第10話 ダメです

 みどりがカプチーノを手に入れてから、大きく変わったことが一つあった。


 カプチーノを日頃の足に使うようになってから、色々な人に注目され、声を掛けられるようになった。ちょっとした買い物に出かけて、駐車場にカプチーノを停めると、10人に1人ぐらいの割合でまじまじとクルマを見られている。


 男性、女性を問わず注目を浴びるが、おおむねの傾向として男性からは「ちっさ」、女性からは「可愛い」と言われることが多い。確かにどちらも翠が最初に抱いた感想と変わらないのだが、他人の口からその言葉を聞くと少々こそばゆい。


 通勤にもカプチーノを使うようになったので、同じ役所の職員達から声を掛けられる回数も増えた。今までは同期の数人を除くと、同じ部署の人達とぐらいしか話をすることがなかったのだが、たまたま業務の都合で他部署の人と話をしたり、廊下ですれ違ったりする際に「クルマ、買ったんだって?」と聞かれる機会が多くなった。


 ただ、クルマが趣味の職員から「ちょっとクルマ見せてよ」と頼まれ、昼休みの時間に駐車場まで呼び出されることがあったのには、少し閉口した。


 カプチーノを見たいと言われることに悪い気はしなかったのだが、今までに接点があった相手ではなかったし、そのような相手に貴重な休み時間を取られることには少し抵抗があった。相手が他部署の課長だったという理由で、なかなか話を断れなかったという事情もあったのだが。


 それでも、その課長に「ちょっとそのへんを運転させてよ」と言われた時、翠は多少なからず緊張を伴いながらもはっきりと答えた。


「ダメです」


 脳裏をよぎったのは、北岡の言葉だった。信頼出来ない相手にカプチーノのハンドルを預けてはいけない――今回初めて会話をしたような相手に、そこまでの行為を許すことは出来ない。役所の中では仕事の話や職員組合の動員の話など、今まで他人からの頼み事を断るようなことがほとんどなかった翠にしてみれば、それはとても勇気が必要な言葉だった。


 課長にしてみればその回答は色々と意外だったらしく「自分は車の運転歴が長いから大丈夫だよ」などと言って苦笑したが、翠は「このクルマを買う時の約束事もあって、他人に運転をさせる訳にはいかない」と答え、運転席に座らせることまでを譲歩とした。


 課長は多少不機嫌そうな顔をしながらもカプチーノの運転席に潜り込み、それでも「低い」だの「狭い」だの言いつつ、楽しそうにニヤニヤ笑いながらハンドルやシフトノブに触れていたが、そんな相手を見て翠は心底陰鬱な気持ちになった。


 何となく、カプチーノをけがされたような気がしたからだ。相手が自分の頼みを断られるとは思っていなかった様子にも、内心腹が立っていた。自分のことを「頼み事を何でも聞く人間」だと思われていたのであれば気分が悪かったし、もしも「課長」の頼み事を断らないだろうなどと思われていたのであれば、それは一種のパワハラではないのかとさえ思った。


 その日以降、勤め先役所で「クルマを見せて欲しい」と言われたとき、翠は「見るだけなら」という条件付けをするようになった。マイカー通勤に切り替えたことや、MT車に乗り始めたことなども含めて、周囲からは時々「谷川さんって少し変わったね」と言われるようにもなったが、翠の知ったことではなかった。

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