其之三 嶺南の役
北方の
孫堅は長い旅路の末、故郷の
「私にもお前のような体の強さがあればな……」
孫羌は恨めしそうに対面して座る弟の
今日の兄弟水入らずの会談には成人した孫静も同席している。
孫静、
「家を守ってくれる者がおらねば、私も安心して家を空けられません。兄上あってこその私です」
「体のこともそうだが、人にはそれぞれ生まれ持った役割があるのかもしれないな」
孫羌はそんなことを言いながら、一通の書簡を孫堅に差し出した。
「これは?」
「お前が留守の間に届いた。交州の
孫堅が書簡に目を通した。朱儁はかつて
そして、そこでの治績を評価されてか、昨年、交州刺史に就任していた。
後漢十三州最南の交州で反乱が起きたので、その鎮圧のために先の軍功を買われて起用されたのだ。書簡は孫堅にその討伐を手伝ってほしいという要請だった。
「内容は察しが付く。交州で反乱が起こっているのは、呉越にも伝わっているから」
反乱は交州七郡の一つ、
南越は秦末漢初の騒乱期に
ところが、中央から派遣されてくる知識の薄い漢の役人たちが
交州は南方との海路が開けており、インドやインドシナからの貿易船が往来する海上交易の玄関口でもあった。また、
異民族の住まう辺境にあって、清流派官僚は人民を教化し、仁徳でもって安定をもたらそうとするのに対し、濁流派官僚はただ自分たち
結果、交州では密輸、密売など官僚の汚職が絶えず、民衆の間には
つまり、濁流太守や県令は中央の無知を尻目にやりたい放題できたのである。
今度の反乱も朝廷では正確な実態を
刺史は通常、軍事力を持たない。すでに反乱の波は交州全土に及んだらしく、州で募兵することは
「行くのだろう?」
「行かねばなりますまい」
その答えを聞いた孫羌が末弟の孫静を見やった。孫静が長兄に答えた。
「兄上の申されるとおりでした」
弟の言葉を孫堅は理解できない。
「実はお前の答えを見越して、船の手配をさせておいたのだ。会稽の
「そうか。感謝するぞ、幼台」
「私は
「それは違うな。元々孫家は
「なるほど。確かに。兄上が堅兄のことを一番理解しているようですね」
「私だって、孫武の子孫に生まれたからには剣を取り、馬に
長兄の言葉に納得して、孫静が
また戦地へ向かうと決めた孫堅は妻と息子にそれを伝えなければならなかった。
また長い間家族と離れ離れになってしまうのは、夫であり、父親でもある孫堅の心を幾分
長子の
孫堅の活躍は妻の内助の功なしにはあり得ない。
南の海の色は目にも鮮やかで、冬にもかかわらず温かい海風が気持ちいい。
海路をとって孫堅が交州入りしたのは、
会稽郡と交州は海上航路で
交州の州都は
孫堅を乗せた船は番禺の港に入った。ところが、その番禺のある南海郡自体が混乱の真最中で、太守の
ゆっくり交易などやっていられない。孫堅を降ろした商船は番禺での交易を
朱儁の
孫堅は混乱の南海郡を
洭浦関は
反乱の首謀者以外は
「必ず来てくれると信じていたぞ」
孫堅の到着を聞き、朱儁は歓喜して自ら孫堅を出迎えた。孫堅は朱儁の他に過去ともに戦った
「皆様方、お久しぶりでございます」
その二人に
「また君に会えてうれしい」
「若き英雄の再登場ですな」
陸康と袁忠が笑顔で孫堅に歩み寄った。
「まさかここでお二人に会えるとは思っていませんでした」
「詳しい事情は中で話そう」
朱儁は関所に設けた軍営に孫堅を誘った。そして、四人だけで清流談義をした。
「……そうですか、桂陽の太守に。おめでとうございます」
まず陸康の経緯を聞いて、孫堅がその昇進を祝った。
六年前、許昭討伐時は呉の副司馬として孫堅の補佐に当たった陸康であったが、
これは呉郡陸氏が江南の名族であったことが大きい。孫堅よりずっと年長の朱儁と陸康はともに県令を経験して、その優れた政務能力が認められ、今は刺史や太守など
有能な者がその能力に合った官職に就くことは喜ばしいことだ。虚名だけの無能な者や
陸康が桂陽太守となったのは交州の反乱軍が北上するのを防ぎ、桂陽の民を
南接する南海郡が制御不能となっていて、桂陽郡内の不届き者の間には反乱の余波に
「君が
陸康に尋ねられて、孫堅は北で起きていた事情を話した。
行方不明になった
蔡邕は今は陸康の故郷、呉郡呉県郊外の
雄大かつのどかな震沢の風景を気に入ったのだ。
「……というわけで、今は無官の身です」
「そうだったのか。君のしたことは郡太守を務める以上の価値がある」
陸康は素直に孫堅の功績を
「玄武が
孫堅の話を聞いた袁忠も喜んだ。四神器の一つが見つかり、無事に坤禅されたこともそうだが、自身が見出した孫堅が使命を果たすために尽力しているのが何よりうれしかった。
「私もあれから
欒巴、
ある時、宮中で宴会があり、皇帝が欒巴に酒を勧めた。ところが、彼はそれを口いっぱいに含むと、西南の方角に向けて
「――――西南にて火事がありましたので、酒で吹き消しました」
欒巴がそう理由を述べた数日後、都から遠く離れた
「欒君は予章太守に
袁忠が言った。揚州予章郡南部の西側に隣接するのが荊州桂陽郡である。
欒巴は桂陽太守となって七年間、桂陽を統治した。学校を
「私も
これから桂陽を治める陸康は目標とする二人の清流派の先人の名を挙げ、清流の決意を固くした。〝府君〟とは郡太守の尊称である。欒府君と言えば、欒巴のことであり、許府君と言えば、
許荊は
欒巴はその後、
そして、あくまでも二人の正統性を訴え続けたので、宦官に憎まれてしまい、殺される前に自ら命を絶った。
「まだ朱雀鏡の手掛かりは掴めていませんが、こちらに
袁忠は鍵を握っているかもしれない一人の清流派の名を挙げた。朱儁が袁忠に尋ねた。
「胡騰……どんな人物ですか?」
「竇将軍の門生であったために党人とされた人物です。将軍の良き相談相手でもあったといいます。この桂陽の出身と聞きました」
党人は本籍地に帰され、官職へ就くことができない処分(禁錮)を受けたのである。清流派トップの竇武に近い存在だったならば、神器に関する情報を持っているかもしれない。今度は太守の陸康に聞いた。
「その胡騰という人物の所在は分かっているのか?」
「捜索してみたのですが、胡騰殿の本籍地にそれらしき人物は見つけられませんでした。党人ということなら、名を変えているかもしれませんし、未だ桂陽郡内に留まっているかどうかも分かりません。今も
清流の大事である。太守である陸康自ら胡騰を探したが、手掛かりは掴めないでいた。
党錮処分とは官界からの永久追放を指し、処分を受けた者たちは本籍地で軟禁された。しかし、党錮処分にも重い軽いのレベルがあり、胡騰の場合、暗殺の危険性がゼロではなかったとはいえ、処世は自由であった。
陸康が口にした名。
交州の反乱で桂陽郡にも動揺が広がった時、唐珍は太守府を訪れて、郡境の洭浦関に進出して賊の侵入を防ぐよう提案した。声が出ないので、筆談での提案だった。
陸康はそれに従い、こうしてここにいる。
「恵伯殿がすぐに見つけてくれるとよいが、近隣諸県に移っている可能性もあるな……」
朱儁の表情が
「荊州刺史の
朱儁も陸康も今や刺史太守の身である。清流にその身を注ぐにしても、自由に行動するわけにはいかない。信用のおける人物に内密に捜索を託す必要がある。二人にとって、それが唐珍であった。
「ともかく、この反乱が
朱儁が言った度尚とは、「
朱儁と度尚は縁が深い。共に
かつて度尚は朱儁の故郷である
朱儁は度尚のお陰で世に出ることができたと言ってよい。朱儁が度尚に対して、敬愛の念を抱くとともに恩義を感じている理由である。
「度君……度尚公ですな」
「度尚殿といえば、
孫堅が袁忠に確かめた。孫堅はその清名を会稽で聞き知っている。
「そうです。かつて度君は荊州刺史としてこの荊南の反乱鎮圧に従事されました……」
荊南で起きた十余年前の反乱について、袁忠が説明を始めた。
まだ孫堅が幼少だった
この危急の事態に、朝廷では新たな荊州刺史を選抜する人選会議が開かれた。
この時、清流派の重鎮であった
朱穆は
「――――朱公叔は文武の才を兼ね、天下の偉才なり」
朱穆は純然たる清流派で、
彼が
金縷玉衣を着せるのは皇帝のみに許された制度である。宦官
ちょうどこの頃、度尚は冀州の
州を巡察中だった朱穆はこれを見て、未だ無名の度尚を高く認めたのである。
朱穆は度尚だけでなく、欒巴や
朱穆の推薦で荊州刺史に
馮緄は
ところが、度尚が離任して間もなく再び反乱が起きた。
延熹八(一六五)年、第二次荊南の乱である。きっかけは荊州の辺境守備の官軍兵士が
度尚の後任の桂陽太守は
長沙太守の抗徐は
零陵太守の陳球とは
この事態を受けて朝廷は再び度尚を起用することを決定し、荊州刺史として州軍を統率して討伐に当たらせた。
『
孫堅はまたも心の中で思った。涼州で臧旻に聞いた話。清流人たちの繋がりは時を越え、今を生きる自分たちの心へと注がれる。
「私は旅の最中でいろいろな清流派の方々の話を聞きました。清流の繋がりとは不思議なものです。朱公が度君を、度君が朱儁殿を見出し、その清き思いは時を経て受け継がれていく……」
清流にも濁流にも
「そして、朱儁殿は孫堅殿、陸康殿と出会いました。……清流とは、忠孝仁義に源を発します。それは善たりて純粋なもの。まさに清き流れであり、人を大いに感化する力があるのです。孫堅殿もこれから心に清き流れを持つ者と出会い、あるいは見出し、感化し、感化されることになるでしょう」
袁忠はこの世を去ってしまった清流の友を思い出しながら孫堅に告げ、孫堅はそれを聞いて、真っ先に
「度君の
昔日、敬愛する度尚は荊州刺史となって賊の討伐に当たり、今日、自分は交州刺史となって賊の討伐に当たる……。朱儁にはそれが単なる巡り合わせとは思えない。
度尚によって見出された朱儁が、今の自分があるのは全て度尚の清らかな導きのように感じるのも不思議ではない。ならば、見事この反乱を鎮圧して見せねばならない。
「ところで、今の零陵太守は
朱儁が現桂陽太守の陸康に確かめた。
「はい、信用できる人物です」
「この大事の時に桂零両郡の太守が清良で助かった。来たばかりで済まないが、文台よ。そなた零陵に行ってくれぬか?」
朱儁がある考えを思いついて言った。
「零陵ですか?」
「うむ。実は賊軍の一部が州界を越えて零陵に入り込んだという情報を得た。零陵は孤立状態だ。そなたは無官の身だから、自由に動ける。私から太守に紹介するので、まずは零陵でその武勇を
零陵郡の南は交州
朱儁の軍勢は少なく、広範囲をカバーできない。交州刺史という立場からも荊州に入った賊徒を越境して追撃するのも制度上問題がある。何を以て濁流派に
そんな状況だから、無官で自由に行動可能な上、一部隊にも匹敵するであろう孫堅の武勇は実に有り難いものだった。賊徒の大軍に囲まれた
「胡騰殿が零陵に移り住んでいる可能性も考えられる。そなたは零陵を安んじてから胡騰殿の行方を探してくれ。ここの守備と桂陽の捜索は
桂陽郡の西が零陵郡であり、この両郡が交州と隣接する。反乱を鎮圧しながら、桂陽零陵
「蒼梧は比較的安定しているようだ。私はこれ以上の賊の北上を防ぐために軍を蒼梧に移して街道を封鎖しつつ、零陵と連絡が取れるように図る」
「畏まりました」
孫堅と陸康が
「私も孫堅殿と共に参りましょう。孫堅殿と再会できたことで、全てうまく運ぶような気がしてきました」
袁忠は自信を持って言う。
「同感です。我等が清流の繋がりのもとに再び集まったのですから、きっと天の加護がありましょう」
陸康が
孫堅の鮮烈なデビューとその活躍がまだ皆の記憶に新しいのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます