第5章 研究所:5-7 天海を追う
夕暮れが迫る街を、久保田百合子は静かに歩いていた。人通りの少ない裏通り、シャツにカーディガンを重ねただけの軽装にもかかわらず、彼女の足取りに迷いはなかった。春の風は肌寒さを帯びていたが、気にする様子もなく、彼女は考えを巡らせていた。
「白神努」という男。彩音が持ち帰った一枚の写真によって、あいまいだった彼の関与が決定的なものになった。
──この男は、天海篤志だ。
数日前、彩音が拾ってきたロケットに写っていた人物──それが天海である裏付けを取れたばかりのタイミングで、別件だと思っていた事件からも天海が浮かびあがってきた。彼が強烈に自己主張をし始めたような錯覚を覚えていた。
警察官として勤務していた頃の久保田が天海と初めて出会ったのは、都内で発生した特殊事件の技術捜査会議の席だった。警察と外部研究機関との協力体制が求められる中で、天海は外部アドバイザーとして呼ばれていた。彼は心理学のスペシャリストという肩書で、人の無意識に干渉するアプローチの研究をしていた。年齢の割に落ち着いた物腰と、何事にも怯まずに意見を述べる姿勢が印象的だった。捜査員たちが眉をひそめるような難解な理論も、彼は丁寧な言葉でゆっくりと説明し、時に笑顔すら見せた。
最初は形式的な協力に過ぎなかったが、会議後に資料整理を共にする中で、二人は少しずつ言葉を交わすようになった。警察組織の堅苦しさと無縁の、自由な発想と好奇心に満ちた天海の語りに、久保田は自然と惹かれていった。
事件が終わったあとも、二人は連絡を取り合い、警察と研究者という枠を越えて、個人的な友人としての関係を続け、近況や己の思想を語りながら酒席を楽しんでいた。天海もまた久保田の芯の強さと穏やかな対話に心を許していたようだった。
しかし突然音信は途絶え、彼は久保田の前から姿を消した。当時探っては見たものの、警察内部という立場をもってしても天海を見つけることはできなかった。もう10年以上前のことだ。
「天海くん、あなたはいったい何をしていたの……?」答えるものもいない問いが久保田の口をついてでた。
私が必ず突き止める。強い欲求が久保田の中に湧き上がってきていた。
もちろん九条真紀に調査状況は伝えられない。彼女も非常にグレーだし、直接問い詰めたときどんな反応は見せるかは未知数だ。事務所の皆には白神努宅周辺の聞き込みに出てもらっているが、正直あまり成果は見込めない。久保田自身のネットワークを駆使して、天海の現在を探るしか方法はない。
実は久保田の警察関係者へのパイプは太い。もちろん公につながっているのではなく、個人的なものだ。彼女が警察に身を置いていたころの人柄で、志村をはじめ、彼女を慕う者は多かった。若いころに目をかけた捜査員たちが、今は成長し警察の主力として活躍している。
警察官が外部の者に情報を流すなど世に知れたら大変なことになるため、彼女は探偵事務所のメンバーにも絶対にソースは明かさなかったし、警察の皆も久保田なら悪用はするはずあるまいと信用してくれていた。
志村を頼ることも考えたが、ヒドラ事件の後処理で忙しいに違いない。それに人探しならもっと適任がいる。
事務所に帰還した久保田は携帯電話を取り出すと短縮ダイヤルで電話をかけた。他のメンバーは出払っていて事務所には久保田一人だ。
「……はい、相楽です」電話口の相手が名乗った。
「相楽くん、久保田です」お互いに電話の相手は分っているだろうが、礼儀として名乗る。
「ごめんなさい、また頼めるかな?」久保田が相楽に依頼するのは初めてではない。彼の脳内データベースにはあらゆる人物のバックボーンが詰まっている。もちろん日本国民全員の情報が頭に入っているわけではないが、似た境遇、状況をもつ人物が見つかれば、そこから芋づる式に知りたい人の情報までたどることが可能だ。
「もちろんです。今度はどなたをお探しで?」相楽はまもなく40代に差し掛かろうとしている働き盛りの男だ。頭脳明晰だが几帳面なところがあり、完璧を追い求める。ややもすると欠点ともなる特性だが、その結果情報を漏らすまいとあらゆることを詰め込んでいるのだ。
「今名乗っている名前は、白神努。ただこれは偽名で本名は天海篤志というわ。現住所は……」久保田は天海に関する情報を相楽に話す。個人的にした会話内容までは伝えていないが、過去の研究所の名前、捜査協力の件、連絡が取れなくなった時期など足取りを追えそうな情報はすべて話した。
「昔の同僚だと思われる人物には心当たりがあります。その研究所名は聞き覚えがある。今でもまだ連絡取れます」さすがは相楽だ。
「ありがとう。連絡先を教えてもらえる?」
「はい。名前は沖大吾。電話番号と住所をお伝えします」相楽が述べる情報を久保田は手元の手帳に書き込む。
「あと、ソイツ、ちょっとワケありで借金があるみたいです」相楽に補足情報をもらう。
「わかったわ、ありがとう」久保田はそう言って電話を切る。
沖大吾。この男から天海までの糸はつながっているのか?いや、私がつないで見せる。久保田の決意はより固まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます