第5章 研究所: 5-9 再来訪と電話

午後の探偵事務所に久保田、神崎、彩音、そして剛志が集まっていた。外は薄曇りで、街路樹の影が窓から床に落ち、時おり風に揺れて形を変えている。古びた木製の棚には資料や雑誌が詰め込まれ、ほのかに紙とインクの匂いが漂う。壁掛け時計の秒針が静かに刻む音が、室内の空気をいっそう張りつめさせていた。神崎は腕を組みながら椅子にもたれ、彩音は机の端に手を添えて前のめりに座り、剛志は窓辺に腰掛けて外を眺めながら耳を傾けている。久保田百合子は机に両手を置き、じっくりと事務所の面々を見回した。


「──ここ数日、私なりに天海篤志のことを調べてきたわ」


神崎と彩音は互いに視線を合わせ、次の言葉を待つ。剛志も視線を久保田に固定し、窓枠から立ち上がって背筋を伸ばした。


久保田は、昔の警察関係の伝手を辿り、ひそかに天海の過去の同僚である沖大吾と接触した経緯を語り始めた。くたびれた身なりの男から引き出した断片的な証言を、順を追って整理する。天海篤志がかつて“プロメテウス研究所”と呼ばれる施設に所属していたこと、その施設が長いトンネルを抜けた先にある厳重な場所であること──しかし、天海と久保田の個人的な関係については一切触れず、言葉を慎重に選びながら話を進めた。


「研究の全貌は誰にも知らされない。自分のテーマ以外には一切触れるな、と言われていたらしいわ。成果の用途も不明…異様な組織よ。そして、沖はプロメテウス研究所は国が運営していると言った。私たちは日本の暗部に差しかかっているのかもしれないわ。」


事務所に静かな緊張が満ちる。限られた情報ながら、その背後に潜む異様な空気は全員の胸を重く押し、互いに言葉を交わすことさえためらわせた。


「そのトンネルの奥に、本当に天海博士がいるのか……?」剛志は胸の奥から湧き上がる疑念を抑えきれず、つい口にしていた。


「それは、わからない。まして、そのトンネルがどこにあるのかも、今のところは手掛かりすらないの」久保田が静かに事実を告げると、事務所の空気は一層重く沈み、机上の書類や壁の地図までもが陰を帯びたように感じられた。


「じゃあ、次の手がかりをまた探さないといけませんね」彩音の明るさは周りを助けてくれる。行き詰ったときはいつも彼女が場を和ませてくれる。





そのとき、事務所に来訪者を告げるチャイムが鳴り響いた。ドア近くにいた神崎が立ち上がり、慎重な足取りで迎えに出ると、そこには九条真紀の姿があった。黒のロングコートに細身のパンツ、首には淡い灰色のストールを巻き、外気をまとったまま静かに立つ。その装いも表情も、先日顔を合わせたときと変わらず、硬質な印象を漂わせていた。


「突然押しかけてしまい恐縮です。これまでの調査状況を、ぜひ直接お聞きしたくて参りました」


神崎は室内へ九条を迎え入れ、応接のソファを指し示した。九条は小さく礼を述べ、衣擦れの音すら立てずに腰を下ろす。視線は室内を静かに一巡し、机上の書類や壁に掛けられた地図へと何気なく止まる。その短い一瞥が、内部を探られているような感覚を残す。彼女が名乗った“白神教授の助手”という肩書が偽りであることを、探偵たちはすでに知っていた。


「白神教授の件で、何か進展がありましたか?」九条の問いは一見柔らかく響いたが、その声音には微かな冷たさと探るような鋭さが滲んでいた。


神崎が短く、しかし慎重に答える。「いくつか動きはありました。少々お待ちいただけますか」


九条は小さく頷き、落ち着いた声で返した。「わかりました」


神崎はやや硬い表情を保ったまま久保田の元に戻り、低い声で告げる。「九条さんです」


剛志をはじめ、場にいる全員の表情に緊張が走った。彼は思わず、「彼女は怪しい」と声に出す。分かりきっていたはずのことを、あえて口にしたことで空気はさらに張り詰めた。


「いきましょう。彼女は依頼主です」久保田は一瞬だけ息を整え、覚悟を固めた表情で応接ソファへと歩み出した。一行はその背中に導かれるように静かに続いた。


「お待たせしました、九条さん」久保田が、わずかに表情を和らげつつ、ソファに腰掛けて待つ九条真紀に声をかける。


「どうぞ、コーヒーです」彩音が湯気を立てるカップを両手でそっと差し出した。香ばしい香りがふわりと漂い、湯気越しに彼女の表情が柔らかく揺れた。


「ありがとうございます」九条は静かに頭を下げ、礼を述べた。だが、その指先はカップに触れることなく膝の上で組まれたまま、出されたコーヒーの湯気だけがゆらゆらと立ちのぼっていた。


「調査の状況を伺いに来ました」その言葉と同時に、九条の視線が鋭くこちらを射抜いたように感じられた。


「まだ白神教授とは直接お会いできていません。ただ、彼の住まいを訪ねた際に、非常に不可解なものを目にしました」久保田は声の調子を崩さず、静かにそう告げた。


神崎は白神宅で発見した一枚の画用紙を、慎重にテーブルの上へと滑らせた。そこには、鋭い曲線で描かれた蛇のシンボルが、不気味な存在感を放ちながら浮かび上がっていた。


「これは……?」九条は目を細め、視線を蛇のシンボルへと落とした。その口調は穏やかに聞こえるが、探偵たちが教授宅に侵入した事実を黙認しつつ、奥底で警戒と好奇心が交錯しているのが感じ取れる問いかけだった。


「実はここ最近、別件の調査でこのシンボルについても追っていました。そして──」久保田は隣に立つ剛志へと視線を送る。「こちらの剛志さんも、その案件に深く関わっている人物です」 紹介を受けた剛志は、短く頷きながら九条に目を向けた。


久保田は、蛇のシンボルにまつわる情報を静かに語った。それが剛志の夢に繰り返し現れるものと同一であること、そして同じ蛇を象徴に掲げるカルト宗教“ヒドラ”の存在。さらに、その教祖であった男も剛志と同じ夢に影響され、常人離れした異様な思想に取り憑かれていたこと。そして、同じ夢を共有している人々が少しずつ広がりを見せていること──。翔太、美咲、鬼塚らの事件といった核心部分はあえて伏せられたが、それでも異様な連鎖の片鱗は十分に九条へ伝わった。


「そんなものが先生の家に……いったいなぜ?」九条が疑問を口にした。その声音には、戸惑いとも探るような意図ともつかぬ揺らぎが混じっている。本心から漏れた言葉にも聞こえれば、あらかじめ用意された反応のようにも感じられた。


「それはまだ断言できません。ただ、その夢はどうやら特定の地点を中心に波紋のように広がっている節がありました。その座標を調べた結果、白神教授とみられる人物のロケットが現場で見つかっています」と神崎が落ち着いた声で補足する。


九条は渡されたロケットを静かに開き、その中に収められた、こちらをじっと見据える男性の写真に視線を落とした。数秒間、瞬きもせず、何かを確かめるようにその顔立ちを凝視していた。


そんな九条に向け、久保田がゆっくりと姿勢を正し、口を開いた。「──天海篤志という男をご存じですか?」


短い沈黙ののち、九条はわずかに表情を動かし、袖口を整える仕草をしながら視線を窓へと滑らせた。「……いえ、聞き覚えはありません。その方が何か?」


「そうですか……それなら結構です」


部屋に短い沈黙が降りた。九条の内心を探ろうとするも、その表情は水面のように静かで揺らぎを見せない。


「調査いただきありがとうございます。できれば引き続き教授のことを調べていただけませんでしょうか」九条はゆっくりと頭を下げた。その声音は淡々としていながらも、わずかな切迫感が混じっていた。


「もちろんです。我々もそのつもりでした」久保田が即答する。


「助かります。ちなみに、次はどのような行動を?」九条の問いは誘うような柔らかい調子で発せられる。


久保田はほんの一瞬、言葉を選ぶように視線を落とした。どこまで話すべきか──否、話しても大丈夫なのか。


「……詳しくは申し上げられませんが、あるトンネルを調べるつもりです」


「そうですか」九条の声は平板で、その内側の感情までは読み取れない。


「では、引き続きよろしくお願いします」九条は立ち上がり、静かに一礼して事務所を後にした。扉が閉まった瞬間、薄暗い室内に再び沈黙が落ちた。


「どこまで彼女に話してもよいものでしょうか」剛志は久保田に尋ねた。


「わからない。でも、こっちも行き詰まっていた。危険は承知の上で、あえて餌を撒く価値はあると判断したわ」





数時間後、事務所の電話が鳴った。静まり返った室内に、その呼び出し音が不意に響く。受話器を取ると、電子的に歪められた低い声が、一言だけ、短く切り込むように告げた。


『北西の旧国道沿い、長いトンネル』


次の瞬間、通話は無情に途切れた。誰もが同じ人物の顔を脳裏に浮かべながらも、その名を声に出すことはなかった。

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