㉔ ベゼルとロウツ





 かつん、かつん、かつん。


 割り石を粗く積んだだけの階段に上等な靴が立てる高い音がこだまし、そして近づく。


「こ、これは・・・このような所へなぜ・・・」


 ただ捕らえられただけの者には付かない番兵が薄暗がりに浮かぶ高貴な男に声を掛ける。扈従も連れずにこのような場所へ来るなど予期していなかったこともあり、訝るように顔は引き攣ってしまう。


「中の者と少し話がしたくてな。危険はないのであろう? 通らせてもらうぞ。」


 外側にだけある取っ手をぐい、と回し、白く老いた長い髪をなびかせる隻眼のニナイダ老は扉を押し開けた。


「し、しかし・・・何もわざわざご本人で向かわれることは・・・」


 残された左の眼が番兵に届くと、あとの言葉は飲み込まれてしまう。


「悪いな。すぐ戻る。」


 そう言って扉を閉め、その奥へと無骨な階段を降りていった。

 


 そこでしゅか、しゅか、しゅか、と道を下る音に両手を縛り上げられた男の耳が気付く。

 久々の食事にしては食器の立てる音も、水が揺れ、あるいはこぼれる音も

 どうやら番兵以外の来客らしい。だがそれがいつ以来だったかも覚束なかった。


「調子はどうだ、ベゼル。」


 自分の前に立ち止まり呼び掛けるその声に、旧い記憶が名前を見つける。


「・・・ロウツか。・・・立派になってからは初めてになるな。

 ハハ、もすこし言葉は選んだ方がいいかい、教皇さん。」


 水をかぶせれば汚物がそのまま流せる溝に座る男は、申し訳程度に掛けられた布切れ一枚がずり落ちないようロウツに応えた。


「そなたにしてもテンプにしても、多くの者は過去を引き合いにわたしに取り入ろうともせぬ。こちらとて所望することゆえ悪い気はせぬが、それもそなたの信念とやらか?」


 気温のあまり変わらない地下とはいえ、季節の寒さがここを訪れないわけではない。布一枚では到底耐えられるものではないはずだ。


「さあな。それにしてもご挨拶だなロウツ。せめて差し入れのひとつくらい持ち込んでくれりゃいいものを。問答抜きでここへ来られたオマエならそれくらい楽なモンだろさ。」


 ロウツよりひと回りも違うベゼルだったが弱音も命乞いもその程度だった。


「そなたが知りうる全てをつまびらかにすればいいだけの話ではないか。

 ふぅ。恩人に報いたい気持ちは分らないでもない。だがそなたを保護し忘れな村まで連れたジラウはもう逝った。


 そなたを受け入れ安寧を約束した赤目は彼の地で安穏と暮らしている。そなたが楽になる道を選んだとてそれを咎める者などどこにもあるまい。」


 拷問の道具なのだろう、手足を縛りつけて寝かせる台にロウツは腰掛けてベゼルの返答を待つ。すぐ戻る、とは言ったものの、そう運ぶとはハナから思っていなかったようだ。


「違うなロウツ。俺を助けてくれた先生や赤目には感謝してる。だがな、それよりも大事なものにそこで出会ったんだ。そういうのが、俺を裏切らせてくれないんだよ。

 それに何べんも言ってるがユニローグのことも〔ヒヱヰキ〕のことも知らねぇんだって。俺をとっ捕まえてこんなことしたって何にも出てこねぇんだよ。オマエからもちゃんとそう伝えてくれ。」


 たとえ知りうる全てを吐いたとしても無事に解放されるかは疑問だ。

 だが話し相手が権力の中枢である教皇そのヒトであれば、なんらかの奇策もことによっては功を奏する可能性がある。多忙な教皇が現れるのはこれで最後になるだろう。この期を逸してはもう、助かる見込みは皆無と云える。


「そうはいかぬだろう、ベゼル。解古学の中でもユニローグ研究で最も真実に近づいたジラウ博師との関係はもう調べが付いている。あの『解識班』ともモクやスナロアを通じて深く親交のあったジラウが身を盾にして隠したのが〔ヒヱヰキ〕の一部〔らせるべあむ〕だ。

 モクの〔こあ〕にしてもそうだが、あの黒ヌイ周辺にこそ我々の求めあぐねる道の手掛かりがある。

 ジラウの義父や、二人の息子のうち成人している方も村のない今ではどうしようもない始末。唯一の生き残りが我らの手にあるとはいえ、幼すぎてジラウの研究のことなど知り得まい。


 ・・・そうか。これでも話す気にはなれんか。

 ならばひとつ、土産話をしてやろう。世話になった過去のあるそなたには酷だろうと伏せておきたかったのだがな。」


 すしゃ、と足を下ろし、ロウツはゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。もともと視力が極端に弱いラグモ族のベゼルはただ、その緊張にただならぬ予感を見るだけだ。


「・・・まさか、・・・お、オマエっ!」


 ふふぁん、と布がはだけるのも構わず、ほとんど身動きの取れないまま前のめりになってベゼルは声を荒らげた。


「案ずるな。危害はまだない。・・・ただな、それもそなたの態度次第だろうな。


 テンプを守りたいのであればさっさとジラウ博師の言葉を、資料を思い出せいっ! 心を預けた者を、心奪われた者を守りたいのならば全てを捨てよっ!


 ・・・そなたならこの言葉の真意、心の本意を理解できよう。そなたにも救われたわたしだ、だが名ばかりの教皇にできることなど限られている。


 ベゼル。「力」とは誰がためにある? 

 何のゆえに求める? 

 わたしの歴史は知っていよう? 民衆に耳を傾けず突き進んだがために力を手にしたわたしを。そして耳を傾けたばかりに力を失ったわたしを。


 ベゼルよ、鬼となれ。ほだされれば自由の成就など夢より遥か遠いものなのだぞ。

 ・・・・わかるな、ベゼル。」


 下半身を隠すだけとなった布を拾いあげ、首と上げられた両腕の間に挟み込むようにして覆ってやる。血に汗に唾液に汚物に汚れたそれは、いつかのロウツの姿に似ていた。


「・・・やっぱ、忘れねぇよな。お偉いさんになったって。

 ・・・オマエと赤目は同じ道を歩いたんだよな。俺はずっと、そのまま行くと思ってた。オマエが統府に寝返った時は心底ムカついたが、・・・そうだよな。だからオマエ、嫁も恋人も作らねぇんだもんな。

 なぁロウツ教皇、俺を助けてくれ。その暁には・・・あとアレだ、テンプもお願いだ。その暁には、命に従いユニローグの解析に尽力するから。」


 それは情緒に訴えて説得するロウツに説得されたよう取り繕うという現状で最善の猿芝居だった。


 これ以上理性や理屈に任せて互いに騙されない距離を保つより、少なくとも何もできない囚われの状況から脱出しければ前へ進むことはできないから。

 そしてそれは、同じように囚われたテンプに関する情報の入手もその解放もままならない、ということだから。


「よかろう。だが今テンプは流行の感染病を患っている。病状はそう酷くはないが看過はできぬのでな。そなたには別室にて任を全うしてもらおう。

 なに、案ずることはない。聖都の医法技術をもってすればじきに会える。その時までにはベゼル、そなたも自由でありたくはないか。」


 胡散臭い話だったものの、体が強いとはいえないテンプの場合あながち嘘とも言い切れないぶん不安は残る。


「無論だ。先生の遺言の保管場所については後で明かす。・・・もはや付き従う心を阻むものなんかないさ。」


 たぶんそれは本心だろうと思うロウツは立ち上がり、扉の外まで届く大きな声で番兵を呼んだ。


「裏切ってくれるなベゼル。わたしのためではなく、そなたのためでもなく、テンプのために、な。」


 その表現が気に入ったのか、余裕の出てきたベゼルは笑む。


「ああ。」


 テンプの元へ一歩近づいた、ただそれだけがうれしくて、ロウツを確かめるように顔を上げる。


 だがそこで。


「・・・っく。」


 にゅるり、と筋肉の緩む音に見えない目を凝らす。


「・・・っくっく。」


 その顔は、・・・笑っていた。


「くっくっくっく。」


 歪みながら。


「・・・ロウツ?・・・ロウツっ!」


 駆け寄ってきた番兵に何やらを囁くと、ベゼルの咆哮に耳を貸すことなくロウツはいびつな階段を上って消える。


「ロウツっ! オマエぇっ・・・テンプは、テンプだけはぁっ!」


 もう遅かった。

 全てがもう、遅かったのだ。


「うるさいぞっ!」


 がずん、と血のこびりついた角材が顔をかばった腕を削る。


「ぁぁぁっ・・・くっ、くそったれがあっ! ふおっ・・・」


 がずん、と腹で鳴る。


「うるさいと言ってるだろうっ!・・・さあ吐け。ジラウ博師の遺言の在り処をっ!」


 がずん。


「んふぅ・・虫ケラが・・・ハっ! なんて言ってんだか聞こえねーよっ!」


 信用を得るためにと口にしたのが裏目に出てしまった。


「小癪なハルトがっ! さっさとしゃべって楽になれっ!」


 がずん。


「あう・・ぐふ・・ははは、あっはっはっはっはっ!」


 最後だった。


「あーっはっはっはっはっはっ!」


 最後のチャンスだったのだ。


「貴様っ、何がおかしいっ!」


 がずん。


「が・・・お、オマエらじゃ、ハハ、見つけらんねーよ。」


 今もって見つからないなら自力でそこへ辿り着くことはできないはず。


「何をっ、・・・ふふ、だがなベゼル、貴様が吐かなければテンプという女がどうなるか分からんわけじゃないよな? 

 残念だったなぁー、貴様の弱みが確認できて教皇様もご満悦だったぜぇ。はははは、もう貴様の負けなんだよっ!」


 がずん。


「・・・俺も負けるがな、けっけっけっけ、オマエらも道連れだ。」


 もう、自力でテンプを助けることはできない。

 協力しても、しなくても。

 だったら。


 がじっ!


「な、貴様ナニを、・・・っ! くそ、誰かっ・・くそっ!」


 文字の使えないベゼルからは口頭ででしか情報は引き出せない。

 そのため歯と舌が拷問の対象にならなかったことを逆手に取るしかなかった。

 死ねるかどうかはわからないが、どちらにしてもベゼルの命と歯と舌を管理しなければならない番兵は上階へと走り出ていく。


 そしてだから、地下牢は静かになる。


「ふぇんふ・・・く、・・・ふぇんふ・・・」


 痛みより憎しみより、死んでしまうことが怖かった。


 二度とテンプに会うことのできない世界が、ベゼルには何より恐く、何よりつらかった。

 血や汗や汚物にまみれてなお、零れ落ちることのなかった水が落ちる。


 鼻をつく臭いに汚れた部屋でそれは、楽しそうに音を立てて布に滲んだ。

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