第10話 苦いケーキ

私の名前はミリア。焦土の魔女と呼ばれる、大魔導士だ。


今日も北の森の奥にある『縄束亭ロープ・バンチ』で過ごしている。

店に着いた時、かなり気分が重かった。

魔術の研究の失敗は日常茶飯事だ。

むしろ失敗の繰り返しの先にしか、成果は得られない。

研究とはそういうもので、小さな誤算で結果が覆ることも珍しくない。

普段なら気にも留めず、次に進む。

でも今回は違った。

数ヶ月をかけて理論を構築し、術式を編み上げ、細部の調整を繰り返してきた。

万全の状態で成果を期待して臨んだ実験だった。

それが、数時間前。工房の一角を見事に吹き飛ばし、周辺の森に小さな爆発跡を残して吹き飛んだ。

また焦げた地面を作ってしまった。


時間と労力を割き、期待が大きかった分、反動が大きい。今までになく心が沈んでいる。

本を手にカウンターに座り、フォルカに顔を向けた。


「・・・・・・また失敗した」


と呟くと、彼はグラスを拭く手を止めてこちらを向いた。

フォルカは、異形頭の魔人だ。

黒い縄をぐるぐる巻いたような頭は、どこに目鼻があるのか分からないけど、はるか昔に見慣れてしまっている。

2mに届く程の長身は、その体格だけで威圧的だけど、静かに佇む姿は、穏やかな店内の雰囲気に溶け込んでいる。


「・・・そう」


彼の答えは短い。

そのまま沈黙が続く。

下手に慰められたり、根掘り葉掘り聞かれて的外れなアドバイスもどきをされるよりよっぽど良い。

無言でこちらの話を聞いてくれる、彼の静かな優しさに少しだけ気持ちが和らぐ。


店内には私の他にレザードがいた。

彼は確か、氷魔術が専門。「事象の停滞」を研究していると聞いた。

未知の領域に挑む者。私とは毛色の違う研究者だ。

そんな彼が私の様子を見て、いつもの調子で口を開いた。


「失敗は進歩の第一歩ですよ、ミリア女史。

研究とは、またその成果とは、一朝一夕でどうこうなるものではありません。

私も、何度となく失敗を繰り返して参りました。

今の貴女のように、どうしようもない行き止まりを前にして、心が折れかけたこともあります」


その言葉に、私はそっと顔を上げた。


「……そうなの? レザードはいつも、何もかも分かってるような顔してるから。そんな風に感じたことなんて、ないんだと思ってた」


言いながら、自分の声にかすかな震えを感じる。

こんなふうに、心の内を吐くのは久しぶりだった。


ここ数年――いや、もっと前からずっと取り組んできた研究だった。

いくつもの理論を積み上げ、長い時間をかけて検証し、ようやく形になったはずの魔法。

それを、私は今日、確かめたかった。確かめられるはずだった。


――でも、結果は出なかった。


暴走や崩壊といった、派手な失敗ではない。

魔素の循環は滞りなく、術式も形は保った。けれど、何の変化も起きなかった。

空っぽの術式。意味のない魔法。何も得られない結果。


それはつまり、私が長年かけて積み上げてきた全てが、間違っていたということ。


「もう、何をどうすればいいのか分からないのよ。

正しいと思っていたものが、全部ただの思い込みだったのかもしれない。

……今までの時間も、労力も、ただの遠回りだったんじゃないかって思えてくるの。

それでも私は、まだ、これを続けていかなきゃいけないと思ってる……」


いつまで繰り返すのよ…そう問いながら、私はどこかでその答えが欲しかったのだと思う。

私のこの疑念に、誰かが「それでも」と言ってくれることを。


レザードは静かに頷いた。


「……研究とは、そういうものです。

成果が出ないときほど、自分自身の存在を問い直すものです。

ですが、貴女が歩いてきた時間は、誰のものでもない“貴女の積み重ね”です。

その歩みが無駄だったかどうかは、貴女ご自身が決めることではありません。

必ず、それを受け取る誰かがいる。私は、そう信じております」


その口調に誇張はなく、ただまっすぐに、私の胸に届いた。

言葉よりも、その真摯な目が――研究者としての彼の在り方が――

私の疲れ切った思考に、ひとすじの灯を灯したようだった。


カウンターの奥でカチャリと音がして、私は視線を向ける。

そこにいたのは、フォルカだった。


背の高い、縄の頭の男。

黒いシャツに身を包み、長い腕でお皿をそっと布で拭っている。


カウンターの端では、カイルが猫のように丸まってうたた寝していた。

彼はいつの頃からか店に入り浸っている。それがさも当然で、店の一部であるかのように。


いつもの場所のいつもの光景。いつも自然体で、どこか安心感をくれる場所。


フォルカは私とレザードのやり取りをそっと見届けてから、皿を下げる手を止めて声をかけてきた。


「そういう日には、甘いものがいい。……ちょうど新作、焼いたとこなんだ」


トレイに乗ってやってきたのは、つやつやと輝くあめ色のリンゴが乗ったケーキと、ふわりと湯気の立つカフェラテ。

ケーキの名前はタルトタタン。リンゴの爽やかな香りと香ばしいカラメルの香りが漂ってくる。


「タルトタタンって、失敗したケーキから生まれたって知ってた?」


私が首を横に振ると、フォルカは穏やかに続けた。


「昔、アップルパイ用のリンゴをバターと砂糖と一緒に炒めていたら、うっかり炒めすぎてしまったんだって。

焦げちゃった見た目をどうにかしようとして、リンゴの上にタルト生地をのせてフライパンごとオーブンで焼いたんだ。

焼き上がったタルトをひっくり返したら……とても香ばしくて美味しいリンゴのタルトになったのが始まりらしい。

そこから、このケーキが広まっていったんだ。

一見、失敗したように見える焦げも、あきらめずに工夫したら、何とかなるもんなんだね」


この場合は、食い意地だったのかな?とフォルカがおどけて見せる。


それを聞きながら、私はスプーンを取り、一口、リンゴの層をすくって口に運んだ。

熱が入り、甘酸っぱくジューシーな果肉。

ほろ苦いカラメル。

その奥に、ほのかに感じる甘いシナモンの香り。


「……美味しい」


思わず呟いたその言葉が、ただ味だけでなく、胸の内側の苦さを溶かしていくようだった。


「失敗から生まれたケーキ……か。

うん、そうね。……失敗も、何かに変えられるのかもしれないわね」


フォルカが微かに笑って頷いた。


レザードも頷いてから、ふと視線をカップに落として言った。


「苦味というのは、ただ“苦い”というだけではありません。

時に、それは味わいの深さになる。

そして、思わぬ調和を生み出す要素にもなり得ます。

……それは研究も、人生も、同じことかもしれませんね」


私はもう一口、タルトタタンを口に運んだ。


ただ苦いだけではない。

ただ甘いだけでもない。

この味わいは、きっと私自身の時間にも、似ているのだろう。


ほんの少しだけ――

目の前の靄が、晴れたような気がした。



*************************************************************************


数日後の昼下がり、私はまた『縄束亭ロープ・バンチ』を訪れていた。


扉を開けると、店内にはいつもの穏やかな空気が漂っていた。

けれど、その空気とは対照的に、私の身なりは少々、乱れていた。


カウンターへ向かう私を、フォルカがちらりと一瞥する。

その目がどこについてるのかわからないけど、その視線が一瞬止まったのを、私は見逃さなかった。

彼は何も言わないまま、カウンターの中でグラスを拭いている。


私の赤い髪はところどころチリチリに焦げ、光沢を失っている。

頬には薄く煤が付き、外套の裾も少し焦げてほつれていた。

着ていた黒い手袋の右側には、うっすらと裂け目。指先に残るきな臭い焼けた匂い――


何も語らずとも、それらは雄弁に物語っていた。

今日の実験が、いかに派手に失敗したかを。


私はカウンター席に腰を下ろし、何も言わずにメニューをめくるふりをした。

けれど、視線はその途中で止まる。

止まった視線のまま、メニューをめくる手は止まらない。内容が頭に入る事もない。


フォルカはグラスを拭く手を止めず、こちらに声をかけてこようとはしない。

それがかえって心地よかった。

言葉ではなく、沈黙で寄り添ってくれるのが、この店の流儀なのだ。


やがて、私はふっと息をついて、ぽつりと呟いた。


「……タルトタタン、ある?」


フォルカはグラスを静かに置き、目の奥で穏やかに笑ったような気がした。


「あるよ。今日のは、なかなかの出来なんだ。カフェラテと一緒でいいかい?」


「うん。お願い」


それだけ言って、私はまた俯いた。

この苦さを、少しでも丸くできるなら、それでいい。


やがて目の前に、静かに皿が置かれる。ほのかに甘酸っぱくてほんのり焦げた香り。

タルトタタン――あの日、心の底に残っていた“ほろ苦さ”を救ってくれた味。


私はスプーンを取り、一口、リンゴの層を口に運ぶ。

甘く煮詰めた果肉が、焦げたカラメルと重なり、香ばしい層になってほどけていく。

鼻をくすぐるシナモン。ふんわりと溶ける生地。


静かに、深く、息を吐いた。

何も言わなくても、何も求められなくても――

ここに来て、この味に触れれば、私はまた歩き出せる気がする。


この“ほろ苦い味”を、自分で選んで口に運べたことが、何よりの証だ。

今日は、失敗を“受け入れた”日なのだと。


フォルカが、静かにカップを差し出してくれる。

その仕草に、言葉の代わりの労わりを感じながら、私はそっと微笑んだ。


「……ありがとう」


そう呟いた声は、誰に向けたものだったのか、自分でもよく分からなかった。

けれどそれで、じゅうぶんだった。


温かなカフェラテの湯気が、煤の匂いをやわらかく包んでいく。


焦げ跡は、まだ髪に残っている。

けれど、それを恥ずかしいと思う気持ちは、不思議と湧かなかった。


むしろ――

この苦さを連れて、私はまたここに来たのだ。自分の足で。


いつの間にか、私は、失敗するとこのケーキを食べに来るようになっていた。


それは“逃げ”ではなく、“癒し”であり、再び歩き出すための“儀式”のようなものだった。


このほろ苦いケーキは、私の再出発をそっと背中から支えてくれる。


焦げた跡が、甘さに変わる場所。

それが、今の私にとっての『縄束亭ロープ・バンチ』なのかもしれない。

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