其之三 嶺南の役

 北方の幽寂ゆうじゃくの景色を目にしてきた孫堅そんけん双眸そうぼうに故郷の碧山碧水へきざんへきすいの光景が染みた。

 孫堅は長い旅路の末、故郷の富春ふしゅんに戻った。二年ぶりに父母の顔を見、兄弟に会った。兄のきょうは体調を崩しているのか、少しせたようだった。

「私にもお前のような体の強さがあればな……」

 孫羌は恨めしそうに対面して座る弟の強靭きょうじん体躯たいくを見た。しかし、その表情は曇ったものではなく、弟の武勇譚を聞いて喜んでいる。それは末弟の孫静そんせいも同じだ。

 今日の兄弟水入らずの会談には成人した孫静も同席している。

 孫静、あざな幼台ようだい。孫堅のような強さ、荒々しさはなく、穏やかな兄・孫羌に似ている。

「家を守ってくれる者がおらねば、私も安心して家を空けられません。兄上あってこその私です」

「体のこともそうだが、人にはそれぞれ生まれ持った役割があるのかもしれないな」

 孫羌はそんなことを言いながら、一通の書簡を孫堅に差し出した。

「これは?」

「お前が留守の間に届いた。交州の使君しくん朱儁しゅしゅん殿からだ」

 孫堅が書簡に目を通した。朱儁はかつて許昭きょしょうの反乱鎮圧に孫堅とともに活躍した人物だ。それが契機となって孝廉こうれんに推挙され、徐州東海国の蘭陵らんりょう令となった。

 そして、そこでの治績を評価されてか、昨年、交州刺史に就任していた。

 後漢十三州最南の交州で反乱が起きたので、その鎮圧のために先の軍功を買われて起用されたのだ。書簡は孫堅にその討伐を手伝ってほしいという要請だった。

「内容は察しが付く。交州で反乱が起こっているのは、呉越にも伝わっているから」

 反乱は交州七郡の一つ、交阯こうし郡で勃発した。反乱軍の圧力の前に兵力の少ない郡兵は為すすべなく敗れ、その勢いは郡を越えた。さらに烏滸うこという南方異民族を巻き込んで、あっという間に州全土に勢力を拡大した。反乱に異民族が同調するのは会稽の許昭の時と同じである。その時は山越族が反乱に同調したが、元々この交州の地には〝南越なんえつ〟という国が存在した。

 南越は秦末漢初の騒乱期に趙佗ちょうだが建国した越族系の王国で、前漢の武帝に滅ぼされて以降は漢の領土となった。南越時代から漢越融和政策が図られて、互いの通婚、文化交流などもあって、交州の民の多くが越人か、越人と漢人の混血であった。

 ところが、中央から派遣されてくる知識の薄い漢の役人たちが傲慢不遜ごうまんふそんに振る舞って、その土地の文化風俗を迫害したり、彼らに対して差別的処遇をしたりすることがしばしばだった。それに加え、立場を利用して私腹をやそうとする。

 交州は南方との海路が開けており、インドやインドシナからの貿易船が往来する海上交易の玄関口でもあった。また、真珠しんじゅ珊瑚さんご鼈甲べっこう象牙ぞうげなどの南海の珍品や、芭蕉バナナ椰子やし荔枝ライチ龍眼りゅうがんといった亜熱帯の果実が手に入る土地柄でもあり、収賄に余念のない悪徳官僚たちにとっては宝の山が目の前に転がっているような土地だった。遠路赴任してきた彼らはそれを見て、中央に戻る前に一財産稼ごうと躍起やっきになった。

 異民族の住まう辺境にあって、清流派官僚は人民を教化し、仁徳でもって安定をもたらそうとするのに対し、濁流派官僚はただ自分たち強欲ごうよくを満たそうとするだけで、民衆の生活などお構いなしに、目の前の利益をむさぼろうとする。

 結果、交州では密輸、密売など官僚の汚職が絶えず、民衆の間には怨嗟えんさの声が絶えなかった。ところが、朝廷は都から遠く離れたなかば外国のような土地への関心は薄く、その地の情報は刺史の報告に頼るだけで、正確な実態はほとんどの人間が把握していなかった。

 つまり、濁流太守や県令は中央の無知を尻目にやりたい放題できたのである。

 今度の反乱も朝廷では正確な実態をつかめてはいない。前任の刺史、郡太守は汚職に手を染めていたのだろう。反乱が起きると同時に遁走とんそうして行方不明になった。

 刺史は通常、軍事力を持たない。すでに反乱の波は交州全土に及んだらしく、州で募兵することはかなわない。朝廷は朱儁を一度会稽に帰らせてから、そこで募兵させて交州へ向かわせる手段をとった。戦闘的な越人たちの力をもって鎮圧させようというのだ。後は朱儁任せである。また、濁流派官僚が招いた反乱の後始末を清流派官僚がやらされるのだ。

「行くのだろう?」

「行かねばなりますまい」

 その答えを聞いた孫羌が末弟の孫静を見やった。孫静が長兄に答えた。

「兄上の申されるとおりでした」

 弟の言葉を孫堅は理解できない。怪訝けげんな顔をして、兄を見た。

「実はお前の答えを見越して、船の手配をさせておいたのだ。会稽の章安しょうあんというところに交州と交易している商船があるというので、お前を乗船させてもらえるよう交渉しておいた。交渉したのは、幼台だがな」

「そうか。感謝するぞ、幼台」

「私は堅兄けんにいのように武芸にひいでているわけではありませんから、できるのはこんなところです。それにしても、堅兄だけこうも違うのはどうしてでしょうか。この家に堅兄のような人が生まれたのを父上も不思議がっていました」

「それは違うな。元々孫家は孫武そんぶの子孫だ。武人でない我等われらの方が珍しいのだ」

「なるほど。確かに。兄上が堅兄のことを一番理解しているようですね」

「私だって、孫武の子孫に生まれたからには剣を取り、馬にまたがり、軍を率いてみたかった。この体ではそれは叶わないが、代わりに文台がやってくれている。我等の代わりに文台が孫家を隆盛させてくれる。我等兄弟はそれを支えてやればいい」

 長兄の言葉に納得して、孫静がうなずいた。

 また戦地へ向かうと決めた孫堅は妻と息子にそれを伝えなければならなかった。

 また長い間家族と離れ離れになってしまうのは、夫であり、父親でもある孫堅の心を幾分つらくさせたが、国家の大事とあらば、それをかえりみないのも孫堅だ。

 長子のさくは五歳になった。妻の呉氏ごしは才色兼備の良妻賢母だ。夫がずっと家を留守にしていても、国のために働いているのだと承知していて、不満を言わない。策にもそう言い聞かせている。だから、束の間の再会を果たした後、また孫堅が遠出することを決めても、何一つ文句を言ったりしなかった。

 孫堅の活躍は妻の内助の功なしにはあり得ない。


 南の海の色は目にも鮮やかで、冬にもかかわらず温かい海風が気持ちいい。

 海路をとって孫堅が交州入りしたのは、光和こうわ三(一八〇)年に入ってからである。

 会稽郡と交州は海上航路でつながっており、船を使う方がずっと早く交州入りできた。

 交州の州都は番禺ばんぐうという。同時に南海郡の郡都でもある。現在の広州市にあたる。

 孫堅を乗せた船は番禺の港に入った。ところが、その番禺のある南海郡自体が混乱の真最中で、太守の孔芝こうしはよりによって、反乱者側に加わっていた。

 ゆっくり交易などやっていられない。孫堅を降ろした商船は番禺での交易をあきらめ、さらに南へ下っていった。困ったのは孫堅も同様である。図らずも敵地の真っ只中に一人降り立つことになったのだから。州府は反乱者たちに占拠されている。肝心の交州刺史・朱儁が番禺にいないのを知り、孫堅は朱儁を探さなくてはならなくなった。

 朱儁のふみは交州入り前に書かれたもので、具体的な滞在地はしるされていかった。

 孫堅は混乱の南海郡を悠々ゆうゆうと一人北上しながら、その行方ゆくえを捜した。途中で刺史の軍勢が荊州けいしゅうとの郡境に屯留とんりゅうしているという情報を得、孫堅は荊州南端、桂陽けいよう郡との郡境になっている洭浦関きょうほかんでようやく朱儁に面会できた。

 洭浦関は洭水きょうすい溱水しんすい湞水ていすいの三つの川が一つに合流して山間を抜ける峡谷に造られている小さな関門である。秦代に作られた湟溪関こうけいかんがそれに当たり、後漢代ではここを境にして荊州と交州が分けられていた。朱儁はそこで街道を封鎖するようにして駐屯していた。交州の反乱軍が荊州に侵入しないようにするためであるが、現時点ではそれしか方法がなかったのだ。反乱軍の規模に比べたら州軍は寡兵かへいであるため、積極的に攻勢に出るわけにはいかない。朱儁は部下に州内を偵察させ、反乱に加担している土民どみん慰撫いぶさせるとともに、その方針を流布るふさせることに努めた。

 反乱の首謀者以外はゆるすので、おとなしく本籍地へ帰るように――――というものである。そうやってまずは反乱軍の兵力を減らすのだ。持久戦である。

「必ず来てくれると信じていたぞ」

 孫堅の到着を聞き、朱儁は歓喜して自ら孫堅を出迎えた。孫堅は朱儁の他に過去ともに戦ったなつかしい顔を見て、

「皆様方、お久しぶりでございます」

 その二人に拱手きょうしゅして言った。その相手とは陸康りくこう袁忠えんちゅうである。

「また君に会えてうれしい」

「若き英雄の再登場ですな」

 陸康と袁忠が笑顔で孫堅に歩み寄った。

「まさかここでお二人に会えるとは思っていませんでした」

「詳しい事情は中で話そう」

 朱儁は関所に設けた軍営に孫堅を誘った。そして、四人だけで清流談義をした。

「……そうですか、桂陽の太守に。おめでとうございます」

 まず陸康の経緯を聞いて、孫堅がその昇進を祝った。

 六年前、許昭討伐時は呉の副司馬として孫堅の補佐に当たった陸康であったが、わずかな歳月の間に桂陽太守に栄転していた。孫堅を飛び越すスピード出世だ。

 これは呉郡陸氏が江南の名族であったことが大きい。孫堅よりずっと年長の朱儁と陸康はともに県令を経験して、その優れた政務能力が認められ、今は刺史や太守など相応ふさわしい官職に就いている。

 有能な者がその能力に合った官職に就くことは喜ばしいことだ。虚名だけの無能な者や強欲ごうよくな権力者が官職をむさぼると、途端に世は乱れる。交州で起きている事態もそれの典型的な例だ。

 陸康が桂陽太守となったのは交州の反乱軍が北上するのを防ぎ、桂陽の民を鎮撫ちんぶするとともに、反乱への同調者が出るのを防ぐために採られた措置だ。

 南接する南海郡が制御不能となっていて、桂陽郡内の不届き者の間には反乱の余波にじょうじようとする者が出始めていた。陸康はそれを抑え込むため郡兵を率いて界境まで進出してきていて、朱儁軍の兵士や流入してきた難民に食糧を供給していたのである。

「君が県丞けんじょうを辞めたらしいことは聞いたが、それから何をしていたのだ? しばらく名を聞かなかったが」

 陸康に尋ねられて、孫堅は北で起きていた事情を話した。

 行方不明になった臧旻ぞうびんを探すために幽州から涼州へ、そして幷州へと北方を駆け巡り、清流の大学者・蔡邕さいようを助けた。王智おうちの陰謀をくじき、偶然四神器の一つの玄武硯げんぶけんを手に入れて、坤禅こんぜんの儀を見届けた。そして、呉郡まで蔡邕一家の身柄を送り届けた。

 蔡邕は今は陸康の故郷、呉郡呉県郊外の震沢しんたく太湖たいこ)の湖畔こはんに落ち着いている。

 雄大かつのどかな震沢の風景を気に入ったのだ。

「……というわけで、今は無官の身です」

「そうだったのか。君のしたことは郡太守を務める以上の価値がある」

 陸康は素直に孫堅の功績をたたえた。党人の袁忠はその陸康の庇護下ひごかにいた。

「玄武がまつられたのですね。よかった」

 孫堅の話を聞いた袁忠も喜んだ。四神器の一つが見つかり、無事に坤禅されたこともそうだが、自身が見出した孫堅が使命を果たすために尽力しているのが何よりうれしかった。

「私もあれから朱雀鏡すざくきょう行方ゆくえを探して予章郡を巡りました。予章ではかつて清流派の欒巴らんぱ殿が太守となって、炎の鬼神を駆使して土地の悪鬼悪霊を退治したという地元民の証言が残っています。孫堅殿がしたように、欒君も邪祠じゃしを破壊して妖術のみなもとを絶ったということですから、許昭・許生きょせいの妖術の根源はこの地にあったのかもしれません。しかし、残念ながら、朱雀鏡の証言は得られませんでした」

 欒巴、あざな叔元しゅくげん冀州きしゅう魏郡ぎぐん内黄ないこうの人で、道士でもあったという。

 ある時、宮中で宴会があり、皇帝が欒巴に酒を勧めた。ところが、彼はそれを口いっぱいに含むと、西南の方角に向けてき出した。

「――――西南にて火事がありましたので、酒で吹き消しました」

 欒巴がそう理由を述べた数日後、都から遠く離れたしょく成都せいとから報告があった。それは成都で大きな火事が発生したが、突然北東からの酒臭い突風が吹いて鎮火したというものだった。

「欒君は予章太守にうつる前、桂陽太守として長くこの地にありました。それで私も予章から移動してきた訳です」

 袁忠が言った。揚州予章郡南部の西側に隣接するのが荊州桂陽郡である。

 欒巴は桂陽太守となって七年間、桂陽を統治した。学校を建立こんりゅうして、上級官吏から下級官吏に至るまで学問を奨励しょうれいし、その能力によって昇進させた。有能な者を適材適所に抜擢ばってきして政務の安定を図ったのである。そのため、桂陽は欒巴のもとで大いに教化され、風紀が向上した。

「私も欒府君らんふくん許府君きょふくんを見習いながら、袁公をお助けする所存だ」

 これから桂陽を治める陸康は目標とする二人の清流派の先人の名を挙げ、清流の決意を固くした。〝府君〟とは郡太守の尊称である。欒府君と言えば、欒巴のことであり、許府君と言えば、許荊きょけいのことであった。ちなみに州刺史の尊称は〝使君しくん〟という。

 許荊はあざな少張しょうちょう、会稽陽羨ようせんの人で、欒巴の一時代前の人である。和帝わていの時に桂陽太守となって十二年もの長きにわたり、桂陽にあった。許荊もまた民の教化に務め、桂陽の人々は彼の善政をしのんでびょうを作り、碑を建てた。立派な人物だったが、孫の許戫きょいくは現太尉の職にあるが、宦官に迎合して濁流派寄りと見られている。

 欒巴はその後、沛国相はいこくしょう、尚書となり、竇武とうぶ陳蕃ちんばん擁護ようごして党錮とうこに座した。

 そして、あくまでも二人の正統性を訴え続けたので、宦官に憎まれてしまい、殺される前に自ら命を絶った。

「まだ朱雀鏡の手掛かりは掴めていませんが、こちらに胡騰ことうという人物が隠れ住んでいるらしいので、探して訪ねたいと思っています」

 袁忠は鍵を握っているかもしれない一人の清流派の名を挙げた。朱儁が袁忠に尋ねた。

「胡騰……どんな人物ですか?」

「竇将軍の門生であったために党人とされた人物です。将軍の良き相談相手でもあったといいます。この桂陽の出身と聞きました」

 党人は本籍地に帰され、官職へ就くことができない処分(禁錮)を受けたのである。清流派トップの竇武に近い存在だったならば、神器に関する情報を持っているかもしれない。今度は太守の陸康に聞いた。

「その胡騰という人物の所在は分かっているのか?」

「捜索してみたのですが、胡騰殿の本籍地にそれらしき人物は見つけられませんでした。党人ということなら、名を変えているかもしれませんし、未だ桂陽郡内に留まっているかどうかも分かりません。今も恵伯けいはく殿が探してくれています」

 清流の大事である。太守である陸康自ら胡騰を探したが、手掛かりは掴めないでいた。

 党錮処分とは官界からの永久追放を指し、処分を受けた者たちは本籍地で軟禁された。しかし、党錮処分にも重い軽いのレベルがあり、胡騰の場合、暗殺の危険性がゼロではなかったとはいえ、処世は自由であった。

 陸康が口にした名。唐珍とうちんあざなを恵伯。桂陽の人であるが、かつての有力宦官・唐衡とうこうの一族に連なる。とはいえ、唐珍は濁流的本家筋とは一線を画し、寡欲かよくで善良、清流派の度尚どしょうに称賛された。唐珍は数年前、司空しくう(建設大臣)にまで昇りつめたが、都で百鬼の被害に遭い、言葉が話せなくなる失語症をわずらって、桂陽に帰郷していた。

 交州の反乱で桂陽郡にも動揺が広がった時、唐珍は太守府を訪れて、郡境の洭浦関に進出して賊の侵入を防ぐよう提案した。声が出ないので、筆談での提案だった。

 陸康はそれに従い、こうしてここにいる。

「恵伯殿がすぐに見つけてくれるとよいが、近隣諸県に移っている可能性もあるな……」

 朱儁の表情がくもる。騒乱や人目を避けて隠れ住むとしたら、中央からできるだけ離れるのが常道である。南の果ての交州はそんな人たちが多く移住している地域だった。胡騰が交州のどこかへ移り住んで、此の度の騒乱に巻き込まれている可能性もある。もしそうなら、捜索は広範囲に及び、困難を極めるであろうことは言うまでもない。

「荊州刺史の趙凱ちょうがいという者が視察で近くに来ているそうです。宦官と繋がっていると噂の人物ですから、この男に知られないようにしなければなりません」

 朱儁も陸康も今や刺史太守の身である。清流にその身を注ぐにしても、自由に行動するわけにはいかない。信用のおける人物に内密に捜索を託す必要がある。二人にとって、それが唐珍であった。

「ともかく、この反乱がしずまらなければ、安心して探すこともままならない。恵伯殿は度君が見出したお方だ。度君の魂がよい方へ導いて下さればよいが」

 朱儁が言った度尚とは、「八厨はっちゅう」の一人に数えられた清流派の人物である。

 朱儁と度尚は縁が深い。共に貧賎ひんせんの身ながら、偶然清流の人物に認められて官職を得、忠義実直に務めて高官に昇るに至ったその経緯もよく似ている。

 かつて度尚は朱儁の故郷である上虞じょうぐ県の県長となって、若き朱儁を見出した。

 朱儁は度尚のお陰で世に出ることができたと言ってよい。朱儁が度尚に対して、敬愛の念を抱くとともに恩義を感じている理由である。

「度君……度尚公ですな」

「度尚殿といえば、曹娥そうが碑を建立こんりゅうしたという……」

 孫堅が袁忠に確かめた。孫堅はその清名を会稽で聞き知っている。

「そうです。かつて度君は荊州刺史としてこの荊南の反乱鎮圧に従事されました……」

 荊南で起きた十余年前の反乱について、袁忠が説明を始めた。

 まだ孫堅が幼少だった延熹えんき五(一六二)年、荊州の長沙ちょうさ郡で反乱が起きた。それは桂陽、零陵れいりょう武陵ぶりょうに波及して、荊南四郡はすべて冦略こうりゃくの被害にった。各地の太守は敗走、荊州刺史の劉度りゅうども敗れて遁走した。賊徒の軍勢は勢いを増し、州境を越えて交州にまで及んだ。まさに今回の反乱と似たような状況であったのだ。

 この危急の事態に、朝廷では新たな荊州刺史を選抜する人選会議が開かれた。

 この時、清流派の重鎮であった朱穆しゅぼくは反乱の鎮圧には民心の収拾が欠かせないのを悟って、まだ名の知られていなかった度尚を推薦した。

 朱穆はあざな公叔こうしゅく、南陽郡えん県の人である。子供の頃からの秀才で、五経ごきょうに明るく、性は矜厳きょうげんにして、悪を憎み、奸人かんじんとは交わらなかった。ある人いわく、

「――――朱公叔は文武の才を兼ね、天下の偉才なり」

 朱穆は純然たる清流派で、常々つねづね宦官の専横を憎み、それを除こうと志していた。

 彼が冀州きしゅう刺史にあった時、冀州安平郡出身の宦官、趙忠ちょうちゅうの父が死んだ。趙忠は帰郷して、父の遺体に金縷玉衣きんるぎょくいを着せると、豪奢ごうしゃな葬儀をり行って権威を示した。

 金縷玉衣を着せるのは皇帝のみに許された制度である。宦官風情ふぜいが父を皇帝になぞらえるとは傲慢不遜ごうまんふそん、越権行為もはなはだしい。早速、朱穆はその墓をあばいて、趙忠を弾劾だんがいした。

 ちょうどこの頃、度尚は冀州の河間かかん文安ぶんあん令に遷っていた。折しも不作のために穀物の値段が高騰し、民衆がえに苦しんでいたので、県の穀物倉庫を開いて人々に支給してやった。飢餓きがは善良な人々を悪党へ変える。各地で強盗や殺人などの凶悪犯罪が多発していた中、文安県のみそれが皆無であった。

 州を巡察中だった朱穆はこれを見て、未だ無名の度尚を高く認めたのである。

 朱穆は度尚だけでなく、欒巴や种暠ちゅうこうなど清流派の多くを推薦し、陳蕃もそんな朱穆を清流の同志として厚く信頼した。また、朱穆のあらわした文章は特にすばらしく、若き日の蔡邕はその家を訪れてみずから模写したという。

 朱穆の推薦で荊州刺史に抜擢ばってきされた度尚はその期待通り、車騎しゃき将軍に任じられ討伐軍を率いた馮緄ふうこんら諸将と協力して、三年に及ぶ奮戦の末に反乱を鎮圧した。

 馮緄はあざな鴻卿こうけい、益州宕渠とうきょの人で、各地の反乱鎮定に功績があった清流派の高官である。馮緄はこの鎮圧をもって都へ軍を戻した。度尚はその後、桂楊太守となって戦後処理を行うとともに、郡内の安定化に努めた。この時に唐珍という神童を見出して、その資質を称賛している。

 ところが、度尚が離任して間もなく再び反乱が起きた。

 延熹八(一六五)年、第二次荊南の乱である。きっかけは荊州の辺境守備の官軍兵士が褒賞ほうしょうが少ないことに暴動を起こしたことに始まる。

 度尚の後任の桂陽太守は任胤じんいんあざな伯嗣はくしといった。政務の才能があり、成皋せいこう令となって輝かしい治績を挙げた。朝廷は彼を桂陽太守に遷して事態の鎮静を図ったのだが、性格が臆病だったので、この暴動が郡内に広がる気配を見せると、さっさと逃げ出してしまった。郡のトップが任務を放り出して逃げ出してしまったのだから、収拾がつくはずがない。怒りの炎は燎原りょうげんの火のごとく、ますます勢いを増して、本格的な反乱へとスケール・アップしていった。度尚の連年にわたる苦労が無駄になってしまった形である。幸い、隣郡の太守、抗徐こうじょ陳球ちんきゅうは有能だったので、それ以上の飛び火は防ぐことができた。

 長沙太守の抗徐はあざな伯徐はくじょといい、揚州丹陽たんよう郡の人である。泰山郡で公孫挙こうそんきょという賊が反乱を起こした際は清流派の将軍・宗資そうしに従って、これを討伐した。賊徒討伐に関しては経験豊富で、名将と言われた人物であった。

 零陵太守の陳球とは曹節そうせつ打倒に失敗し、陽球ようきゅうとともに殺された清流派の陳伯真ちんはくしんのことである。この時は零陵太守として、数万の賊徒の包囲にも屈せずに、城を守り通した。

 この事態を受けて朝廷は再び度尚を起用することを決定し、荊州刺史として州軍を統率して討伐に当たらせた。

つながっている……』

 孫堅はまたも心の中で思った。涼州で臧旻に聞いた話。清流人たちの繋がりは時を越え、今を生きる自分たちの心へと注がれる。

「私は旅の最中でいろいろな清流派の方々の話を聞きました。清流の繋がりとは不思議なものです。朱公が度君を、度君が朱儁殿を見出し、その清き思いは時を経て受け継がれていく……」

 清流にも濁流にもくみする混流派の家に生まれた袁忠は同郡の范滂はんぼうと出会い、大きく感化された。清流派「八及はっきゅう」である范滂の純真な正義の心は袁忠を清流派へと導いた。

「そして、朱儁殿は孫堅殿、陸康殿と出会いました。……清流とは、忠孝仁義に源を発します。それは善たりて純粋なもの。まさに清き流れであり、人を大いに感化する力があるのです。孫堅殿もこれから心に清き流れを持つ者と出会い、あるいは見出し、感化し、感化されることになるでしょう」

 袁忠はこの世を去ってしまった清流の友を思い出しながら孫堅に告げ、孫堅はそれを聞いて、真っ先に劉備りゅうびを思い出した。朱儁は度尚のきどらない尊顔を思い起こす。

「度君の後塵こうじんを拝することができれば、これほど栄誉なことはない」

 昔日、敬愛する度尚は荊州刺史となって賊の討伐に当たり、今日、自分は交州刺史となって賊の討伐に当たる……。朱儁にはそれが単なる巡り合わせとは思えない。

 度尚によって見出された朱儁が、今の自分があるのは全て度尚の清らかな導きのように感じるのも不思議ではない。ならば、見事この反乱を鎮圧して見せねばならない。

「ところで、今の零陵太守は楊機平ようきへいだったか?」

 朱儁が現桂陽太守の陸康に確かめた。

「はい、信用できる人物です」

「この大事の時に桂零両郡の太守が清良で助かった。来たばかりで済まないが、文台よ。そなた零陵に行ってくれぬか?」

 朱儁がある考えを思いついて言った。

「零陵ですか?」

「うむ。実は賊軍の一部が州界を越えて零陵に入り込んだという情報を得た。零陵は孤立状態だ。そなたは無官の身だから、自由に動ける。私から太守に紹介するので、まずは零陵でその武勇をふるってくれ」

 零陵郡の南は交州蒼梧そうご郡と鬱林うつりん郡に接している。そこから賊徒の一部が零陵郡に侵入したのだ。かつて零陵で陳球が数万の賊徒に囲まれた。それがまた再現されている。

 朱儁の軍勢は少なく、広範囲をカバーできない。交州刺史という立場からも荊州に入った賊徒を越境して追撃するのも制度上問題がある。何を以て濁流派におとしいれられるか分からない。荊州刺史は濁流派と繋がっていると噂の趙凱だ。

 そんな状況だから、無官で自由に行動可能な上、一部隊にも匹敵するであろう孫堅の武勇は実に有り難いものだった。賊徒の大軍に囲まれた山陰さんいん救援のために孫堅が活躍した会稽の時と同じだ。勇者・孫堅の存在が作戦に柔軟性をもたらす。

「胡騰殿が零陵に移り住んでいる可能性も考えられる。そなたは零陵を安んじてから胡騰殿の行方を探してくれ。ここの守備と桂陽の捜索は季寧きねいに任せる。交州に移り住んでいた場合は、反乱を鎮定した後で探すしかない」

 桂陽郡の西が零陵郡であり、この両郡が交州と隣接する。反乱を鎮圧しながら、桂陽零陵界隈かいわいを探索しようということだ。

「蒼梧は比較的安定しているようだ。私はこれ以上の賊の北上を防ぐために軍を蒼梧に移して街道を封鎖しつつ、零陵と連絡が取れるように図る」

「畏まりました」

 孫堅と陸康が拱手きょうしゅして答えた。

「私も孫堅殿と共に参りましょう。孫堅殿と再会できたことで、全てうまく運ぶような気がしてきました」

 袁忠は自信を持って言う。

「同感です。我等が清流の繋がりのもとに再び集まったのですから、きっと天の加護がありましょう」

 陸康がうなずいた。六年前に功績を立てた者たちが、今こうしてまた顔をそろえたのである。そして、皆が袁忠の清流たる思いに協力しようとしているのだ。

 孫堅の鮮烈なデビューとその活躍がまだ皆の記憶に新しいのである。

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