第5章 研究所: 5-8 プロメテウス研究所

久保田百合子は、都内のレトロな雰囲気が漂う純喫茶で一人の男を待っていた。木製の椅子と大理石風の丸テーブル、棚には古い推理小説がぎっしりと並んでいる。照明は白熱灯で、橙色の光が店内に柔らかく広がっていた。壁には古地図が額装されて飾られ、奥にはゼンマイ式の柱時計が静かに時を刻んでいる。夕方の時間帯にしては珍しく客が少なく、ガラス越しの通りのざわめきがかすかに聞こえてくる。彼女の前に置かれたカップには、深煎りのブレンドが湯気を立てていた。


現れた男は、やや猫背でスーツもよれたままだった。沖大吾──かつて天海篤志と同じ研究機関に籍を置いていた元研究者。その姿は、かつて論文誌の巻頭を飾った姿からは程遠く、時の流れと生活の苦しさが如実に滲んでいた。


「……あんたが久保田百合子? 電話で言ってた人か」


「ええ、呼び出してごめんなさい。あいさつ代わりに、少し話を聞かせてもらえるかしら?」


沖は苦笑しながら席についた。目の下の隈は深く、目元にはかすかな諦念が漂っていた。ジャケットの袖口は擦り切れており、無精ひげが数日分伸びている。


「天海篤志のことを知りたいんだろ。──教えてやってもいいさ。ただし……百万円くれたら、な」


久保田はカップを口元に運び、少しだけコーヒーを含んでから言った。


「……百万円を“渡す”のは難しい。でも、“稼がせる”ことなら、できるかもしれないわ」


沖が訝しげに眉をひそめる。


「は? 競馬でもするつもりか?」


「そう。時には運じゃなく、論理がモノを言うの」


久保田は穏やかな笑みを浮かべたまま、手帳を取り出し、手早く幾つかの数字を書き込んだ。


「この馬券を買って。明日の中山第11レース──私はその勝率を70%以上と読んでいる」


翌日、沖は半信半疑のまま馬券を購入した。パドックで馬を観察するわけでもなく、ただ久保田の示した番号に従った。結果、三連単で十倍を超える配当が的中した。受け取った払い戻し金の明細を見た沖は、一瞬言葉を失った。


数日後、再び喫茶店。


「……マジかよ。あんた、何者だよ」


「探偵。時々、ちょっとだけ先を読むのが得意なだけ」


沖は深くため息をつき、やや震える手でカップを持ち上げた。


「わかった、話そう。俺と天海は、もともと民間の同じ研究所にいたんだ。そこがある時、国に買収されて“プロメテウス研究所”になった。あの名前を表に出すことはほとんどないが、今でもちゃんと存在している」


久保田は身を乗り出す。「場所は?」


沖は首を横に振った。「悪いが、それは言えない。ただ……行き方は単純だ。決まった入り口から長いトンネルに入る。それだけで研究所に着く」


「トンネル?」


「ああ。入り口には警備付きのゲートがあってな。IDパスを見せなきゃ通れない。パスは事前登録された職員のものだけだ。トンネルに入ったら窓の外は真っ暗で、どこを通ってきたのかもわからない。気づけば施設の中だ」


「トンネルの入り口はどこ?」


沖はわずかに笑い、視線をそらした。「それも言えない。」


「なぜ?」


沖は低く息を吐き、声を潜めた。「場所を漏らすのは契約違反だ。訴えられるどころか、すぐに動きを封じられる。……俺はまだ監視されてる」


久保田はわずかに眉を動かしたが、黙って先を促す。


「天海について少し話すくらいなら問題ない。だが研究所の場所は他言無用ときつく言われている。外に知られるのを連中は一番恐れてる」


久保田はその情報を淡々とメモに記した。


「研究所の中じゃ、部署間で成果を話すのは基本的にタブーだ。俺だって天海がどんな研究をしていたのか、詳しくは知らない。廊下ですれ違って挨拶する程度の関係だった」


「プロメテウス研究所の設立目的や、成果の用途……そのあたりの情報は?」


沖はしばし目を伏せ、やがて首を振った。


「それが、奇妙な話なんだが……俺たちは何のために研究してるのか、全貌を知らされることがなかった。自分のテーマ以外には一切触れるなと言われていた。調べようとしたこともあるが、ある日、何の説明もなく契約を切られた」


「それが理由で今の生活に?」


「そうだよ。実家に戻る気もないし、今さら別の仕事なんてできない。……このザマさ」


「天海くんが今どこで何をしているか知っている?」


「いや、知らない。だが、俺が追い出された時点では、まだ研究を続けていた。もしかしたらまだプロメテウス研究所にいるのかもしれないな」


「もう一つだけ。もし私がこれを追おうとしたら?」


沖は目を細め、じっと久保田の目を見つめた。


「止めはしない。だが覚悟はしておけ。あそこには、何かがある。何か“普通じゃない”ものが、隠されている」


沖はそれだけ言うと、カップを空にし、そっと立ち上がった。足取りは重かったが、どこか吹っ切れたような顔をしていた。


久保田は残されたメモを見つめながら、湯気の消えかけたコーヒーにそっと口をつけた。


ページの端には、手書きの一文が記されていた。


──長いトンネルの先に、プロメテウス研究所。

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