A Family in a Doll House 3
自分のお古を着せて私に女装を仕込んだことからも察せられるように、小学五、六年頃までの姉は、少なくとも外見は普通の少女だった。保守的なイメージのドールハウスセットを自室に飾ってご満悦になるような、スカートもはけば少女コミック誌も読む、むしろ今時だと少数派に数えられそうな「女の子らしさ」を体現していた女の子だった。
一方で、姉は文学少女系で、そのせいなのかどうか、そつなく現実に適応しつつも、何か根源的なところで自分の世界に閉じこもっている節があった(そこはどことなく父に似ている)。平素、服装や行動こそ表向きの性に合わせているものの、姉の中ではすべてが擬態だったのかもしれない。「女子生徒として学校に通っていること」や「長女として我が家で生活していること」ということすら、一種のロールプレイだったのかも。
あるいは、姉が幼児期の私をおもちゃにしたのは、自分の分身へのシミュレーションか何かだったのだろうか。さもなければ一種の実験行為か。人間は生まれついての性から離れることができるのかどうか、という。男に生まれついた弟が、ちょっとした〝訓練〟ですんなり女の子に変われるのなら、私だって、という。
小学校をそろそろ卒業する時分になった頃、姉ははっきりと異性装に傾斜するようになった。はっきりした理由はわからない。読書家だったから何らかのイズムに没入した結果とも考えられるし、第二次性徴が始まっていやでもリアルの体と向き合わざるを得なくなったことが何らかの心の傷になった面もあるだろう。
とにかく、中学校の女子用の制服を姉は徹底的に拒否し、入学前から学校側といささか面倒なことになった。同じような女子は他にも何人かいたが、私たちが幼年期を過ごした土地は、ド田舎ではないけれども大都市圏から大きく隔たった地方都市で、ありていに言えば旧弊な土地柄だ。結局入学後まで揉めた生徒は姉だけで、同じ頃に私も〝本物〟になりつつあったので、私たち姉弟は嫌でも地元で注目を浴びた。
世間体を気にする父は激怒したが、母は頭ごなしに私たちを否定しなかった。やや内向的で、教育にもしつけにも強い態度に出ることを始終ためらっているような人だったけれども(だから姉が私をおもちゃにし始めてもろくに止めなかった)、少なくとも自分だけは子供の味方でいなければ、と腹をくくったのだろう、母は私たちに最後まで共感こそしなかったけれども、意志は最大限尊重するようになってくれた。
母が飛び回って折衝に当たってくれたこともあり、中学校では姉はどうにか「特別に配慮が必要な生徒」の地位を得た。現実には終日体操服での授業参加を認めてもらえただけなのだけれども、卒業まで長期欠席したりもせず、それなりの中学生生活を過ごすことができた。
のっぴきならない事態になったのは、姉が高校に上がる年に父の転勤話が持ち上がってからだ。
転勤先は二つ隣の県で、それまでと同じ規模の地方都市だった。だが、率直に言えばさらに旧弊さが目に余る土地柄で、姉が中学校で配慮したもらったような、生徒の個性を最低限尊重する扱いすら望み薄だった。
私と姉はもちろん、母も反対した。聞けば、その転勤は避けられないものではないらしく、あえて希望しなければ声がかかることはない、との話だった。その頃の我が家は社宅のマンション住まいで、近所から色々と情報が集まっていたのだ。母は夜遅くまで父と談判し、これだけの理由が揃っているのだから転勤は何とかお断りして、といつになく強い調子で訴え、父は、わかった、と答えた。
なのに、一ヶ月もしないうちに、父の転勤が決まった。家族挙げての転宅である。単身赴任もできたはずなのに、何を考えたのか、父は家族ごと移ると会社に申請してしまっていた。今までの社宅には住めないし、専業主婦だった母も、もちろん私たちも、父についていくしかない。
話が違うと色めき立つ私たちに、父はきょとんとした顔を返すばかりだった。
「何が言いたいのか知らんが、ここでやってこれたように、向こうでもやれるだろう。制服? 服が気に入らんというだけで、人間死にはせんよ」
実はその転勤は社内的に昇進ポイントの高い案件で、つまり父は家族を犠牲にして、自分の出世を取ったのだった。家族みんなで旦那さんを支えて偉いわね、と、同じ社の何人かの知人からお世辞交じりのコメントを聞かされたという話を、ずっと後になって母から聞いた。
その頃までに十分わかってはいたことだったが、父は私や姉のことを何一つ理解していなかった。中学校と制服のことでもめた、というのも、怠惰な娘が普通の校則違反を繰り返している程度だという認識だったようだ。子供二人が直面している性の問題については、ごくささいな気の病か、単なるわがままぐらいにしか見ていなかった。
母も姉も、父とはずいぶん対話を重ねてきたのだ。もちろん私も。時々父は妙に鷹揚な態度でいることがあって、そんな時は私たちの悩みもつらさも何もかも包み込んで何とかしてくれそうな空気さえ感じてしまうのだが、実のところ、父は生返事をしているだけだった。同じような話が何回も空回りすれば、いやでも真実に気づいてしまう。つまり、この男は致命的なまでに〝他人の話を聞かない人間〟なのだ、と。
引っ越し先の高校――普通科で大学進学を考えるなら、事実上その公立校しか選択肢がなかった、その地の〝開明的な名門校〟――に入学した姉は、制服からクラス内組織から校風から何から何までにうんざりし、一週間程度で自主退学を決意してしまった。またも父との間で猛烈な言い争いになったが、母ははっきりと姉の味方で、無理に登校しなくてもいいと言い、結局そのまま長期欠席から自動的に留年、退学へと至った。そもそも姉のこれまでを振り返れば、高校でこうなることは誰でも予測できたはずだった。いったい父は自分の家族の何を見ているのだろうと、改めて虚しい思いに駆られたものだ。
姉は大検経由で大学を目指すことになった。成績優秀な姉でも完全に独学というのはやや荷が重かったので、事情をくんでくれる個人塾を探し、その費用は自分で稼ぐという名目でアルバイトも始めた。中性的な格好で労働するだけなら、それなりに勤め先は見つかったようだ。
まだLGBTQなどという言葉は知られておらず、姉のようなティーンエイジャーの存在がようやく報じられ始めた頃だったので、小さな厄介ごとはいくらでもあったが、そのまま自室でずっと引きこもる生活に追いやられた人たちのことを思えば、姉は姉なりに、割と前向きなドロップアウト生活を送っていたようにも見えた。あくまで周囲の目には、だが。
一方で、姉には絵の才覚もあった。小学校時代からマンガを描き続けていて、それはイラスト一枚で終わるようなレベルでなく、読み切りのストーリーでマイナーなマンガ誌の投稿欄にしばしば名前が載るほどの、完成度の高いものだった。子供に関することには万事冷淡な父でさえ、いくつかの作品を目にして、ほう、と目を瞠るほどのものだったのだ。
本格的にプロデビューを目指していたようではなかったけれども、将来的にはそっち方面の職に就くことを模索しているようだった。何と言っても異性装を維持したままで就ける仕事には限りがあるし、姉としては手に職をつけるしかない、と思っていたのだろう。稼ぐ力を磨きつつ、大学に進学するなり就職するなりして早く家を出て、大都市で自活したいと思っていたのだろう。
自宅高校生生活も二年目になったある日、姉の元にとある会社からメールが届いた。プロダクションを名乗るその事業所は広告代理店のようなものらしく、かいつまんで言えば、とある宣伝プロジェクトの中で短いマンガを活用した広告展開を考えているので、そのキャラデザインとマンガの制作を依頼したい、ということらしかった。
今ならまず詐欺を疑い、次に契約条件のブラックぶりを精査するところだが、二十年前である。学校に行かずに二十歳前で起業を始める若者のことが好意的に報じられたりもしていた時分で、ありていに言えば姉は舞い上がってしまった。
幸いにして仕事の話は本物で、訪ねてきた担当者には母も会い、きちんと契約書も交わした上で正式にビジネスがスタートした。デビューもしていない新人未満の高校生がいきなり大人と真剣に仕事をするのだから、色々大変だったに違いないが、ほとんどの仕事は自室にこもって黙々と絵を描き続けることだったし、上昇志向の強い姉は、願ってもない自己研鑽の機会と捉えたようだ。何よりも、きちんと報酬がもらえる仕事だったというのが大きかった。担当者の話の通りなら、姉が近い将来家を出るのに必要な十分な額が支払われるということだった。
作業が大詰めに入る頃には、姉は塾もアルバイトも辞め、仕事中毒になった新人社員のように、ひたすら机に向かっていた。さしたるトラブルもなく姉の作品は無事採用され、終わった日には母と私も交えて小さなお祝いもした。
何かがおかしいという気配が漂いだしたのは、納入から二週間ほど経った頃だったか。一時はプロ気取りで少しばかり天狗にもなっていた姉が、次第に不穏な顔つきになっていって、母や私の問いかけにもろくに答えず、思い詰めたような目を見せることが多くなっていった。
とある高齢者施設サービスの事業体が、姉の描いたマンガを伴った宣伝で派手な広告を打つようになって何日か過ぎたある日、例によって遅くに帰った父を、部屋から飛び出た姉が呼び止めて何事か詰問しだした。
正直、私や母には話の中身がよくわからなかった。姉と父の会話は、権利とか履行とか、ことの中身を知っている者同士特有の断片的な言葉ばかりで、どうかすると経験の浅い姉に父が諄々と道理を説いて聞かせているようにも見えた。
二人は最後まで罵り合ったりはせず、いくらか父の言葉にふてぶてしさが混じり出した頃になって、姉はうつむいて唇をかみしめ、暗い暗い目で父を睨むと部屋に戻っていった。父も何も言わずに台所へと去っていった。
翌日になって、どうも、今回の仕事では姉の手元にまるっきり報酬が届いていないようだ、と眉を曇らせながら母が私に事情を教えてくれた。何か手違いがあった――というのとは、どうも違うらしい。父は何かを知っているようで、今度は両親の間で、なんだか穏やかではない言葉の応酬が連日繰り返されるようになって、何日か過ぎたある日の夜、姉が私の部屋にやってきて言った。
チアキ、来週誕生日だよね。私の部屋のドールハウス、あんた、前から気に入ってたよね? あれあげるから、誕生日になったら持って行っていいよ。
その日になったら自分で持ってきてくれればいいのに、と思いながらも、私は曖昧に頷いた。また何か忙しい仕事でも入ったんで、忘れないうちに言っておこうと思っただけなのかな、ぐらいに思って。
姉は失血死で、即死だった。
浴槽につかったまま、自ら頸動脈を切ったのだ。飛び降りは色々と周りに迷惑がかるし、首吊りや毒は失敗率が高い。死ぬのなら一瞬で決められるこの方法と思い定めていたのかも知れない。後で聞いた話では、ためらい傷もなく、ちょっと今日びの若い娘にしては珍しい死に方だとか。
死体を最初に発見したのは母だった。日に日にふさぎ込んでいる姉の様子と、いつもより長い風呂の時間に、何かピンとくるものがあったのか、ただならぬ足音を立て、飛び込むように風呂場のドアを開けているのを、びっくりしながら見ていた記憶がある。そして、それに続くこの世の終わりのような悲鳴も。死んでからそれほど時間は経っていなかったようなのに、駆け付けた救急隊員は手の施しようがなく、病院に担ぎ込まれた時は、すでに死亡を確認するのみになっていたという。
救急車が来るまで、自身も血まみれになりながら、濡れそぼった姉の体にすがって、声を限りに泣き叫んでいた母の姿は、一生忘れることがないだろう。まるでピエタ像のように、浴室の床にぺたんと座り込み、物言わぬ骸をかき抱いて、ひたすら悔やみ、赦しを請い、哀しみを訴えていたあの姿。私は今でも、かの情景に当てはまる言葉が見つからない。中二の私は、まだ慟哭という言葉を知らなかった。知った後も、その言葉で足りているのかわからないでいる。
姉に仕事を依頼した事業所は、姉の作品を受け取って件の広告を作成した直後に解散した。最初から単発のプロジェクトのために立ち上げられた組織で、その母体は何のことはない、父の会社の広報部だった。
まともなプロに依頼するよりもはるかに格安な経費で制作された広告は、マンガ部分の著作権も、キャラクターの商業利用権も、全部父の会社のものとなり、わかりやすく言えば姉の作品は最低価格未満で買いたたかれ、権利ごと取り上げられた。そのことはきちんと契約書にあったが、姉はもちろん、普通の社会人程度ではまず理解できないような日本語で、誰も読まないであろう付録文書の最後の方に、とてもとても小さな字で書かれていたのだった。
姉に報酬が払われなかったわけではない。が、その受取先は世帯主、つまり父で、高校入学時の一時金が全部ムダになったことを盾に、姉にはびた一文もよこさなかった。
父は、間違っても姉の社会人デビューを後押しするために、手の込んだ細工をしたのではなかった。単に、自分の関わるプロジェクトで、格安で意欲的な取り組みが実現できそうなルートを見つけ、うまく利用したというだけに過ぎない。
姉が絶望したのは、必ずしも収入がゼロだったからということではないと思う。むしろ、自分の将来予測を突き付けられた気分になって、生き続ける自信と意欲が根こそぎ奪われたからではないか。
これだけの仕事ができて、これだけ収入があれば、いついつには家を出られて、自由の身になれる。そういう計算が、その前提を含めて何もかも否定されたのだ。しかも、受注した仕事のために、姉は大検対策もアルバイトも全部棚上げしていた。今から元の生活に戻るにしても、一年後の春に家を出られるかどうか。
何年かかっても、着実に前に進めばいいじゃないか、と考えるのは、心身ともに健康な普通の人間の発想だ。一年後には釈放されると確信していた囚人が、少なくとも三年か五年は延びる、と聞かされたら、絶望で心を病んでも不思議はない。
むろん、姉の自殺に当てつけめいた部分がないとは言わない。それでも、私は姉の死を非難する気には到底なれなかった。
十八を過ぎても、もしかしたらずっとその先も、自活できずに父の干渉を受け続ける将来を確信してしまった時点で、姉にとって、この世界は生きるに値しないものになってしまったのだろう。
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