㉖ 完全血聖と交雑変体




「ぷはー、いいお湯でしたぁ。」


 アヒオたちが上がり、久々に装衛具や衣類を脱いでキペも湯に浸かっていた。また着ていたものを洗えたのもよかった。

 今は懐かしの『ヲメデ党』党員服に袖を通している。


「お、出たかチペ。んじゃ次あたい行くね。・・・ん、なんだっ? どうしたその腕っ!」


 矢を受けた肩の傷は赤黒く跡を残すだけになっていた一方、感情のままに握り潰した左腕の傷はかさぶたを作っていた。

 その傷を生み出した力の中の、怒りのような憎しみのような苛立ちのような悲しみを、キペは傷跡と一緒に過去のどこか遠くへ封じ込めようとする。


「ん。あぁ、いや。なんでもないよ。あ、そうだ、ニポの腕巻きと足巻きも洗っておいたからあとで乾いたらちゃんと着けておきなよ? 装衛具は借り物だけど、体を守るのにはうってつけなんだからね。」


 軽量化に重点を置いたとはいえ編み金服を変形させるほどの馬鹿力も、自分を案じるニポのまなざしの前では静かに閉ざされていく。

 今は少なくとも、その方がいいなとキペは思う。


「へーへー。それよかもしアレなら赤目に言いな、消毒くらいはしてくれるからさ。ほんじゃ、ひとっ風呂浴びてくるわい。」


 そう言ってニポは体を包める大きな手布を肩にやり、明るくない昼下がりに庭の裏手へ歩いていく。

 屋敷の中は薄暗くてあまり好きにはなれなかったがアヒオとリドミコは散歩に出ているため赤目とウィヨカだけになっている。食事や宿、風呂まで世話になって返すもののないキペとしてはせめて傍にいてあげたいところだった。


「あらキペさん、ニポちゃんと一緒にお風呂入るんじゃなかったんですか。」


 どうにもヘンな誤解が浸透してしまって困るキペ。

 アヒオの場合は冷やかしと分かるものの、赤目やウィヨカは冗談で言ってるのか掴めない節があった。


「そんなことしませんよ。あ、オジャマなら僕もそのへん回ってきますけど・・・」


 お返し、というわけでもない。ただ十代の恋と違って、こう落ち着いた二人だと居ていいものか見当をつけかねてしまうから。


「ふふ、きみがイヤじゃなければいてもらいたいな。・・・あ、そういえばきみたちは浮島シオンに行くんだよね? ちょっと来てくれるかな、見せたいものがあるんだ。」


 何か地図や手引きでもあるのか、赤目はにっこり微笑むと火燈りを持って自室のある二階へキペを連れて歩き出した。

 赤目と一緒にいたいのか、いることが仕事なのか、キペの後にはウィヨカも続く。


 かちゃ。


「うわー明るいなぁー。大丈夫ですか赤目さん。」


 部屋の壁にはたくさんの鏡が据えつけてあり、たった一つの火燈りでも反射が反射を呼んで指の先までよく見える。


「ふふ、僕も暗すぎると目が疲れちゃうからね、自分の部屋くらいは明るくしたいもの。」


 かちゃ。


「・・・。」


 感心してよちよちと部屋の中へ入るキペの背中でウィヨカがドアを後ろ手に閉める。


「・・・え? え? どういうこと?」


 ものすごく簡単に罠に引っ掛かってしまったらしい。

 とはいえ、二人の表情は悪巧みのそれとはかけ離れている。


「・・・すみません、キペさん。あるヒトからヘクト蟲が届いていて・・・」


 そう言ってウィヨカは不思議な匂いを漂わせるお香に火を灯す。


「騙していたわけではないけど、僕らとしてもきみがどういうヒトなのかは見ておきたかったから伏せていたんだ。

 ・・・これから話すことを、きみはしっかりと受け止めてキぺ。きみなら大丈夫。」


 そこで頭の鈍いキペでもわかった。

 何か大きな話が今から始まること、そしてそれを受け止められる器があるか見極めるためにウィヨカやニポの話をわざわざキペに聞かせたことが。


「少し長くなるけど聞き届けて。

 まずきみは『カラカラの経典解識班』という集まりを知っている?」


 カラカラの経典、というものは知っていたが、自信はなかった。


「いいえ。」


 そう答えながら、声というか音というか、この部屋の響き方に妙な違和感を覚える。


「心配しないで。ここは即席の疑似仮構帯だから感覚がぼんやりするけど害はありませんから。・・・やっぱり〈音の契約〉が済んでないようね。」


 赤目にそう告げ、ウィヨカはキペに椅子を持ってくる。

 ふわふわするそれは椅子の鳴らす音までもが耳ではなく体で知覚するような感覚だ。


「質問するより説明した方が早いかもしれないね。きみたちがこの村を訪れるかもしれない、と連絡していろいろ頼んできたのはダジュボイさんだ。

 そして彼はジラウ博師とも面識がある。・・・もう、無関心ではいられないよね。」


 その拍動は一瞬の爆撃だった。


「・・・なんで、父さんが・・・?」


 十の四巡りを、それ以前を遡ろうとする記憶が徐々に色と声とを帯びて動き出す。

 その中へ、その奥へ潜るようにキペは耳目を歩かせた。


「いっぺんに話すとこんがらがってしまうかもね。ひとまず『解識班』の話をしよう。

 キペ、きみはカラカラの経典は知っているね? 現在のイモーハ教の母体となった教えのことだよ。


 そこには「教え」も書かれていたが、「歴史」も綴られていたとされている。


 これは教会にとって非常に危険なことでもあることは解るかな。次第によっては太陽信仰に分裂したイモーハの根底を揺るがしかねない事実や思想が肯定されている可能性もあるからなのだけど。


 まあ細かいことはそれくらいにして、だからこそ『カラカラの経典解識班』は優秀な信者だけで構成されていたんだ。

 発足自体は昔からあったけど構成員がほとんど抜けてしまった上、教皇によって解体が命じられたために現在は存在しない集団なんだよ。


 そしてそこに在籍していたのが、スナロアさん、モクさん、ダジュボイさん、現・執官史のウルア、風読みのジニ、そして現・教皇のロウツだった。


 名前だけ聞いても錚々たる面々であることはわかるんじゃないかな。

 で、彼らは行脚などで得た人脈を用いて月星信仰の者と接触を持ち、原初の教えの謎に迫っていったんだ。それでも自分たちだけでは不可能だと悟ると、ついに信者ではない「解古学の有識者」を非公式に迎えることになった。」


 曖昧なはずの記憶が普段のそれよりずっと滑らかに解かれてゆく。

 母に似たハユの丸顔と、面長の父の顔。

 その声とやさしさが――――。


「それが父さんだった?・・・ちょ、待って。十円前の、前回の〈出像祭〉のあの物盗りは・・・?」


〔ろぼ〕のいる『ヲメデ党』の党首がモク。

 そのモクが所属した『解識班』と繋がっていたのが父・ジラウ。

 祖父・タウロの襲撃も含め、セキソウの村のいち家族が狙われた理由があるとするなら、もうその繋がりにしかなかった。


「それは別の機会にさせてもらうよキペ。

 ・・・はあ。僕もどこから切り出せばいいかわかんなくなっちゃうな。


 ええと、整理して考えてね。カラカラの経典は「遥かな昔の真実を書き綴ったもの」ってところはいいね?


 そして歴史を訪ねる者すべてが探しあぐねているのが「ユニローグ」という存在だ。


 所詮うわさや伝説に過ぎないけど、ユニローグには開闢の時よりの全てが記されていると伝えられているからね。

 これはモクさんから聞いた話だけど、彼ら『解識班』はその尻尾をついに捕まえたらしいんだ。ただ、そこには大きな問題があった。


 きみはもう既に本物の仮構帯や神殿を守る《膜》を知っているね?

《膜》、正しくは《ロクリエの祈り》という菌類や胞子、その他の毒に守られている神殿だけど、過去からの知恵により神官たちはその対処法を熟知している。


 でもね、ユニローグという存在の前には、《ロクリエの祈り》とはまた異なる《ロクリエの封路》と名付けられた障害がある、という解読がなされたんだよ。


 ユニローグの場所自体はモクさんとスナロアさんだけが知っているらしいけど、それも定かじゃない中で「致命的な壁」にぶつかったというわけだ。」


 人工的なものとはいえ、この疑似仮構帯特有の「落ち着き」が思考の回路まで潤滑にする。知識や記憶を在るべき線で結ぶと、理解と思索に驚異的な変化が生まれてくる。


「・・・えと、うんと、《ロクリエの祈り》は覚醒子である僕らに効果はありませんでした。

 たぶんそれはかつて伝説の魔法使いと呼ばれたロクリエ族のヒトと、直接、もしくは間接的に何か関わりがあるから、ってことでしょう?


 そして経典解読の結果、ユニローグ到達に障害となる名称が《ロクリエの封路》と訳されたのなら、《膜》同様、台王・ロクリエ時代の遺産であることは想像できます。


 ・・・でもなんで僕だけにそんな話を? 

《オールド・ハート》ならリドミコも持っているし、あの子には語り部の精霊が宿っています。難しい話なら彼女の方が適役じゃないですか?」


 知識を持ったジラウ博師の息子、では納得はできなかった。解古学に特に詳しいわけでも何かを教えられたわけでもないのだから。


「いつかは聞くはずだったんだろうね。祖父・タウロさんも母・ナコハさんも、きみに話せずに息を引き取ったというわけか。・・・いや、話さずに、かな。」


 その呟きが意図したものかどうかは別として、さらりと耳に響いた母の名前が心臓を強く打ち鳴らす。


「・・・・・・鉄、打ち?」


 ジラウが何か鍵を握っていたとしても「いち学者」の義父や嫁の名前までは普通、逐一調べたり憶えたりすることはない。

 タウロの名前が出た時点で気付くべきだったが、ここまでくれば決定的だ。キペ、母ナコハ、祖父タウロの共通点など、[打鉄]屋であるということしかない。


「ご名答。ただきみはまだ真正の鉄打ちではないようだね。


 僕らは詳しくないけど、モクさんたち『解識班』はジラウさん伝てで「きみたち鉄打ちが見習いや真正の称号を得るために儀式を行っている」というとこまで突き止めたんだよ。


 見習いでは〈木の契約〉を、それから第八人種が順応し変体進化を遂げたところで真正の儀式と称し〈音の契約〉を結ぶこともね。


 話をすこし戻そうか。

 きみの言ったとおり《ロクリエの封路》は《膜》である《ロクリエの祈り》と何か関わりがある、とモクさんたちも考えた。

 でもやはり未知なんだ。神殿の《膜》のように対処法を知る者が皆無だからね。


 だけど「血聖」や〈契約〉にはその謎を解く手掛かりがある、彼らはそう結論付けた。


 キペ・・・一つ尋ねなくちゃならない。


 きみはジニから《六星巡り》の同伴を求められなかったかい?」


 ニコニコと細められていた目はいつの間にか見開かれ、真紅に輝く瞳でまっすぐキペを射抜いている。


「・・・はい。でもあなたまで風読みさまを悪く言うんですか? あんなにおやさし――」


 そこでニポの言葉、アヒオの話が無情にも呼び起こされる。

 どちらも予想や浮説なのに、そう信じたいのに、アヒオとニポを疑えなかった。

 キペは今、漂うだけだ。


「反論や感想は後にしてもらおう。だけどキペ、きみは何も知らされていないのをいいことに利用されていたと考えていいと思うな。


 ジニのやっている《六星巡り》の意義を、目的を、たぶんきみは「霊像の代替措置」とでも聞かされているんじゃない?


 確かに、僕の生まれるずっと前には幾度かそういう理由で《六星巡り》は行われその通りの結果を残していた。

 そしてだから、そんな前例が歴史の中にあったから神像の真の価値を「霊像の保険」とすることに疑問を持つ者がいなかったんだ。


 でもさ、神像一体を持って神殿を回るだけで《膜》である《ロクリエの祈り》を保持できるのなら、わざわざ加工の面倒なニビの木を用いてまで六体も余分に霊像を作る理由はどこにあると思う? 

 もちろん、偽装や目くらましとしては有効だし六体も作ればさぞ崇高で圧巻な光景になるだろう。


 でも霊像も神像も、目にすることのできる一般のヒトなんてごく限られた数しかいないんだよ。〈神霊祭〉を執り行う時に霊像は各神殿に向けてバラバラに奉納されているからね。


 それにおそらくタウロさんにしてもナコハさんにしても、その制作の最中は見習いのきみ以外の誰にも見せることなく棚や箱にしまっていたはずだ。


 わかるかい? 


 誰かに見せびらかすために霊像が作られたわけじゃないんだ。そもそも保険が必要なら神像を二体作ればいいだけなんだよ。


《六星巡り》は一周まわって全ての神官の血を混ぜることで《膜》を維持する酵素を作り出す。そして「生き神像」となった断片を再び各神殿に供えることで「生き霊像」の代わりを果たすことができる。


 ならなぜ霊像と神像を分けなければならないのか?

 なぜ最も尊厳ある神像が、七つめの「予備の霊像」なのか?

 ジラウ博師という、真正の鉄打ちであるナコハさんを伴侶に、そしてタウロさんを義父に持つ学者と接触することで初めて『解識班』はその素朴な疑問に辿り着いたんだ。」


 心なし上気気味になっていた赤目はそこでひとつ呼吸を整え、棚からササを取り出し陶杯に注いだ。


「うんと、じゃあ神像は「霊像の保険」じゃない独立した意義を持っていた、ってことですか?」


 言われてみればそう考える方が腑に落ちた。霊像の消失、という稀有な危機のためだけに神像を作ったのだとしたら手が掛かりすぎる。

[打鉄]による手数は別としても、生育の遅いニビの木なのに霊像よりひと回り大きい上、打ち込むバファ鉄も大きく、鋳込むには手間も時間も必要とするからだ。


 それだけの対価を払っておきながら六つの霊像のいずれにも不測の事態が起きなければ今は、少なくとも前回の神像は、旧大聖廟にただ飾られただけなのだから。


「いま現在続いている《膜》の循環を支えるためには、各神殿で独自に変異していったシム人神官の血が不可欠となる。きみは《膜》について知らないかもしれないから簡単に説明だけはしておこう。


 各神殿には必ず小川や池などがあり、その周辺に《膜》を生み出す植生や、そこに息づく微生物の庭がある。それらを育む酵素は神官の血に宿る第八人種が作り出している。

 第八人種は神殿内にある水路と「家」となるニビの木があれば培養できるんだよ。


 そうして神官の血を含んだ霊像は第八人種で満たされ、作り出した酵素と共に水路を伝って《膜》を生む生き物を支えるんだ。もちろん第八人種が増殖するから霊像もニ、三円を数える頃には朽ち果ててしまうけどね。


 さて、と。とりあえず《ロクリエの祈り》についてはこんなところかな。」


 注がれたササをキペも含む。

 考えられないほど言われたこと思いついたことが隙間なく組み合わさったが、だからこそなぜ長々長々と赤目が霊像やら神像の話をしたのかに合点がいく。


「・・・ユニローグを阻む《ロクリエの封路》の鍵は、・・・神像?

 神像の本来の意義が・・・《六星巡り》?


 そうか、ふつう神像はいつもどこからも第八人種である微菌をもらっていない。だから誰もその真の効果を知る機会がなかったんだ。

 たとえ知る機会があったとしてもそれはせいぜい「霊像の代わりとしての役割」だったから、それが神像の真価だと思ってたのか。」


 まるで初めて発見した者のように驚きながらも顔をほころばせてしまう。

 土をほじくり返したり読めない文字を読んだりする解古学者の、いや、学者と呼ばれるヒトビトが歩いていける気持ちの一端に、キペはようやく触れられたようだ。


「きみは見ていて飽きないねえ。・・・でもね、話はそれだけでは終わらないんだ。」


 当然だ。

 ユニローグの場所をモクたちが掴んでいて、その行く手を阻む《ロクリエの封路》なるものが《六星巡り》を終えた神像でなんとかなる、というだけならもう本当にキペはいなくてよかったのだから。


「僕が関わる、ってこと、ですか。でも・・・・

 っ!・・・《六星巡り》を、まさか、僕で?」


《封路》解除のために《六星巡り》を行う風読み。

 それといま議題に上がっている自分の接点を思い返すと、そうなってしまう。

 そしてそう考えると、ハユの捜索に協力した風読みが申し訳なさそうな顔でキペだけにその同伴を頼んだ理由にも至ってしまう。


 ただの護衛なら「風読み」の肩書きでいくらでも屈強な男が揃えられるにも拘わらず、ひよわなキぺが選ばれたのには何か他に理由がなければ説明できない話だった。


「・・・ごめん余計なことだけどさ。キペ、きみは永遠に仮構帯で生きた方がずっと賢く寿命がまっとうできる気が・・・ごめん。」


 実はキペもちょっと、そう思っていた。


「さておきえっと、ここからが本題なんだ。・・・ウィヨカ、続きをおねがい。」


 ドアの前でやりとりをじっと眺めていたウィヨカにも景気付けに一杯手渡す。


「はい。んぐ。・・・・・・ふぅ。キペさん、あたしが話した、交雑による変体の話、憶えてます? 

 すこし違うけど今あなたはそれを体験しているのでそこから話を広げますね。」


 そう言ってウィヨカは視線を赤目に向ける。


「え、じゃあこの疑似仮構帯って、本当にあなたたちの意志で作ったってことですか? 何かを利用したんじゃなくて・・・でもそんな、ヒトにそんなことが・・・」


 微菌やら何やらが体に干渉して意識を奪ってひとつのイメージに連れていく、というのがキペの体験した仮構帯への手順だった。


「光と音、それにこの香蝋をうまく使えば擬似的な体験はさせられるんだよ。

 とはいっても、これは催眠術の親戚だから体への負荷はない。きみが受け取っている感覚は間違いなくきみ自身の体が知覚しているものだから、この部屋を出てしばらくしたら元に戻るよ。


 そういった影響を捨て置いてでもきみには頭を研ぎ澄ましてもらう必要があったし、ウィヨカの〈音〉の力で無理にでも聞いてもらう必要があった。

 今ならそう僕が釈明しても、納得してくれるだろう?」


 いつも先手を行く頭の切れる男だった。

 僕とどっこいだな、そう、慢心しきったキペは思う。


「これが〔魔法〕なんだと思います。・・・ちょっと強引に聞こえるかもしれませんね。

 でも今こうして香蝋や光、そして〈音〉をこのように複合的に使いこなせるような第八人種の交雑変体、つまりは《六星巡り》で手に入れた複雑な「血」を〔魔法〕と考えれば、《ロクリエの封路》を突破できると思いませんか?」


 常識を超えた能力と謎。〔魔法〕を因数分解するとそうなる。


「でも、交雑変体した血が〔魔法〕だとしても、使うのはヒトの体ですよね。

 ということは神像に含ませた六つの神官たちの血が手にできても、それを取り込んで使いこなせるであろう「僕」がいない以上、風読みさまは《ロクリエの封路》の突破に失敗するってことですか? それよりなんで僕にそれを話すんですか?


 誰もが望むユニローグへの道が切り拓けるならこんなにまどろっこしい手順を踏まず、僕に風読みさまの手伝いをしろと言えばいいのに。」


 風読みを嫌っているのかよく掴めない二人の意図がまた霧に包まれていく。


「あなたに話したのはダジュボイさんの意思です。

 ・・・「彼」がとしての儀式である〈木の契約〉を結んだかどうかは――――」

「まさかっ!・・・そんな、は、ハユは・・・ハユを・・・?」


 ニポたちと共にいなくなったキペの捜索が単純でないことは風読みにも予測できる。

 たとえアヒオにそれを任せても、できればより確実な「鉄打ちの息子」は掌中に収めておきたいところだ。

 そして、しかしその手筈はもう既に整っていることになる。


 風読みはハユの居所を『スケイデュ』内部と目星をつけているし、キペと同伴で訪れ釘を刺したことでハユに警戒心を抱かせることなく接近する口実を手にしていたのだから。


「率直に言いますが《六星巡り》の有効性も、それをヒトに移した時の効果の実証もありません。しかしイモーハに帰依するジニにとって、ユニローグとは渇望した至宝なのです。


《六星巡り》により変化を遂げるであろう神像。その神像に含まれ混ぜられた、いわば「交雑血聖」を投与することで、「鍵」を発動させられるかもしれない《オールド・ハート》のあなたや弟さん。


 狡猾で慎重なジニとはいえ寿命のある身です。

 その二つの手段に人生を賭けて《封路》を目指すと考えてもおかしくはないのです。

 そしておそらく、ジニはユニローグを見つけたのでしょう。」


 それが本当だとすれば、そして《封路》が《膜》同様、常人にとって害毒を為す一帯であるとすれば失敗した時はただでは済まされない。

 ジニにとっても、キペやハユにとっても。


「そんな・・・何か方法が・・・

 それに風読みさまほどの方なら、ほら、えっと、ダジュボイさんが知恵を貸してくれたりするんじゃ・・・そんなに急がなくったって・・・」


 今やもう「ジニの計画実行」の行方には「ハユの危険」も束ねられている。

 ハユを救出するなりジニを止めるなりしなければ、キペは本当に独りになってしまう。


「それはできないんだよキペ。ジニは神官に、ダジュボイさんとモクさんは教会側に、ウルアはロウツ教皇側にと分かれてしまったからね。もう、仲間ではないんだ。

 そしてそれぞれの優位性を、またその正義を示すため他の誰にも譲れないんだよ。

 ユニローグを突き止めたモクさんが、スナロアさんとだけその秘密を分け合っていたのだって信頼関係があったからなんだ。」


 だからロウツ教皇は『カラカラの経典解識班』を解体させたのだろう。

 兵団も満足に動かすことができないほど失墜した権威も、「ユニローグの発見、あるいは獲得」が旗に飾られれば回復以上に絶対的な力を得ることになる。

 教皇や統府がメタローグのハイミンにまるで興味を示さない理由はそこにあったのだ。


「それだけじゃないわ。・・・赤目・・・。」


 許しを請うように、でも、もうそれ以上は話すことができないとでも言うように、ウィヨカは目を伏せて口を噤む。


「風読みジニが急ぐ理由はもう一つあるんだ。

 ・・・ふう。メタローグという存在をきみはまだよく知らないね、キペ。」


 なんてことだ、まだ続くのかよこの話、と正直へこたれはじめるものの、ハユが関わってきてた今となってはもはや他人事では済まされない。


「メタローグ/神代種とは古来種よりもずっと原種に近い姿をしていながら、膨大な知識と長い寿命を植えつけられた被造子・・・造られた生命体なんだ。」


 仮構帯で耳にした言葉だったがよく思い出せない。

 ただ、それよりもウィヨカが悲しんでいるその理由に頭は冴え冴えと働く。


「ウィヨカさん、きみ、言ってたよね。大白狼サイウンは殺されたって。

 ・・・ねぇ、それってエレゼさんと関わりが・・・違う、それだけじゃない。モクさんと、パシェもだ・・・・」


 バラバラだったヒトとヒトが何か大きな力によって寄せ集められて繋がれてゆく。

 その言い知れない圧倒的な波に、キペはただ怯えながら呑まれるのを待つだけだった。


「ふふ、さすが見込んだだけのことはあるなぁ。


 エレゼとウィヨカはね、時期こそ違うけどメタローグであるサイウンと接触することができたんだ。二人ともサイウンを敬愛していたけど、ウィヨカはここに残る決意をしたからエレゼだけがサイウンに師事し、そして語り部として認められた経緯がある。


 それまでの対話からメタローグには《膜》である《ロクリエの祈り》に対する抗力、あるいは血聖があることはわかっていたんだ。

 たぶんそれは「いれぐら」のような偶発的な産物ではなくて、選りすぐられて確立した、いわば完璧な血聖である、とね。


 ユニローグに次ぐ偉大な存在メタローグ。

 つまりメタローグの「完全血聖」ならユニローグを阻む《ロクリエの封路》を無効化できる、そう、モクさんは考えてエレゼに話をもちかけた。

 ・・・大白狼サイウンの血を分けてほしい、と。」


 メタローグの完全血聖の入手。

《六星巡り》の神像による《オールド・ハート》を持つヒトへの投与で生まれるかもしれない新たな「交雑血聖」。


 そんな二つの対策を携えたのなら《封路》の攻略も現実味が増すこととなる。


「でもだって・・・どうやって? 神代種ってことはサイウンさんは狼なんでしょう?

 それに偉大な存在ならそう簡単に――――」


 簡単ではないことを成し遂げてまでも、未知の《封路》は脅威であり、その先にある伝説のユニローグは宿望だった。


「そうね。でも心を許した者には油断が生じてしまうの。

 ・・・あの男はサイウンを裏切ったの。頼めばいいものを・・・殺して、その血を奪ったのよ。」


 その目に涙はなかった。

 干からびた憎悪が、ヒトだけに与えられた美しい光の一粒さえも奪い去ってしまったのだろう。


 ハイミンのように訪ね対面することが叶わない巨大な白狼はしかし、尊崇されたメタローグであるのに、そうであったのに、ユニローグへ猛進する欲望の前では狂奔の足跡に踏みにじられる存在でしかなかった。


「でも待って。サイウンさんの完全血聖の話にしても誰もまだ検証してないじゃないですか。どんなにサイウンさんがすごい存在だったとしても、狼の血でしょ? ヒトに取り込ませて平気なはずないじゃないですか。


 それにサイウンさんの血をあなたたちが手に入れたって知ったところで、ユニローグに辿り着ける一つの可能性に過ぎないでしょ? 先を越されないように目くじらを立てて風読みさまが急ぐ必要はあるんですか?」


 ただの動物ではない大白狼サイウンの血である以上、もしかしたらヒトの中にうまく溶け込めるかもしれない。

 しかしたとえサイウンの血による宿主のアレルギー反応が回避できたとしても、その効能までもがそっくりそのまま手にできるとは限らないはず。


「キペ、僕らの村には研究のために各神殿の《膜》の一部が保管されているんだ。

 きみはすっかり忘れているようだけどね、ここは「知の神徒・モク」が率いる『ヲメデ党』の本拠地だよ?・・・知っているだけではなく、もう既に、実験は済んでいる。

 ・・・ここからが、きみを疑似仮構帯へ引き込んだ本当の理由になるんだ。」


 耳を塞いでも、体に響いて聞こえてしまう領域。


「・・・赤目、さん?」


 聞かせなければならない時に、こんな便利なものはない。


「ふう・・・まずは事実を見てもらう方が早いだろうね。」


 そうひとつため息をこぼすと、赤目は顔以外の全てを隠していた服をゆっくりと脱ぎ、そのおどろおどろしい姿をキペの前に曝す。


「・・・あ、なたが・・・?」


 そこには体じゅうを夥しい数の赤黒い斑に覆い尽くされた姿があった。


 それは見る者を不快にさせる腐った死体を思わせながらなお、禍々しく蝕むように生きる体を求めていた。


「・・・あ、あなたが実験台だったんですか。・・・じゃ、交雑血聖っていうのも・・・」


 何かが、

 明らかに、確かに、何かが狂っている。

 そんな言葉が芽生えても目の前に横たわる現実はちっとも相手をしてくれない。


「フロラ系とファウナ系の第八人種を強引に取り込んだ交雑血聖は消えてしまったよ。

 ふふ、僕にも《オールド・ハート》はあるけど、非自然的な実験だったからか、それとも〈契約〉という第八人種の意思決定がなかったからか、月のひと巡りもしないうちに僕の体の中からいなくなってしまった。

 だから、その後新しい「試験紙」として僕がサイウンの血を受けたんだよ。

 そうしなければ実験にならないからね。」


 自分ももう、狂っているのかもしれない。

 驚きがどんどん、希薄なものになっていく。


「キペさん・・・はぁ。・・・赤目の命は長くないと言われていたの。

 ・・・赤目も、下奴婢楼で薬漬けにされていたから。」


 悲しみなのか、怒りなのか、込み上げてくるものがあるのに名前がわからない。

 アヒオに焚きつけられた昨夜のような感情のもじゃもじゃがだからこそ急速に全方向から圧縮されていく。

 ただ、とめどなく。


「残り少ない命だからさ、有効に使いたいからねえ。・・・ふふ、いいんだよ、僕はこれで。

 それにこの斑――奇病に表れる「王斑」になぞらえて「帝王斑」と呼んでいるんだけど、この帝王斑に埋め尽くされないうちは僕も生きていられるだろうとは思ってるんだ。

 詳しいことは分からないけど、代謝の活動が鈍ったり、病気になって弱ったりするとどんどん増えていってしまうから。もう僕の腕や足にも帝王斑ができはじめているんだけどね。」


 命のバロメータにさえ見える斑を、赤目は表情の読めない笑顔で眺めている。


「まだ生きられる《封路》の鍵となるかもしれない赤目も、陽の光の下では移動することができないわ。


 ・・・だから、モクさんは、作ったの。


 遥か昔、大白狼・サイウンと血を分かつカミオ族に由来を持つ黒ヌイの嬰児を使って、完全血聖を持つ、一人のヒトを。」


 タウロの作った組み木玩具のように、ぴたりぴたりと木片が合わさる。


 ――ボクは大白狼サイウンの意思を継ぎ、そしてその〝音〟を探す者――


 エレゼは赤目以外にサイウンの血が分けられたことを知って、そして探していた。


 ――そして今、最も用事があるのはニポちゃん、キミの家族のようなパシェちゃんとモクくんなんだよ――

 

 そして突き止めた。

 確認と説明のため、モクには会う必要があったのだろう。


「く・・・狂ってる。間違ってるよ・・・い、い、命を、命をなんだと思ってるんだっ!」


 押し殺されていたものがキペの中で蠢き出す。

 その心を自由にしたらすぐにでも弾け飛んでしまいそうな程。


「ねえ。堕胎された命、きみは救えるかいキペ?

 それともおかしな作用や斑が伴うとわかっていたなら生かさない方が幸せだったと思うかい? 


 はじめから、生まれた時から奇形だった僕たちは生まれてこない方が幸せだったと、そう思うかい?


 ・・・僕の命は下奴婢楼で打たれた劇薬の副作用でボロボロだった。

 でもね、メタローグ・サイウンの完全血聖はそれをすら無効化したんだ。奇跡の存在であるメタローグの血だからこそ、僕は今もこうして生きながらえていられて、そして死を待つだけだったパシェは元気にすくすく育った。


 確かに、それは実験だったよ。

 それでもね、ユニローグの《封路》突破のためにパシェを完全血聖の混血種として生み出したわけじゃない。断じて違う。

 モクさんは僕の体の浄化を見届けてから、救えるかもしれない命に完全血聖の力を賭けたんだ。


 今の医法の力では誰も救うことのできない命を、やり方はどうあれ救ったんだよ。

 異形と忌み嫌われてきた僕らを大切に思うモクさんは、そんなヒトじゃない。」


 耳を塞いでも、もう遅かった。

 このことだったのだ。聞き届けさせなければならない事実とは。

 そして受け取ってもらわなければならない真実とは。


「もう・・・たくさんだっ! そんな狂気じみた話なんかもう――――」


 か、ちゃ。


「・・・い、いやだ・・・いやだ・・・・・・・あ、い、いやぁぁっ!」


 そこへドアの隙間に顔を覗かせたのは、手布を巻いたままのニポ。


「いやだ・・・あ、ち、チペっ、・・見て、チペっ!・・あ、たいにはないっ?・・・チペ、・・チペええっ!・・い、いやだ・・・いやだっ――――」

「大丈夫だよニポ、・・・ニポ、大丈夫だからっ!・・・ニポ、大丈夫だからね。」


 ニポはそのまま手布を振り払うと怯えて歪んだ目でキペの元へ駆け寄る。

 背中や自分では見えないところを必死になってキペに見せようとする。

 こっちは?ここは?と切り刻まれた呼吸の中で溺れそうになるニポを、キペは奥歯を鳴らして抱きとめる。抱きしめる。


「大丈夫だよニポ。大丈夫・・・・・

 ・・・・赤目さん。部屋に、戻らせてもらいます。」


 腕の中で悶えながら泣きじゃくる裸のニポを、そのまま抱き上げてドアの前に立つウィヨカに告げる。


「ここまできて「ハイそうですか」とはいきません。あたしたちは――――」

「どいて。」


 首に絡ませた柔らかなニポの腕がきつくきつく締めつけてくる。

 苦しかったが、痛かったが、キペの腹で沸き上がる獣の咆哮が全てをなぎ倒した。


「・・・どいてあげてウィヨカ。・・・今は、いい。」


 その声の主に見向きもしないキペに、ウィヨカはやむなく道を譲る。


「ニポは・・・もう誰にも傷つけさせない。」


 嗚咽に変わってもなお怯えながら胸に顔を埋めるニポをひとつ見下ろし、血走る目を上げてキペは出ていった。


「・・・赤目・・・まだ彼に何も託してないわ。」


 目的はまだ伝えきれていなかった。必要な情報を提供したに過ぎない。


「いや。・・・彼なら動くさ。

 大河はもう自分では止まれない。彼はもう、遥かな海へ向かうしかない。

 今はまだナコハさんのように協力的でなくても彼は道を作り出すさ。僕らはただ、それを見守り受け入れるしかないよ。」


 香蝋の煙が外へ逃げたからか、部屋はさきほどまでのまばゆさを失っていた。

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