜陵があってよ、いつもは守衛がいるんだが、賊が来て逃げちまった。賊に舜陵が荒らされねぇか心配だぁ」

「お宝でも納められているのか?」

「そんなん知らねぇが、この先行くのは危ねぇ」

 しかし、それを知ったら、あえて行かなければならない。

 風水に詳しい周昕しゅうきんは会稽山は霊気がみなぎる強力なパワー・スポットだと言った。

 その地に収められていたにせ朱雀鏡すざくきょうには妖術の元になる霊力がたくわえられており、許昭きょしょうらはそれを手にして反乱を起こした。袁忠は今、この地に朱雀鏡を探している。そんな中、九疑山という霊山に賊徒が入った。

「臭いますね」

「会稽の反乱と何か繋がっているのかもしれません」

 孫堅と袁忠は急遽きゅうきょ、疑惑の九疑山に向かうことにした。

 人気ひとけのない一本道が亜熱帯系の植物と杉の高木がいろどる森の中を伸びていた。

 袁忠はその風景をたのしむ余裕があったが、孫堅はそんなものには目もくれず、ひたすら先を急いだ。原住民の男が指さした山のふもとに着いたところで、道をふさぐ武装した一団に遭遇した。浅黒い肌と短い頭髪。南方系住民の特徴だ。よろいまとっていないが、はだけた上着と腰布こしぬのを巻き付け、いかにも荒々しい雰囲気をかもし出している。

 侵攻してきた賊徒かもしれない。孫堅は袁忠を隠れさせて、単独でその一団の中に入っていった。

「おめぇさ、どこさ行く?」

 男の一人が孫堅を呼び止めて聞いた。

「そこの舜陵だ」

「だめだ、だめだ。ここは俺たちが占拠した」

「聖地を勝手に占拠するな」

 孫堅はその男の言い分を無視して、立ち去るでもなく居直った。

「ああ、おめぇ、死にてぇのか?」

 賊徒たちが一斉に剣を抜いた。孫堅はやれやれとばかりにそれに応じた。

 どのみち、先を進むにはこの者たちを追い払わなければならない。

「邪魔するなら、斬り捨てるぞ」

 面倒くさい駆け引きは好きではない。正面突破が孫堅の持ち味だ。

 賊徒たちは孫堅を官軍側の人間だとは思いもしない。鎧も着込んでいないし、何よりたった一人なのである。ばかな地元民だとあなどって、孫堅に斬りかかった。

 ばかなのは相手を見た目だけで判断し、数と勢いに物を言わせて襲いかかった賊徒たちの方だった。数秒のうちに五、六人ほどの賊徒の群れが物言わぬ死体と化す。

 戦場できたえ抜かれた孫堅の武勇はただの荒くれ者たちなどものともしない。それを見て、賊徒は一転して蜘蛛くもの子を散らすように逃げ出す。

 孫堅は腰を抜かして座り込んだ一人の首筋を捕まえると、鋭い口調くちょうで問いただした。

「どうしてここを占拠した?」

「わ、わけは知らねぇ。親分にここを見張れって言われただけだぁ!」

「その親分の名は?」

「りょ、梁龍りょうりゅうっていう名だぁ」

「どこにいる?」

「この山の洞窟に用があるって言ってたぁ。……後は何も知らねぇ!」

たび交州に着任された朱使君しゅしくんは立派な御方おかた。平和と正義を求めておられる。お前たちも剣を収めて、さっさと故郷へ帰れ。それでも反乱に加担する奴は、容赦なく俺が殺す。いいな。仲間たちにも伝えておけ」

 朱儁しゅしゅんの方針は平和的鎮圧である。孫堅もその意図をんで、その男に忠告して突き放した。賊徒が遁走とんそうして安全が確保されたところで、孫堅は袁忠を呼んだ。

 二人は舜陵を調べてみたが、そこは古代の聖人をまつった祭殿というだけで、二人が探し求めるものはなく、あるとすれば、やはりその奥の霊山だった。

 孫堅と袁忠はこの山で何が行われているのか確かめるため、疑惑の九疑山に分け入った。険しい岩道をしばらく行くと、次第しだいに辺りが暗くなった。深い森のせいもあるが、霧が立ち込めてきたのだ。それだけなら、別段驚くべきことでもないが、

「これは……!」

 岩山の麓から垂れ流れてくるそれは水にすみを解いたように黒くにじんでいた。会稽で反乱を起こした許生きょせい・許昭の術に酷似こくじしている。二人は悪い予感が確信めく中を邪祠じゃしがないのを確認しながら、黒い霧の流れを辿たどって進んだ。その霧は岩と岩の隙間に開いた洞穴の中から漏れ出ていた。

「あの中から流れ出ているようです。私が様子を見て参りますので、ここでお待ちください」

 孫堅が岩陰の袁忠に言い残して、洞穴に忍び寄った。洞穴の湿った岩肌に身を寄せつつ、中をうかがう。霧のせいで視界はさえぎられている。孫堅は足音を立てないように、慎重に洞穴を進んでいった。薄暗い中、洞穴の奥から声が霧の流れに乗って聞こえてきた。

「この者を殺したのはお前か!」

「……何のことだ。何者か知らんが、おとなしくそれを渡せ」

「何奴か?」  

「我が名は大将軍・梁冀りょうきである」 

 深い濁声だみごえで名乗る男。その名は地にちて久しい。そして、まわしき過去のものだ。

悪名あくみょうを堂々とかたるとは……これは断じて渡せぬ」

「渡さなければ、殺す」 

奸賊かんぞくの手に渡すくらいなら、地にたたきつけて砕いてくれる」

 暗闇の中で二人の男が牽制けんせい恫喝どうかつ、言葉の応酬おうしゅうをしている。事実を確かめるため、孫堅はその緊迫の状況下に割って入った。二人の間に死体が一つ転がっている。

「何だ、お前は?」

 大将軍と名乗った濁声の男が孫堅に気付いて、目を怒らせ、声を荒げて向き直った。四肢ししき出しにし、はだけた上衣に腰布を巻きつけて、両腰になたのような武器をぶら下げている。武闘派丸出しのその男が賊徒の親分なのだろう。

 一方、粗衣そいに身を包みながらも、きちんと髪をまとめた老境の男。

 その男は険しい表情で、両手で銅鏡を高くかかげ、口論の相手を威嚇いかくしていた。

 その行為と銅鏡が孫堅の注意も引き付け、視線が掲げられた銅鏡へと注がれる。

「朱雀鏡か?」

 銅鏡を掲げた男がその一言に過敏に反応して、その両手を地面に振り下ろした。

 ガチャンという乾いた音が洞穴に響き渡る。銅でできているために砕けはしなかったが、岩に当たった衝撃で鏡背の朱雀の目に当たる紅玉ルビーが外れ落ち、鏡面にも傷が入ったことには間違いなかった。

「これで傷入りだ。悪事には利用できまい」

 地面に転がった銅鏡を二人に見せつけて、老境の男が勝ち誇ったように言った。

「父上!」

 洞穴の奥から驚いた様子の少年が姿を現した。

「お前は下がっておれ!」

 それを見た老境の男が一喝するように言い、少年がその場に足を止めた。

「……この野郎!」

 襲いかかったのは賊徒の親玉、梁冀を騙った男の方だ。その前に孫堅が立ちはだかった。いきり立った男が両手の鉈を振るって孫堅に斬りかかったが、孫堅は難なくそれを打ち払い、逆に斬りかかる。

「この俺に逆らうのか、小癪こしゃくな!」

 しかし、孫堅が何度剣を振るおうと、それにはいつもの切れはなく、高慢な台詞せりふを発する賊の男を斬るまでには至らない。孫堅が剣を振る度に黒い霧がその刀身と孫堅の体に纏わりつくような感じだった。

『何だ……?』

 孫堅は自分の体に異変を感じた。重い。霧が意思と質量を持っているかの如く、孫堅の体を抑え込み、動きを鈍らせる。それを振り解こうと、激しく動こうとするのにつれて、急激に体力が減衰げんすいしていく。眩暈めまいがした。だんだん動悸どうきが激しくなり、次第に斬りかかる勢いもえて、ついにはひざを付いて剣を振るえなくなった。

「く……どういうことだ……!」

 会稽で遭遇した許生・許昭親子が発生させた妖術の霧では、こんな感覚に陥ることはなかった。孫堅のそばでは、老境の男と少年が同じようにうずくまっていた。

「ふはははは、九竅きゅうけいから入った陰気がお前たちをおぼれさせているのだ!」

 洞穴内に充満した黒い煙霧。それが元気を奪う要因だった。

〝九竅〟とは、目や鼻、耳など身体にある九つの穴のことである。

 この時代、九竅から悪霊が入り込んで、生者の体に病を引き起こし、死者の遺体を腐らせると考えられた。

 鼻と口から吸い込まれた陰気に孫堅は息苦しくなって、胸を抑えた。両眼は死体から立ち昇った白い霧が人の形をかたどるという幻視を見せる。耳から入ったそれは敵である男の声をも奪い、幻聴となって孫堅の頭に響いた。

『我、声を失うも、今、再びこれを得たり。ゆえに告げん……』

 霧の人物が赤く輝いた。ほのかに光るその手が伸びて、動けない孫堅のひたいに触れた。

『……今や四方の加護は失われ、陰陽の均衡は崩れ、太陰が太陽を侵すことはなはだし』

 富春水ふしゅんすいで溺れた時に聞いた声が脳裏によみがえった。

なんじ、強き志操をつらぬき、これを正せ。清き魂をもって、大地を祀るのだ』

 その声に反応したかのように、突如、激しい光が辺りを照らし、熱気が体を包んだ。孫堅の頭上で炎が霧に引火して、それが洞穴内の黒霧をがし、蒸発させていった。

『……いったい何が起きた?』

 孫堅はそれを確認する間もしんで、再び活力を取り戻した体を起こした。

「早く外へ逃げろ!」

 そして、背後の老境の男と少年に忠告し、二人に続いて自らも洞穴から脱け出た。


 何とか洞穴から抜け出した老年の男と少年だったが、それが精一杯だったようで、外へ出ると同時に倒れ込んでしまった。

 これがどういう状況なのか、孫堅には頭を整理する暇はなかった。ただ幻聴がうながす通り、孫堅は強い決意で悠然と歩み出てきた男に剣を向ける。

「……俺様の計画をぶち壊しにしやがって。苦しみながら死ね」

 梁冀を名乗る男が鉈を地面に突き立て、両腕を胸の前にかざした。そこに陰気がみなぎる。洞穴から流れ出た黒い霧が男の掌中しょうちゅうに集まり、数丈に伸びて龍の姿を形作った。

 黒気こっきの龍――――それは勢いよく宙に昇り、獰猛どうもうな口を広げ、孫堅に向かって舞い降りてきた。孫堅が地面を素早く転がって、それをかわした。陰気が充満していた洞穴を出て、若き孫堅の体に力が戻ってきた。同時に孫堅の脳裏に曹操そうそうが語った言葉が思い出された。

「この術は……!」

 涼州にてくつわを並べていた時に、曹操は都で起きた事件について語り、孫堅は会稽で目にした妖術のことを話した。濁流派に剣を向ける互いを認め合い、情報を交換したのだ。その時に曹操に聞いた。黒い龍が洛陽の宮中に現れたと……。

「――――黒気の龍?」

「――――ああ、濃密な陰気が黒い龍の形をした奴だ。妖術のたぐいだろう」

「――――都でも妖術か……。しかし、そんなことがあったとは初耳だ」

「――――洛陽の大衆が目撃したわけじゃない。目撃したのは何人かの宮中人とその場に居合わせた官僚、衛兵たちだけだからな。卒倒した者もいたし、夢か幻か、区別がつかない者もいたようだ」

「――――それで、その龍はどうなった?」

「――――オレが斬った。だが、逃げていったよ」

「――――どこに?」

「――――それは生まれた場所だろう。太陰界と言えばいいかな。龍は天子の現身うつしみだという。簒奪さんだつあきらめられなかった奴の野心が太陰界でくすぶり続け、何かの力が働いて、黒い龍の姿で現れたのかもな……」

「――――何かの力……」

「――――この世には仙界で作られた霊宝が存在するという。それが妖術の元になっているというのは本当らしいな……」

 曹操が宮中で目にした妖術。それがこの南方の山奥で再現されている。

 しかし、こんな田舎いなかの賊徒の親玉風情ふぜいが都で騒乱を巻き起こした張本人なのか。

 そんな孫堅の疑問とは関係なく、突如生み出された黒い龍が孫堅に襲いかかった。

 自慢の古錠刀こていとう一閃いっせんが龍の胴体を切り裂いたが、それは何の効果もなかった。

 陰気でできた龍は分断された胴体を空中で再び繋ぎ合わせて、孫堅に向かってきた。孫堅はそれを三度切り裂いたが、やはり、無駄であった。またもや、黒気の龍は一つになってたけり狂った。

「ふはははは、無駄なあがきよ。せいぜい奮闘するがよい」

 それを操る賊徒の男は孫堅から離れて、高みの見物を決め込んでいる。

 会稽での経験がある。術者を斬ればよい。孫堅は妖術を打ち破る対策を知っている。孫堅が体を反転させて、その男に向かって猛然と詰め寄った。しかし、あと一歩のところで、黒気の龍が上空から飛び込んできて、孫堅の体にからみついた。

「う、く……」

 まただ。また視界が暗くぼやけ、剣を振り下ろす力が失われる。孫堅の手から古錠刀がこぼれ落ちる。再度急激に精気が漏れ出していくような感覚に襲われて、孫堅はまたしても膝を付いた。

「下郎め、そこでおとなしくしていろ。すぐに素っ首をねてくれるわ」

 その男は動けなくなった孫堅を尻目に、突き立ててあった鉈を引き抜こうと背を向けた。その隙に体力をいくらか取り戻した老境の男が孫堅に静かにり寄って言った。

「これに触れるのだ」

 男はそっとふところから赤い銅鏡をのぞかせた。

「それは……」

「早く」

 男にかされて、孫堅がその銅鏡に左手を伸ばした。触れる。熱気が伝わってきた。それと同時に絡みついていた黒気の龍がもだえ始め、その陰気を蒸発させながら、形を崩していく。孫堅が霧の呪縛じゅばくを振りほどき、古錠刀を取る。力を得た古錠刀で最早もはや龍の形でもなくなった黒霧のかたまりを一刀両断した。それは激しく霧散すると、洞穴内で起こったのと同じように陰気に炎が引火した。宙に燃え盛る霧の火花。

「……きさま、何をした?」

 鉈を手にした賊徒の男は自分の術が破られたことに動揺した。

「これぞ清々たる地の力ぞ」

 答えたのは、孫堅を助けた老境の男だった。慌てた賊徒の男が「くそっ」と毒付いて、孫堅に鉈を放り投げた。活力を取り戻した孫堅がそれをかわす。

 男は何も持たぬその手に再度陰気を集めようとした。だが、

「ぐはっ……!」

 それが掌中に漲る前に体力を回復させた孫堅の一閃が男を斬り倒した。血しぶきを吹き出し、てのひらに集めかけた黒い気をき散らしながら、

「我が祖・暗黒の大将軍よ……。おおせのとおりに……」

 賊徒の男が仰向あおむけに倒れた。そして、その男は孫堅をにらんでなおも、

「漢の混乱は……続く。こ……これで終わりだと……思う……な」

 思わせぶりな最期の台詞を吐いて、果てた。不思議とその声はもう濁ってはいなかった。


 洞穴に倒れていたのは恐らく唐珍とうちんだと思われた。孫堅らは彼の遺骸いがい丁重ていちょうほうむった。そして、互いの疑念を晴らした一行は共にその足を零陵の郡都・泉陵せんりょうへ向けていた。

 道中、袁忠がその清名を名乗ったことで、老境の男も本名を明かした。

 胡騰ことうあざな子升ししょう。その人物こそ孫堅と袁忠が行方を探していた清流派の隠者であった。かつては大将軍・竇武とうぶの門生であり、今は袁忠と同じく難を避ける党人である。

 昔、桓帝が荊州に巡狩じゅんしゅした時、胡騰はその供として貴賓きひんたちと随行したことがあった。その車駕しゃがは一万を超え、荊州の出費は莫大であった。この時、護駕従事ごがじゅうじ(皇帝の御車みくるまを護衛する)として、荊州から派遣されていた胡騰が上言した。

「――――天子は常に国の中心であり、陛下がおわすところを都と為すべきです。どうか荊州刺史を司隷校尉しれいこういになぞらえ、私を都官とかん従事(都の官吏を主管する)にお命じください」

 これを皇帝が採択したため、胡騰は官吏・貴賓を厳然に管理し、州内は粛然となったという。竇武に薫陶くんとうを受けただけあって、貴賓におもねらず、不義を許さない堂々とした人物であるのだが、その胡騰が人目を気にする理由はかたわらの少年にあった。

「実はあの子は私の実の子ではなく、亡き大将軍の御孫であられる。名を竇輔とうほという」

 胡騰が道案内で先頭を行く少年の後ろ姿を眺めて言った。

「……そうでしたか。貴殿はこの地で二つの宝を守っておられたのですな」

 袁忠が感嘆の吐息とともに、何度もうなずいて言った。

 袁忠が探し求めていた神器、真の朱雀鏡はこの清流派の胡騰が保持していた。

 胡騰は竇武が敗れたのを知って、いち早く朱雀鏡と当時まだ二歳の赤子を抱え、南方へ身を隠したのだった。

たっとき清流を途絶とだえさせないためにも、いずれ時機が来たら、全て話さなければならないのでしょうが、どうにも情が湧いてしまっていましてな……」

 胡騰は困ったように顔を曇らせた。身分を隠すためとはいえ、十年も我が子・胡輔こほとして育てたのである。情が湧いて当然だった。

「それまでに世が清められればよいですが……」

 袁忠も胡騰の親心に同情した。何も知らない子供が突然、真の親子ではないと知らされて、大きな運命を背負うことになるのである。その運命を左右することになろう物が、神器・朱雀鏡だ。

「そう願いたいが、それは難しい。我等われらを襲った男はこれを狙っておった」

 胡騰は懐をぽんぽんと叩いて、危機を招く神器に嘆息した。

 政情が安定し、この神器を坤禅こんぜんできる日が一日でも早く訪れてほしい。しかしながら、現実は濁流派が各地で幅をかして政治を壟断ろうだんし、それに耐えかねた民衆の反乱が絶えないのが現状だ。それが胡騰の苦悩の種である。

「その男は梁冀と名乗ったそうですな」

「うむ。容姿は全く似ておらぬが、不吉なことに、あの濁声だみごえは梁冀そのものであった」

 梁冀が支配する暗黒時代を知る二人である。その話題になると、心も暗澹あんたんとなる。

 梁冀、あざな伯卓はくたく。生来の暴虐性の上に酒乱、心と同様、容貌ようぼうみにくく、その声も酷く濁っていた。貴族に生まれながら、法を犯すのは日常茶飯事、人を殺しても何とも思わないような人間だった。そんな人物ながら、外戚がいせきの身から順調に出世を遂げ、父・梁商りょうしょうの死後、大将軍を継いだ。そして、その権威で約二十年もの長きにわたり政権を聾断した。

 宦官たちが政権を握る前は梁冀があらゆる権力を掌握しょうあくし、外戚の梁一族が政権を独占して、天下を私物化していたのだ。梁冀が皇帝の位を簒奪するのも時間の問題かと思われた。だが、バック・ボーンであった皇后・梁氏の死が契機となって、桓帝は宦官の協力のもと、梁冀を打倒し、梁冀一族を皆殺しにして、縁者を交州へ流した。

「賊徒から聞き出した情報によると、梁龍という名だそうです」

 二人を警護するように歩く孫堅が告げた。

「梁龍……流刑にされた梁一族の可能性がありますな」

 袁忠が言った。そして、思い立ったようにつぶやいた。

「もしかすると、梁一族の怨念おんねんが一連の事件の元凶なのかもしれません」

 それから、袁忠は会稽での出来事を胡騰に話して聞かせた。

 会稽の反乱の元となった偽の朱雀鏡を製造し、それを会稽山に封じたのは梁旻りょうびんという男。梁旻も梁冀の一族である。そして、梁冀を名乗り、この交州の反乱を主導した梁龍。妖術が関係する数々の事件の背後には死んだ梁冀の影が見え隠れする。

「……そうであったか。それで合点がてんがいった。実は我等は朱雀鏡の力を高め、交州の賊徒共が荊州に入らないよう、加護とするつもりで九疑山に入った」

 桂陽の山中に身を潜めていた胡騰は此の度の交州の反乱が拡大するのを懸念けねんして、地勢をつかさど神器じんぎの力を利用しようと考えたのだ。霊力が失われた朱雀鏡に九疑山の霊力を充填じゅうてんすれば、荊州の盾となるのではないか――――。

「そして、導かれるように陰気渦巻うずまくあの洞穴に辿り着き、その奥で朱雀鏡によく似た銅鏡を見つけた。その時、あの賊徒とはち合わせた。あの男はこの朱雀鏡を狙ったのではなく、洞穴の奥に眠っていた偽の朱雀鏡を手に入れようとやってきたのか」

「それを知っていたということは、やはり、梁冀の一族だからでしょう。梁一族は朱雀鏡の精巧な複製を作り、それらに霊力を蓄えることで、本物に近い力を得られると知った。どうやら朝廷だけではなく、地方政権まで掌握して、漢全土を我がものにする腹積もりだったのでしょう。梁龍は先祖のように梁氏の復権を目指して、偽の朱雀鏡の力を求めたのではないでしょうか」

跋扈ばっこの野望を受け継いだのか。……死してもわざわいをもたらすか。悪しき野望をのこしおって」

 胡騰は苦虫を噛み潰したような顔で、この世に亡き梁冀を非難した。

〝跋扈〟は梁冀のことを指す。梁冀が殺したのは清流派だけにとどまらない。

 桓帝の前の皇帝は質帝といい、まだ八歳であったが、非常に聡明で、人格才能ともに不適格ながら権勢を誇っていた梁冀のことを「跋扈将軍」と呼んだ。

 梁冀の心の内が醜いことを悟り、一族が跳梁ちょうりょう跋扈していることを揶揄やゆした賢さがにじむ発言であった。

 その賢明さが後の禍となると察した梁冀は食事に毒を盛った。病死に見せかけ、恣意的しいてきに殺したのである。皇帝殺し。天をも恐れぬ所業である。

 自分に不都合な人間は皇帝であろうと手にかける。傲慢不遜ごうまんふそん暴虐無人ぼうぎゃくぶじん、極悪非道の塊。それが梁冀という男の正体だった。

「しかし、それを受け継いだ梁龍も死にました。これで梁氏の悪しき野望もついえたと思いたいですな。あとはこれ以上、偽の神器が出て来ないのを願うのみです」

 洛陽の宮中に現れた黒気の龍。その話を孫堅から聞いていた袁忠はこれで諸悪の根源が絶たれたと思いたかった。

 揚州・交州の二州で起きた反乱に隠された遠因――――跋扈将軍・梁冀という忌まわしき過去を忘れ去ることができると……。

『黒気の龍か……』

 孫堅は頭でその言葉を呟きながら、辺りに目をやった。もう黒く滲んだ霧は消え去り、不穏な空気も晴れている。

 孫堅は再び曹操と会うことがあれば、この顛末てんまつを話してやろうと、ふとそんなことを思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る