㉕ 風呂と秘密




 

 よく晴れた朝の陽射しさえ掠め取る霧の中、やや寝不足気味のふぞろいな一団が屋敷から出て体を伸ばしている。


「ぬーん、とぉ。お痛ててて、はー、あたいもトシかねぇ。」


 背中を合わせて背負い込んでやるとぐーんと背筋が伸びて気持ちがいい。それが気に入ったニポは先ほどから何度もキペに催促していたのだが、やりすぎたようだ。


「なに言ってんだおまえさん、まだ若ぇーのに。ほら菌、おまえさんもやれよ。それリドの体なんだからな。」


 我々は関係ない、とばかりに腕を組んで木に寄り掛かるリドミコに声を投げる。

 今日は移動の無い日ということで各々軽い運動はしておこうと心がけていたところだ。


「そうだよニポ、僕よりずっと年下のクセに。・・・あれ? いいんだよね?」


 歳についてそういえば話題にも出したことがなかったな、とキペ。


「あん? ずっと下ってこたーないんじゃないのかい。今あたい大体二十だけど。・・・チペ、あれ、あんた同じくらいじゃなかったっけ?」


 改めて訊いたことがなかったのでなんとなくそう思っていたニポ。

 だから三下にしたのだが。


「え? 僕、二十六になるよ? アヒオさんはちょっと上くらいだろうけど。」


 え?となるキペに、へ?と返すニポ。


「うぇ? キペ、おまえさんナニ言ってんだ? おれもうすぐ四十になるぞ。」


 はいぃっ?とキペもニポも顔を揃えてアヒオを見つめ直す。

 二人とも完全に見当を外していたらしい。座って前屈をしていたリドミコまでアヒオを見上げている始末だ。


「え・・・あんた、おっさんじゃん。オヤジじゃん。・・・だからカサカサ肌なのか。」


 違ぁーよ、と木切れを拾って投げる。何すんだこの野郎、と草を引っこ抜いて投げ返す。


「けっこう聞いてみるもんだね。あ、でもだからアヒオさんって物知りなんですね。ニポはモクさんにいろいろ教わってるからかもしれないけど。

 はぁー、しかしびっくりだな。ニポ、けっこう歳いってたんだね。僕、十代の半ばくらいかと思ぶしぇっ・・・」


 かわいい草ではなく土の塊が飛んでくる。

 アヒオもリドミコも何も言わずに仕方ない、といった顔で観ているばかりだ。


「んでも別におれだって物知りってほどじゃないさ。あー、だったらダイーダの方がその言葉にそぐうんじゃないか。あいつおれより年下らしいし。さらに言うと、あいつ女だぜ。」


 んなにぃっ!と土まみれのキペとそうした本人がほっぺをくっつけてまたアヒオを見つめる。


「・・・見かけってなーアテになんないね、あの行商人はじーさんだと思ってたよ。」


 あ、僕もそう思ってた、と言うキペに、あ、あんたなんか土がついてるよ、ほら、と払ってやるニポ。それに対して、あ、ありがと、とやるキペ。

 なにかこう、違うんじゃないか、とやるせないアヒオはそのやりとりを眺めている。


「みなさーん、食事の用意ができましたよー。」


 そんな赤目の屋敷の庭でえっちらおっちら体を起こしていた四人の元へ、健やかな笑みを湛えたウィヨカがやってくる。


「お、こらありがたい。ところでウィヨカ、体洗えるトコってあるか? おれはまぁこういうのは慣れてるんだがよ、リドの体も洗ってやりたいしな。」


 よく考えると四人ともずいぶん体を洗わないままだ。暑い季節ではないぶん汗に臭くなることはなかったものの、ところどころ痒みはあった。


「ええ、外になりますけど、沸かせば。あとでみなさん手伝ってくださいます?」


 もちろん、と声を張るキペたちにすっかり気を許すウィヨカはまたひとつ微笑み、四人を連れて部屋の中へ戻っていく。



「あれ? 赤目さんは?」


 そうして就いたテーブルの一番奥の席には食事も用意されていなかった。


「あ、ごめんなさい。あのあと二人で呑んで。ふふ、赤目は二日酔いです。」


 ダラダラだなぁこの物語、と薄々は感じていた実直な感想が口に出るキペ。


「へぇー。赤目が二日酔いなんて初めて聞いたよ。けけ、うれしかったんじゃないかい? あんたらに会えてさ。」


 わりに素直なことを言う。キペよりもアヒオの方が妙に照れてしまうくらいだ。


「ふふ、あたしもそう思います。みなさんならいつでも来ていただきたいもの。

 ニポちゃんもあんまり頑張りすぎないで帰っておいで。党にイヤな顔するヒトもいるけどさ、やっぱりここの村のヒトが無事に帰ってくればうれしいものよ。」


 そっか、そう思われているのなら昨日のこともイジワルではなく大切なひとつの現実として受け止めよう、そうキペは思い、目の前に山と盛られた何かのサナギの油炒めをこそっとアヒオの皿に取り分ける。

 ひとつふたつがかわいらしく載っていれば闘えそうだったが多勢に無勢というヤツだろうか、早くもキペは敗北していた。


 こんこん。


「オうニポ。あトで来てクレ。オまエの持ってキたバファ鉄ハ精製シないト部品がうマく作れナい。幾ラか量ガ減るかラな、図面の手直シと調整はオまエの案ノほうが効率的だロ。んジャな。」


 とそこへ、えんぎにーるとして組み立てや修復、加工などを手懸けるコリノがひとつ残して去っていく。

 戸を開けてすぐの広間はお茶の間のような感覚でやりとりができるのだ。


「サムラキさんのバファ鉄を使ってるの? でもよかったね、もらえて。」


 ふふ、と微笑みながら、えい、と何食わぬ顔でアヒオに大部分を移して素早く皿を手許に戻すキペ。少しなら食べられそうなので残ったそれは片付けてみようと思う。


「んん。たしかにね。へへへ、ほいでもちょんと機能をいじりたくてさ、接続回路を増やしてんだ。大掛かりなモンじゃないから今日中に仕上がるよ。明日の出発に変更はないから気にしなさんな。」


 キペたちにはよく分からなかったものの、〔ろぼ〕の話をしている時のニポは楽しそうだった。

 でも木箸は飛んできた。キペの不正は見逃さないらしい。


「そうか、ならいいんだが。しかしニポよぉ、おまえさんかなり勉強家なんだな。ヤアカほどじゃなくても神代文字まで読めるんだろ、んでさらにあんなワケのわからん鉄人形の仕組みまで把握できるなんてよ。

 この村の者はあれか? あーいうののカラクリが理解できんのか?」


 まあいーじゃねーかニポ、とキペに盛られたサナギの油炒めを半分手伝ってやるアヒオ。キペには眩しすぎてその横顔が上手に見られなかったそうな。


「そういうわけではありません。〔ろぼ〕製造もモクさんとの関わりもうんざりだ、と思っているヒトも中にはいます。反意を持たない村の者はただ、人手が足りない時などに手伝ってもらうことが多かったから〔ろぼ〕に対する免疫があるだけですよ。あたしも構造や機能経路なんて全然わかりませんから。さ、そろそろ湯を沸かしに行きましょうか。」


 本当はもう本気で吐きそうになっていたキペはこなくそ、と皿を空け、食器を片付けて外へ出るウィヨカについていく。


「水はすぐそこの泉から引いています。元々あたたかいので白陽の季節にはこれで充分なのですけど、さすがに今は肌寒いですからね、こちらで火を焚いて温めましょう。」


 そうして屋敷の裏手へ進んでいくと、保温や断熱の用途に使われる泡石を削って作った長丸の浴槽に石積みの炉が横付けされて置いてあった。

 炉の上に引いた水を入れて温め、それを浴槽に流す仕組みのようだ。


「リドと二人で丁度いい大きさだな、こりゃ。おまえさんら二人だとちと窮屈きゃん。」


 ニポの張り手は容赦ない。照れなのか本気なのかは判別できないもののとりあえず触れずにいようとキペは心に誓うのだった。


「あたいは後でいいよ。先にコリノんとこ行ってくるわ。仕事終わってからにしたいしね。」


 そう言ってニポは工房の方へてけてけと歩いていく。


「さ、ではみなさん、薪を運んでください。あたしは向こうで水を引いてきますから。」


 はーい、と素直に従う三人。

 分担すれば大した労働でないこともあり、アヒオはリドミコにも三つ四つ薪を持たせて手伝わせた。大好きで大切だからと箱の中に閉じ込めていては、もしもの時にリドミコが一人で生きていけなくなるからだ。

 些細なことでも体で覚えなければ身にもならず、苦労をしなければヒトの心を慮れないワガママ娘になってしまう。

 リドミコに関してはキペよりも心配性なアヒオの、それが教育方針なのだろう。

 旅路をゆく時もアヒオのペースで歩かせたのもそれが理由だった。


「おーなんかすごいなー。こんな新鮮な湯に浸かれると思うと心が躍っちまうよ。ウィヨカ、おまえさんどうする? 先に入るか?」


 もうマントや手巻きを脱ぎ始めているアヒオ、知らぬ間にウィヨカにプレッシャーをかけるの巻。


「あ・・・ふふ。いえ結構ですよ。あ、あと湯がぬるくなったり汚れたりしたら浴槽の奥の堰を開けてください。直火に弱い泡石なので焚き返しができませんけど、ゆとりがあれば次のヒトのために炉に水を引いて沸かしておいてくださいね。

 あ、それとこの辺りで覗きをする者はありませんが、衝立を用意しますか?」


 衝立ナシでウィヨカはここで裸になっているのだろうかと思ったキペは赤くなり、それに勘付いたアヒオは含み笑いでキペのスネを蹴る。


「いや、おれたちはいい。だがなウィヨカ。気をつけておけ、まだまだ若くて―――」

「アヒオさんっ。」 


 けけけ、とテキパキ胸当てやさらしを外してまだ湯の満たない浴槽を前に準備を整えるアヒオ。実は彼が一番浸かりたかったのかもしれない。


「あ・・・じゃ、あたし屋敷に戻ってますね。」


 そう言って背を向けた時には既にアヒオは丸出しだった。

 おう、じゃ、あとでな、と手を振るとその振動で大きく揺れるたわわな・・・


「・・・アヒオ、さん?」


 たわわな方ではなく、長い髪を後ろに払いのけた首の付け根に目が留まる。

 そこには、今キペが身につけている装衛具へ施された紋章と同じものが黒く切り染められていた。


「・・・おい雑菌。おまえさ―――」

「巫女に聞かせるなと言っても加減はできない。それにそもそも我々はこの巫女の記憶の中でを把握している。」


 素っ裸のアヒオと素っ裸のリドミコは視線を合わせることなくそう声を交わす。

 ちなみにまだ火を焚いていないので二人はしばらく寒空の下、真っ裸ということになる。


「・・・ちょっと前に、確かウィキの町だったと思いますが、そこで『ファウナ』を抜けた男を捜しているヒトがいました。

 あなたと僕らがちょうど着いた町で、ちょうど捜しに来たらしいんですが・・・その、僕は別に―――」

「いい。エレゼみたいに信用されないのは癪だからな、おれで話す。」


 さすがにちょっと寒かった上に誰も火を点けてくれていないことに気付いたアヒオはキペの甲鉄に仕込んである火待ち金を打って火をおこした。

 丸裸でカチカチやる姿はとんでもなくダサかったが、それは着ているキペでも知らない装衛具の正しい利用法を理解していなければできない作業だった。


「あなたは・・・誰なんですか、アヒオさん。」


 ようやく火が点くと、乾いた草を辿って薪へと赤橙の光は歩き、そして大きく息を吸う。


「畜舎で育ったところまでは話したな。今度はその続きになる。

 ふう。おれを受け入れてたその村の家族がな、おれを売ることにしたんだ。あんときゃ恐怖と憎しみしかなかったがよ、いま考えりゃ世話してくれてたのは事実だし、金がない家で売れるモンなんて限られてきちまう。

 統府だって実態は把握してるはずだ。未だに奴隷商売が続いてることくらいな。


 で、身寄りも名前もないムシマ族の男が下人として売られることになった。・・・本能だったのかヤマ勘だったのかはわからんが「この期を逃したらおれは一生このままだ」ってそう思った。だからよ、必死で逃げた。

 逃げて逃げて、ヨソさまの倉や畑で服や食いモンをかっぱらった。見つかっては石を投げられケガもした。


 逃げるだけで精一杯だったよ。んでもな、十五、六になってたおれはそれまで耐えてきた重労働のおかげでそこいらの同年代よかずっと体が丈夫になってたんだ。栄養がないからムキムキじゃなかったがな。


 でもいつしか、おれの足より早くおれの噂が村から村へと伝わって、捕まった。

 そんでそこで会ったんだよ、運命のヒトにな。」


 温まり始めた湯を浴槽へと流し入れ、そこにリドミコを置いてやる。さらしに隠されていた背中にはそれから幾年も経っていないかのように生々しい傷跡が残っていた。


「後に暗足部の部頭になったシビノさん、ってヒトだ。

 大きかないその村に潜入して情報網を広げてたらしい。そんな中で村の男たちに蹴飛ばされて埃まみれになってたおれを見つけてな、助けてくれたんだよ。ふふ、ま、それも村のモンに事情を訊くだの、いいヒトっぽく見せるだのって取り入る狙いがあってのことなんだが。


 そのエセ芝居に救われて、ついでに名前を尋ねられたんだ。「おまえ、名前なんてんだ?」って。

 オイ、とか、コラ、とかそんな風にしか呼ばれたことなかったからな、「無い」って素直に答えたんだ。


 そしたらそのヒトよぉ、・・・はは、死ぬまで聞けず終いだったがよ、・・・「そうか」って言って、抱きしめてくれたんだ。


 その手がよぉ、他のヒトにわかんねぇようにわかんねぇように、小さく、でもずっと震えてたんだ。そうか、そうか、ってしか言っちゃいなかったがよ、・・・埃に汗に血に垢に汚れたおれをよぉ、あのヒトぁ、抱きしめてくれたんだ。


 そっから、シビノ部頭・・・シビノさんがいる暗足部に入るために教養と体力、礼儀と技術をつけてったのさ。

 当時の『ファウナ』は志願するヤツをとにかく掻き集めてた時期だったからそういう養成所みたいなトコに転がり込んでな。


 で、おれも憧れの暗足部に入れた。シビノさんの下で、シビノさんと一緒に、シビノさんの力になれたってだけでよかったんだ。そんな時期もあったよ。


 ・・・その後いろいろあって、シビノ部頭は殺され、おれは追われる身になった。


 リドは部頭が守ったロメンの村の生き残りだ。

 おれを守って育ててくれた部頭が、自分の身の事も考えねぇで守りたかった命なんだよ。

 ・・・ふふ、おまえさんは疑うだろうがな、おれはそんとき本気でリドを殺そうと思ったんだ。おれも狙われてたからそれどころじゃなかったけどよ。


 だがよ、そんなクソみたいなおれを、またボロボロになったおれを、殺そうとすらしたおれを、赦して、んで救ってくれたのがリドなんだ。


 ・・・はは、なんだか部頭とリドの自慢になっちまったな。だがま、そんなトコだ。

 普通に生きてる連中より組織構造だのの周辺知識があるのは情報を司って隠密に収集する、けけ、今のおまえさんとおんなじ恰好の暗足部にいたからだよ。」


 泡石が温まったのを確認して冷めた湯を捨て、新たな湯を流し入れる。

 やさしさは伝わったが、まだマントは羽織っておいた方が絶対いいのにな、とキペは思う。話の内容に心は動いているもののなにせ話者が丸裸だからしょうがないのだ。


「・・・アヒオさん。まだ、まだリドミコと幸せに暮らすっていう目的は達成されてませんけど、その、お疲れさまでした。


 はは、僕に言われてもうれしくないでしょうけど、僕にはその苦労をわかることはできないから、でも、そのことがリドミコをいつもニコニコさせているのはわかるから。


 ・・・でも、最後にひとつだけ。

 なんでアヒオさんはそんなにリドミコにそのことを隠すんです? 生き残り、ってことはリドミコを守ったってことでしょう?」


 リドミコの中の見えざる者に念を押してまで話す理由がわからなかった。


「・・・ひとつは、リドが言葉とか記憶とかを失って、目を開けることを止めたのは村の虐殺が原因だと思うからだ。

 だからその事実には触れさせたくない。できる限りロメンの村の生き残りであることを周りの者にも気付かれたくないんだ。それが知れればあの悲劇がリドの中で蘇っちまうだろうからな。


 もうひとつは、ロメンの悲劇におれたち暗足部が大きく関わっていたからだ。

 おれの体験した事実から言えば新体制――シクロロンを据えた今の体制だな、それが指示した暗足部の暴挙だったし、『スケイデュ』も絡んでたからおれ個人に責任はないとも言える。

 ・・・言えるけどよ、そんな、そんなフザけた言い逃れはしたくないんだ。


 部頭・・・シビノさんのいた暗足部からも裏切り者は出たが、そいつが部頭を殺したんだが、・・・おれは、ほんとに暗足部が好きだったからよ、誇りだったからよ、イヤなんだよ。


 どんな汚ねぇことしても、おれから部頭を離しちまってもよ、イヤなんだよ。暗足部をまだ、感じていたいんだよ。


 ・・・女々しいな、ふふ。でもよ、郷土愛ってのがおれにあるならそれが暗足部なんだ。

 生まれ故郷もないし、畜舎の村はさすがに違うからな。


 だから、おれの「故郷」がしでかしたことだから、他人事としてリドにはまだ話せないんだ。いや、いつかは、とは思ってるんだが。」


 自身の思い出したくない過去や、敬愛してやまないのであろうシビノの死を語ってなお、アヒオはすこし、得意げだった。

 閉鎖的で陰気なキペの故郷も、やはり思い返せば穏やかな景色とのんびりした時間、わずかだったがクスリと笑い合える知り合いもいた褪せえぬ記憶が蘇ればまんざらでもない。


 ただキペよりもアヒオの方が、その故郷なるものを選び取り、勝ち取ったという意味では思い入れもひとしおなのかもしれない。


「アヒオさん。アヒオさんは、いろんなものを愛するヒトなんですね。なんか愛、愛いってると思春期みたいだけど、そういう恋の延長みたいなのじゃなくって、あったかい場所のようなものをヒトや組織に見つけられるヒトなんですね。

 ふふ、代弁することはできないですけど、リドミコはきっとそういうトコを見透かしたんじゃないかな。いつか本人に確認してくださいね。」


 あったかい場所、は、しかしここにもある。


「けけ、そらどーも。・・・なあキペ、また呑もう。今度はニポもリドもおまえさんトコのハユやらパシェやらも混ぜて。シクロロンや赤目、ヤアカやダイーダなんかも呼んでよ。あ、エレゼも入れてやるか。はは、なんか、考えただけでもニヤけちまうな。」


 挙げる名前にどんな垣根も溝もなかった。

 遠い日への約束になるのかもしれない。しかしキペもそれには元気に頷いた。


「ええ。きっと。」


 牧歌的と笑われるような望みが、平和という希望の奥にちょこんと置かれる。

 有史以来誰も叶えることのできなかった大望の先にあるくせ、そのこぢんまりした望みはすぐにでも叶えられそうな気がした。


「さ、あとは訊くことないか? ははは、無いならとっとと立ち去ってくれ。一応おまえさんに合わせて立ち話してたんだがそろそろ本気で寒くなってきた。」


 我慢強い男だった。ただ、それを褒める気にはなれなかった。


「言ってくださいよ、もう。それじゃ、ゆっくり浸かって休んでください。」


 じゃあね、と振った手の先に見えたアヒオの胸当てには、擦り切れた[五つ目]が弱々しい陽射しに誇らしく輝いている。

『ファウナ』の紋章は胸当てにしか施されていないのだがその方がよかったのかもしれない。全身に刻印されていたら、アヒオはどのパーツも手離せなかったから。

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