A Family in a Doll House 2

 実家は私のアパートから自動車で二時間半ほどの、地方都市の郊外にある。

 その地域ではリッチなイメージの住宅団地の一画で、父が住んでいるのはその中でも古い区画の、落ち着いた佇まいの一戸建てだ。出来たのは、私がもう高校を卒業して家そのものから離れようとしていた時だったので、正直、私自身はあまり思い入れがない。

 加えて、家そのものの面構えが気に入らなかった。実のところはこの近辺一帯の建売住宅の一つに過ぎず、購入価格だってご近所とそう差はないのだけれども、ちょっとした軒の形とか瓦の色とか庭の造りで、この家だけ妙に悪目立ちしている。むだにでかくて家全体がドヤ顔を決め込んでいるような、なんともいけ好かないお屋敷風――初めて見た時の印象は、そんな感じだった。

 そして私の父親は、まさにこの家にしてこの主、という言い方がぴったりな人間だったのだ。ある意味、この家は父の妄執によって建てられたものだ。世俗の栄光のみ取り繕って、その中に入れるべき家庭の何たるかに全く思いを致さなかった、薄っぺらな男の砂上の楼閣……などと言えば、本物の砂上の楼閣に失礼だろうか。


 家の敷地に駐車スペースは二台分あったけれども、私はあえて門の横にデミオを停めた。

 父は玄関前の花壇の跡のような場所で、草取りのような作業の最中だった。私の姿を認めると、来たか、というように頷いて、ほとんど中身の入っていないゴミ袋を足元に置いた。

 実家に来るにあたって、連絡してから行くべきか、たまたまを装って予告なしに出向くべきか、しばし迷ったのだが、結局出かける前に電話を入れておいた。二時間以上のドライブの果てに待ちぼうけを食わされるのは嫌だし、最近は体調がよろしくなくて介護サービスを受けたりもしているようで、丸一日家を空けている事態もあり得たからだ。

 で、連絡を受けたこの男が何をしていたかと言えば、間違っても遠来のわが子をもてなそうとするような発想はなく、ただ己の健在ぶりをアピールするために、さして必要もない庭掃除にいそしんでいるふりをしていたというわけだ。そもそも過去、父は庭いじりなどに興味を向けたりはしなかった。今この男が枯れ草を引っこ抜いているスペースは、元々母が菜園を丹精していた場所だ。母の死後は除草シートをかぶせるだけになっていたのに、今日になって格好の暇つぶしの材料に気づいて、放っておけば自然に還っていくはずの植物の残骸を掘り返すことにした――要約するとそんなところだろう。

 むろん、本人は何の自覚もないのだろうが。

 ミノリには助手席にいてほしいと短く告げて、私はいささか緊張気味に、形ばかりの鉄の格子門を引き開けた。私が普通のブレザー/スラックス姿でいるのに気付いて、父が乾いた笑みを見せた。

「今日はおかしな格好はしとらんのだな」

「こんなとこに来るのにそんな手間暇かけてられるか」

「いいことだ。そのうち病気も治まってくるだろう」

 父は私の女装癖を、精神的な病の一種だと断じている。深い考察の結果でそう形容しているのでは、もちろんない。

「で、何を取りに来た?」

「荷物あさりに来たんじゃない。この前送ってきたあれ、いったいなんであんなものが見つかったのかって」

「『あれ』?」

「ドールだよ。ドールハウスの。頭と胴体が別々になってた」

 ああ、というように、父が小さく口を開いて、ほんのわずか眉を曇らせた。滅多にやりとりなんかしない家族へ郵便を送ったんだから、即座に話が通じそうなものなのに、この鈍さは何だ。

 正直、私はこの段階で少なからず失望していた。もともとそんな目はゼロに近いとは思っていたけれど――一応、期待はしていたのだ。年老いて父もようやく世間並みに人間的な情動を解するようになったのかも、と。あの郵便は、父なりの一種の謝罪なのかも、と。

 だが、そんなことでは全然ないことが、ひとまず明らかになった。

「手紙に書いただろう。あれの通りだ。何もそれ以上の話はない」

「そもそもなんで鏡台の引き出しなんか調べてたの」

「そりゃ、処分するためにな。色々と粗大ごみに出さにゃならんし」

 露骨に顔をしかめようとして、やめた。すでに亡くなっている母の遺品を父が整理すること自体は、咎められることじゃない。故人の思い出とか、他の家族(つまり私一人だけだが)への配慮とか、そんなものが期待できないのはわかりきっていたことだ。

 手元に置きたければ、母の葬儀の直後にでも黙って持っていくべきだったのだ。とはいえ、化粧品の使い残しとかメイク道具とか、形だけでも「お前、使うか?」ぐらい言ってくれていたら……いや、それはさらにムダな期待というものか。

 まあいい。問題はここからだ。

「で、なんでそんな郵便、こっちに送ったの?」

「なんだ、送っちゃいかんかったのか?」

「いや、それはいいんだけど」

「お前、まだ持ってるんだろう、あの箱庭みたいなの。あの壊れたこけし、あれの部品だったじゃないか」

 色々と言い回しがアレだけれども、これもまあいい。とにかく親父はあのドールを、ハウスセットの一つとしてきちんと認識していたのは確認できた。

「そう言えば昔、一つ足りないとか言ってお前が騒いでいたような気がしたから、送っとけば間違いないと思ったんだが」

「うん、それはそれでありがたかった……んだけど」

 流れのままに礼を言いかけて、私は何かが決定的にズレているのに気づいた。いや、父のこの無頓着ぶりは生来のものだ。そこを突っ込む必要はない。けれども――

「あの、首が取れてたのって、なんで――」

「それは知らん。わしじゃない。見つけた時にはそうなってたんだから」

「いや、そこは疑ってないんだけど……つまり、あのドールは……母さんがに持ち出していたってわけだよね?」

 もちろん、ドールハウスを私の部屋に移した直後の、紛失騒ぎの時の話である。

「そうなるな」

「じゃあ、首を切ったのも、母さん――」

千晃ちあきよ、今さらそんなことを掘り返しても仕方なかろう」

 ちょっと遠くを見るような目で父が牽制した。予想からズレっぱなしの相手の反応に、私はますます混乱してきた。

「掘り返すって……大事なことじゃないか。今となっては手遅れでも――」

「今それを詮索しても始まらんということだ。お前に何も言わんまま墓に入った芙彩実ふさみの気持ちを察してやれ」

 わかっている、のか、この人は? 母があのドールを自ら手にかけたということが、何を意味するのかということを? いったいその時に母が何を決断し、何を棄てたのかということを?

「それはつまり……母さんが死ぬ前に、親父には何か話してたってこと?」

「何か、とは?」

「つまり、あのドールの首をねじ切った理由とか説明とか、何かこう――」

 喉の奥でくつくつと父は笑った。世界の真理について突拍子もないことを語る子供を嗤う大人のような、ひどく空虚な声だった。

「そんな話はせんよ。するわけなかろう。だが、芙彩実の気持ちは、まあわからんでもない。あの時は、こけしの頭でもねじ切らんと、やりきれんかったんだろう」

 こけしの頭じゃない。父親ドールの頭だ。暖かい〝おうち〟の、理想の家族の、その父親役のドールを、母は壊したんだ。今でも憶えてる。あのドールハウスは、姉と同じぐらい母も気に入っていたものだった。姉に買い与えたというのも、「こういうおうちにしていきたいね」という自身の気持ちを、その母親の願望を、暗に長女に伝えたかったからに違いない。そんな母が自ら夢をぶち壊した、その気持ちが「わからんでもない」? この男は、いったい誰の、何の話をしているんだろう?

「あの時って」

「もちろん春華が死んだ時よ。自分が腹を痛めて産んだ子が、あんな死に方をしたんだ。それはもう、色々複雑な思いがあったんじゃないか? 可愛さ余って憎さ百倍、とはまさにああいう気持ちのことかと、正直、わしもしばらく夜も寝られんかったが」

「いやっ、ちょっと待ってくれ! なんで、姉ちゃんが死んで、あのドールの首を落とさなきゃならないの!?」

「死んだからだろう」

 何をおかしなことを、と心底から不思議そうに父が答えた。

「母さんの本心がどうだったかまではわからんよ。でもまあ、あれだけの衝撃があったらな。いっそのこと自分が殺してやりたかったとでも思ったのかもしれんなあ。娘に自殺なんてされるぐらいなら」

 私はもうほとんど思考停止状態だった。

 その通り、姉は自殺だった。でも、私の認識では――もちろん姉の認識でも、おそらくは母も――実質的には父が殺したようなものだと思っている。

 この父がこんなにも他人の心の痛みに無頓着でなければ。せめて、世間並みに人の意見に、子供からの訴えに耳を傾けられる人間であれば。

 おそらく私たちは、小さないさかいを繰り返しながらも、今なお家族四人で絆を保ち続けていただろう。生きてお互いの家を行き来し続けていただろう。

 その、いわば当たり前の家族生活を根底から否定した張本人が、何を――いや、それ以前に、あのドールをなんだと思って話をしているのか?

「な、なんか、おかしいよ。……だって、あのドールは、男で、つまり」

「ああ、男のこけしだ。でもお前のことじゃないだろう? だったら、春華じゃないか」

 私は瞬きもせずに、父を凝視し続けていた。父はそんな私を見てはっきりとおかしそうに笑った。

「あのこけしは春華だったじゃないか。男の格好をしていたろう? この家であてはまるのは、春華しかいない」

 ようやくにして、父親の言っている意味が見えた。

 そう、幼少のころから私を女装させて面白がっていた姉は、自身も異性装者だった。

 つまり我が家では、とりわけ家の中においては、「女子用の服を着ている子供」と言えば私で、「男子服を着ている子供」は姉だった。

 だから、ドールハウスのセットの中で子供のドールを指して「これは誰?」と訊いたら、うちの場合だと男女入れ違いになるというのは、わかる。

 けれども、大人と子供のドールはデザインがはっきり違う。確かにサイズの差は微妙で、さして興味も持ってなかっただろう父が、大人ドールと子供ドールをごっちゃにするのは大いにあり得る話。でも父親ドールの頭ははっきり大人の髪型だし、よくよく見ればひげらしい線も入っている。

 首のちぎれたドールを、子供の方の男ドールだと錯視して、しかも、現実には最後まで全然男っぽい顔になれなかった姉の似姿だと思いこむ……これはもう、罪のない勘違いなんてもんじゃない。

 分かっている。この男はこういう人間だ。受け取る情報を万事自分に都合のいいように捻じ曲げ、世界を再解釈する。それが悪意十割の振る舞いなら、まだ救いはある。だが、本人は至って大真面目で、自分が平素どれだけ恣意的な取捨選択を行っているのか、まるで意識していない。少なくとも、意識していないように周囲には見える。

 たとえ今、問題のドールセットを眼の前で並べて、これこの通り、首を切られたのは父親のドールだ、つまり母さんが怒りをぶつけたのはあんたなんだ、と論破してやったところで、多分父は涼しい顔で、感情が不安定だったから取り違えたんだろうとか、いくらでも強引な解釈をゴリ押ししてくるだろう。その非現実性を考慮だにすることなく。

 これほどに愚かな男が、しかし自分の世帯を持ち、家庭の行く末に対して絶対的とも言える権力を持ってしまった。その結果、親ガチャでこの家に生を受けた子供二人、どれだけ振り回され、絶望させられてきたか。

 もうたくさんだ。

 本人がうっすらと己の非を自覚しているようなら、まだこの先に語るべき何かができるかもと思っていた。が、これは最悪の展開だ。我慢も限界を越えた。

 言葉が完全に無力となった以上、憎しみを表現する方法は一つしかない。

「あんたは」

 ここまでの会話が取るに足らないものだったというように、すかすかのゴミ袋を拾い上げて、ついてもいない埃を払い始めた父に向けて、私はゆっくり足を踏み出した。空気が妙に冷えている感触がある。なのに、胸のむかつきはマグマのようだった。

「いったいこれまで、どんだけ――」

 のったりと父がこちらを振り返り、おや、という顔をした。いささか驚いたように、いくらかは好奇の色を交えて、目を瞠っている。

 振り上げようとした私の拳は、肩の辺りで私の半身ごとミノリに抱き止められていた。

 いつの間に近くへ来たのか、少なくともダッシュで駆けつけて私に飛びついたわけではなさそうだった。ミノリはいつか見たような、ちょっとじっとりと睨むような、でもこちらを心配しきった目で、そして断固とした身のこなしで、私を制止するようにべったり体を寄せていた。

「千晃、その人は? なんだ、連れがいたのか。ほう、なかなかの美人さんじゃないか」

 私の異様な目つきや雰囲気すらも完全スルーして、よそ行きの体裁を取り繕いつつ、父が愛想笑いを浮かべた。機嫌よく、と言ってもいいぐらいの声音で。

「うん、そういう人がいるならいると言ってくれれば。まあ、上がんなさい。……話をしに来たんだろう? ゆっくり聞かせてもらおう」

 それは私が初めて見た、私に対して手放しで喜んだ父の姿、であったかも知れない。まあ傍目から見れば、結婚の意志を持った二人が片方の親に挨拶しに来た、と受け止められかねない状況だ。極端な鈍感体質の父でも、そこはわかったらしい。が、こんな展開はまるで予期していなかったので、私はすっかりしどろもどろになってしまった。返事も出来ずに戸惑っている私に、ん? という顔を父が向けた時、ミノリが意を決したように口を開いた。

「つまり、私たちの関係を認めてくださるんですか?」

 空気が止まった。父は呼吸も忘れて固まったようだった。もしかしたら心臓もポーズがかかっていたかも知れない。

「先はわかりませんけれど、私たち、本気でつきあってます。お父さんは同性婚を認めてくださるんですか? 私たちを応援してくださいますか?」

 見かけは「美人さん」でも、私もミノリも、いわゆる性転換者ではなく、特別な訓練に励んだりもしていない。つまり……声は野郎のバリトンそのままなんである。

 声のインパクトは強大だ。外見の可憐なイメージなど軽く吹き飛ばすぐらいに。

 私も頭が真っ白になったが、親父の衝撃はそれ以上だっただろう。「いや、その」とか、小さくもごもご言ってるのがかろうじて聞き取れるばかりだった。

 しばらく待っても返事らしい返事が戻ってこないのを確認して、ミノリは淡く微笑むと、私に目で合図した。それでようやく私は我に返ることが出来た。

「……帰るよ」

 短く告げて、まっすぐデミオに向かい、発車した。色々と不本意ではあったものの、父の心の裡を確かめるという目的は完全に果たしたのだ。

 二人とも、後ろはいっさい振り返らなかった。



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