⑰ 行脚順路と営みの影
ぱしゃらん、ぱしゃらん、ぱしゃらん。
「弱ったな。ここはボラクサンの集落だったか? このあたりには宿がなさそうだが・・・ん、あの灯りは、見えるかハユ?。」
まだ小雨ながら宵になってぐっと冷えたそれは体温を奪っていった。銭宿でも厭わないほど急に崩れ出してきたのだ。
「たぶん食堂です。わたしは食堂というものがわかりませんがおいしそうな匂いがすごいです。」
このところは保存食の乾燥したものしか口にしていなかったのもあり、リゴラ族より鼻の利くヌイ族のハユにはそれがばしばしと伝わってきたらしい。
「そうか。では少し休ませてもらうとしよう。ハユ、店の者にこれを渡して呼んでこい。馬もどこか屋根のあるところに寝かせたい。」
はい、と答え、ハユは路銀を手に店の中へ走っていった。
それを見送るミガシにふと昔の自分がよぎる。
ハユと同じ歳の頃、自分は何をしていただろうか。
そんな思いと記憶とを巡らせているうち、ハユに連れられ店の主が慌てて出てきた。
「呼んできました、団長。」
そこにいたのは路銀に気を好くした、というよりハユの胸当ての[九影菱]にへつらっているような店主だった。
「これぁ、遊団の兵隊さんですかぁ。大変だぁ、いま裏の干し草倉を開けてきますけ、少々お待ちを。」
そんなぺこぺこぺこぺこと執拗に腰や首を曲げる姿にミガシは何か卑屈なものを感じてしまう。
部下や関係する者たちがしゃきっと敬礼するのは当然だと思っている。しかしなにも守るべき民がへこへこする必要はないと考えているからだ。
ただ、ミガシの場合は[九影菱]以前にその風貌がどうしようもなくヒトを萎縮させてしまうのだが。
「おいハユ、何をしている。店主の手伝いをしてこい。」
店主が老体を雨に震わせて作戸を開ける姿を、ハユは少し見下すように眺めていた。
ミガシはまだ、ハユという少年を純粋なものとしてしか見ていないようだ。
「いえ、もう済みますで・・・っこい。さ、どうぞどうぞ。へへえー、立派なヒトデ馬で。ささ、どうぞ、狭っ苦しいところですが。」
自分の足がぬかるんだ泥にずぶん、とはまるのも構わず、ヒトデ馬を引くミガシを誘導する。
「店主、ジャマだぞ。こちらは『スケイデュ遊団』の遊団長に当たるお方なのだ。」
へへえー、ともうハユの胸より低く頭を下げる店主に、ハユは力というものの赤い魅力を見つけてしまう。
「ふん、ほら店主。金だ。受け取っておけ。」
そう横柄にハユがじゃらん、と路銀を突き出すも、いえいえとんでもねえ、と店主は大仰に拒む。
セキソウの村が一度目に襲われたその後、両親を立て続けに亡くしたハユは村の子どもから石を投げられるようになっていた。一部の大人たちからは「関わるな」と陰で言われていたのも知っていた。
その一方ですみません、すみませんと謝る兄のように惨めになりたくなくて、負けるものかと強気でいることを心に誓った日からこんな甘美な気持ちをどこかで渇望していたのかもしれない。
蔑むどころかひれ伏す姿に、生唾を飲み込むような興奮を静かに、確かに覚えていた。
「そうあまり気を遣うな店主よ。ああ、それとついでに飯の支度も頼めるか?・・・ああ、では頼む。さ、行け。ここは冷えるからな。作戸は俺が閉めておく。」
ひょろひょろの老店主はまた、へへえ、と言ってハユの手のそれを受け取り、ぶちゅぶちゅと鳴るズブ濡れの靴を引き摺って店へ戻っていった。
「あ、わたしも手伝います。」
店主とのやりとりに何か引っ掛かるものを感じながらも、氷雨に濡れながら手伝うハユを見つめているとなんでもなかったように思える。
どうあれ腹が減っていては何もできまい、ということで作戸を閉めると二人は急ぎ足で店の中へと入っていった。
「ささ、どうぞ。これでお拭きになってくだせぇ。」
お世辞にも客に出すべき手布とは言えなかったが、顔や頭を拭くには充分だった。
「心遣い感謝する。さっそくだが何か温まるものを作ってくれんか。それと、一杯ササをもらおう。」
清潔だったが所々ほつれたその手布を、汚らしいもののように手でつまむハユはそのまま頭も拭かずに突き返す。
「すいませんねぇ、こんなボロ切れしかなくて。見ての通り貧しい集落ですんで。」
そうして心底すまなそうに手布を引き取る店主はササを注いでミガシに差し出した。
「・・・。つかぬことを聞くようだが、このあたりに我々のような「兵隊さん」が来ることはあるのか? 俺の管轄ではないので疎いのだ。」
温まるようにとハユに注いだ白湯は口をつけられることもなく手許を暖めるだけに使われている。
「へえ、たまに来られます。旅のかたや集落のモンに比べて団体さんでたくさん召し上がっていただきますんでね、昔と違って「行脚順路」から外されてからはめっきりなんで助かりまさ。」
見れば客は中にぽつんぽつんといるばかりで活気というものはなかった。
「おい店主、団長の洋杯に汚れが付いてるぞ。取り替えろ。」
あ、これぁ申し訳ねぇ、今すぐ取替えまさ、と店主はミガシの洋杯に手を伸ばす。
「いや、俺はこれでいい。・・・それより・・・「兵隊さん」とやらにはこう接しているのか? いや、気に入らないのではない。ただ少し・・・」
生まれも育ちもよかったミガシはこうした鄙びた店に縁がなかったのだが、といって避けていたわけではない。機会がなかっただけなので「庶民」というものの感覚が新鮮に五感へ訴えてくるようだ。
だからこそ何かが、まだ言葉になれない何かが、確実にその喉元に引っ掛かっていた。
「へえ、もちろんで。大事なお客さんですんで――――」
「うおーいっ! ササ持ってこーいっ! さっさとしろよ、ったく。」
向こうのテーブルで呑んでいた客がカウンターのこちらに大声を張り上げてくる。
その声に反応したのは、店主ではなかった。
「黙ってろ平民がっ! 貴様らを守ってやってる『スケイデュ遊団』を前に無礼だぞっ!」
よいしょ、とよじ登るようにして座った椅子から降り、ハユが負けぬほどの大きな声を張り上げる。
「ははぁ、どうか、あの男にはわたしから言って聞かせますから、どうか・・・」
睨みつけるハユにぺこぺこと頭を下げ、ササを持って店主が先の男のところへぺたぺたと小走りで近づき、そこでもまたぺこぺことやる。
濡れた靴の代わりがないのだろう、床には老店主の足跡がくっきりと残っていた。
「ちっ、クソっ。ササがマズくなっちまったじゃねーかよガキっ! ハっ、たいそうな恰好して偉そうにナニ様だっ!
エぇ? アンタらの誰がっ、何を守ってくれたって? こんなちんけな集落からごっそり税をかっぱらっておいて何をしてくれたってんだバカヤローがっ!」
相当酔っているのだろう、店主が持ってきたササを一口に飲み干し代金をテーブルに叩きつけると、男はつかつかとハユたちの方へ歩き出してくる。
「なんだとっ、無礼なっ! 今現在も暴徒の鎮圧に動いている団員たちはその身の危険を顧みず任務を全うしているんだぞっ! こんな店で飲んだくれている貴様などにその苦労がわかってたまるかっ!」
自分の部下である『スケイデュ』の団員を庇っている。讃えている。それはわかる。
「お客さん、飲みすぎですよ。さ、今夜はおやすみくだせ。外はまだ降ってますんで、ちゃんと気をつけ――――」
「アンタもアンタだぜっ、こんなクソどもにヘラヘラしやがって。そらオレたちに比べりゃ大枚落としてくイイ客だろうがよ、こいつらの好きにさせるこたねーだろがいっ! くだらねぇー。
ハっ、くだらねえなっ!
いいか兵隊野郎っ、オレたちゃな、守ってくれなんざひとっことも言ってねぇーんだぞっ! それを勝手にやってきて守ってやってるからコレやれアレよこせって・・・
お、おまえらがウチの嫁にしたこたぁ、オレぁ死んだって忘れねぇーからなあっ!
おめーら憶えとけよっ、オレたちゃ奴隷じゃねぇーんだぞっ! オマエらの人形でもねぇっ! ヒトなんだぞっ!」
冠名を持って生まれたとて、なじられたことはあった。
殴られたこともあった。
だがその男の声は、もっと、ずっと重かった。
「口を閉じろ無礼者っ! 今この瞬間この集落が襲われていてもおかしくないんだぞっ! なぜ今それが起こってないっ? オレたちがいるからなんだよっ! オレたちの仲間がそういう輩を封じ込めてやってんだよっ! それを感謝もしないで罵るとは恥を知れっ!」
もういい、とハユの肩に手を置くミガシ。
「男よ、何があったか、話してくれまいか。」
自分が立ち上がると確実に相手を恐がらせてしまうのでミガシは敢えて座ったまま男に尋ねる。
「知るかっ! さっさと出てけよっ、クソっ!」
それを睨めつける男は乱暴に戸を閉めて出て行った。
「はぁぁ、すみません、本当に、すみませんでしたぁ。」
まるで自分の子どもが犯した過ちのように店主はただただ頭を下げるばかりだ。
「・・・なあ店主よ。あの男の妻に、何があった?」
すみませんすみませんばかり言っていた店主の声が、そこですっと止む。
向こうの影に座ってやはりササを呑んでいる客も独り言を止めた。
「・・・へへえ、その、あんな男の言うことですから本当かどうかは――――」
「構わん。」
ちら、と店主はハユを見遣って、そして続ける。
「手に、かけられた、と。こんな集落ですんで、娼婦なんてのはいないですが・・・だからでしょうか、金を握らされて、十数人の兵隊さんに・・・」
バキバキバキ、と砕けるように歯が鳴る。
隣に座ったハユはただ、それに脅えている。
「バカなっ!・・・そんなバカな話が――――」
「ホントさ、ヘータイサン。どうやらおたくはそーいうの知らないんだな。いい気なモンだぜ。」
ここを訪れる兵団団員に不満を持つ者はどうやら先の男だけではないらしい。
「貴様らっ、こちらにおられる方を誰と――――」
「いい、ハユ。・・・・・・聞かせてくれ。」
ものほしそうにフラフラ歩いてくる無精ひげの男にササを注いでやり、ミガシはその続きを待った。
「おれは直接被害に遭ったこたないんだがね、おたくらの横暴はちと目に余るモンがあるよ? 道を横一線に牛耳って歩いては肩のぶつかる集落のモンを蹴飛ばすなんざ日常茶飯事だぜー。
女だって歳もクソもねぇ。物好きもいるんだろ、そこのチビくらいの子どもに金を握らせるなんてのもワリにあるんだよ。教皇がロウツの代になって行脚順路から外されたんでな、いよいよもって道徳だぁ倫理だぁなんてのとは無縁になっちまったのさ。
おれぁこの集落にゃ故あって逃げてんだがよ、他の集落や村でも聞くハナシだぜー?
ハッハッハ、デカい町じゃやらねーらしいな、おたくらんトコにも監査役がいるんだろ、そーゆーのの目から逃れるためにこーゆー辺鄙なトコに来ちゃーヤンチャをやってくれるんだとよ。
おたくがどんなリッパな肩書き持ってんのか知らねーけどな、だからこーゆード田舎の見回り希望は多いらしーぜー? 給金も税なら移動も宿賃も税だ。ハハハ、テメーの金を使わずに好き勝手遊ばれちゃかなわねーよなー?
なぁヘータイサンよぉ、あの男の言ったとおりだぜー。おれたちゃよ、奴隷じゃねーんだよ。守る守ると言っときゃ好き放題できると思いやがってっ! へっ、たまんねーよ。
ハハ、じゃーな。
オヤジさんまた来るわ。おたくも気をつけねーとカマ掘られんぞー。ハーハッハッハ。」
その男の声が響く中、店主はまた申し訳なさそうにぺこぺこやりながら料理を作った。
「団長、酔っ払いの言うことです。・・・そうに決まってる。平和をむさぼる愚民どもがっ!」
いつのまにか覚えてしまったそんな言葉も、おそらくはミガシの部下の中から出た言葉なのだろう。
そう思うとあながち嘘とは言えそうもない。
「店主よ、お前もそんな横暴に遭っているのか? なぜ警邏隊に通報せんのだ? 我々の本部にでも。」
よく見れば店のあちこちには年月によるものとは思えない傷や壊れた痕があった。
もしかしたら店主も暴力を振るわれたことがあるのかもしれない。
「・・・いいんでさ。それで、そうやって、わたしらぁ生活できるんですから。」
それは赦すための言葉ではなかった。
色のない、諦めの言葉だ。
「ふん。当たり前だ。多少過ぎたことがあったとしても我々がもっと大きな被害から守っているのだからな。ここへ出入りする兵が多ければ多いほど、頻繁であればそれだけ盗賊や不逞の輩も近づかぬのだからな。あ、おいっ、わたしは虫の揚げ煮は食べられないぞっ!」
ハユの言うことも一理ある。ここにいた二人の男からは外部から襲撃された、略奪されたという事件は聞かれなかった。
だがそれが、それが自分の描く平和なのだろうか。
ミガシの中に、何かがこだまする。
まだ見えない、何かが。
「悔しくは、ないのか。俺の前では言いにくかろうが、なに、ササの席だ。不問にしよう。」
重くなりすぎた空気を拒むように、逃げるように、ミガシは笑う。
笑ってみたが、何も変わらなかった。
「悔しさなど、とうに忘れてしまいましたよ。
・・・ミガシ様といいましたか。あなた様は、はじめ恐いかただとばかり思っていましたが、気の良い方なんですな。わたしはお会いできただけでもめっけもんだと思いまさ。さ、どぞ。冷めないうちに。」
そんな言葉もミガシの中をただすり抜けるだけ。
「・・・そうか・・・そうだ主人よ、一つ尋ねたいのだが宿はこの辺りにあるか? なければここを寝床にさせてもらってもよいだろうか。無論、宿賃は出す。」
そう言って、ああ、この集落を訪れた「ヘータイサン」はこの店で、あるいは女を抱いて眠れる家へと押し入って眠るのだろうな、と思う。思って、しまう。
「あぃや、宿はありませんで、この店をご自由に。体を休めるには物足りないでしょうが厚巻き布がありますでそれをお使いになってくだせ。」
虫の揚げ煮を除けながらハユはもぐもぐと食べ進み、満足そうな顔で腹をさする。
「わかった。勝手ばかりですまないが我々はもう休みたいのでな。これを。・・・いや、取っておけ。」
いやぁこんなたくさん、と首を振る店主に、営業を早引けさせるのだから、と握らせて帰した。
「・・・なあハユ、不満を口にしていった者たちも店主も、なぜ奮起しないのだろうな。」
生まれや育ちがその考えに至らせるのかと思い、冠名を持たないハユに尋ねてみる。
「ふん、あのような者たちの気持ちなどわかりません。奴隷根性というヤツに毒されているのでしょう。
虐げられても虐げられても「いつかよくなる」「これ以上は悪くならない」「逆らったらもっと大変な目に遭うだけだ」、そういう思念に縛られている連中です。
こちらがその解き方を説いてやっても今の安定が崩れることを恐れて実行しないような連中です。
意気地のない者に掴める希望の未来などありはしないにもかかわらず、変化を恐れて縮こまるだけなのです。・・・わたしの村にも、そういった輩は、いました。」
兄も、と思わず言いそうになったが、それは怺える。
口に出してしまうと嫌な、ダメな兄の記憶が引き出されそうで。
「・・・そうか。・・・・・・所詮俺も、お飾りなのだろうか。」
兵団畑で育ったわけでもないミガシにとって、今夜突きつけられた様々な真実は遠く、しかし重たかった。
このままでいいんだ、といなせるほどにそれは珍しくないことなのかもしれない。
良家に育ち悲しみを覚えたことはあったが、こういった汚れた一面にまみえることのなかったミガシは柄にもなく打ちひしがれていた。
「そんなことありません。ニタ家といえば相当な名家だったと聞き及びます。文にも武にも優れた名士を輩出する名門だと。
それに団長はまだ部下でもないわたしを気に掛けてくださるほど心の広いかたです。断じてそんなことはありません。」
おべっかでなくとも、それは快く響くものではなかった。
「そんな名家も狂信者に踏み潰された・・・ふふ、暗くなるな。さ、もう今夜は休むぞ。」
本当は何か語りたかったのだろうミガシは食べ終えた器を重ね、奥の棚に積んであった厚巻き布を出してくるまる。取り分けて渡した布に体を預けたハユは店の端の一段高いところを陣取るとそのまま眠りに就いたようだ。
「権力にしろ、数にしろ、力を得てしまうとこんなにも脆くなるものなのだな。」
集落の者を見下すハユや兵団団員たちを叱りつけたとして、それは自分の中の何か――権力や腕力といったものに脅えて初めて聞き入れられるものなのではないか、そう思えて虚しくなる。
店主たちに見える、罪もなく罵られ嘲られても正論を導かず正義を横目にうつむく姿というものには、ミガシが叩き込まれ、あるいは描いてきた「正義」など微塵もなかった。
今の自分に地位と腕力がなければ、そしてこの集落に生まれ落ちていたならやはり店主のように考え行動するのかと思うと、巨大な躯体を動かすその心のありように言い知れない不安が募ってしまう。
「賢者が世に憂いて隠者となるのも、なるほどわかる気がするな。」
まだまだ知らないことも多かったが、考えることに少し疲れてしまったミガシもハユを追うように夜の魔法に落ちていった。
晴れ渡る朝を、それでも望みながら。
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