第5章 研究所:5-4 来訪者
山間部の調査を終えた剛志・彩音・神崎の三人は、午後8時過ぎに久保田探偵事務所へ戻ってきた。市街の灯りはすでにまばらになり、夜気が肌にまとわりつくように冷たく感じられる。三人の表情には、やや拍子抜けしたような疲労の色がにじんでいた。期待していた発見が得られなかったことで、ただ山中を歩き続けた徒労感だけが残っていたのだ。
ビルの階段を上がり、事務所のドアノブに手をかけると、内側からコーヒーと紙の香りがふわりと漂ってきた。それだけで、ほんの少しだけ肩の力が抜けた気がする。無意識に息を吐き、硬くなっていた肩がわずかに緩んだ。中に入ると、久保田百合子と看板猫のキュミちゃんがソファから立ち上がり、出迎えてくれた。
「おかえり。成果はどうだった?」「キュミ~」
久保田がコーヒーをカップに注ぎながら問いかけた。立ち上る湯気と芳しい香りが、張りつめていた三人の緊張を静かにほどいていく。
「木と電波塔だけでした。魔法陣も、怪しい設備もなし」
神崎が肩をすくめ、撮影した写真をタブレットに映し出す。画面に映るのは、無機質にそびえる電波塔、新緑が広がる斜面、木々の奥にぽっかりと開いた仄暗い空間。すべてがありふれた里山の風景でしかなかった。
剛志も頷く。「衛星写真どおりの、ただの山でした」
探索時間は一時間に及んだが、結果は空振り。事務所内の空気がわずかに沈む。
「そうだったのね。ご苦労さま」久保田が気遣うように微笑みながら声をかけた。
「――でも一つだけ、変わったものを拾いました」
彩音が腰のポーチから、銀色のロケットをそっと取り出した。表面はくすんでいたが、磨けば再び輝きを放つであろう円筒形の小物だった。手に伝わる冷たい重みは、外見以上に確かな存在感を持っていた。ふたを開けると、中には一枚の古いフィルム写真が丁寧に収められていた。
「今回の件と関係あるかはよくわからないんですが、若い二人の研究者らしき人物が写っていました」
彩音がセピア色の写真を取り出し、久保田に手渡す。写真を見た瞬間、久保田は驚きに目を見開いた。
「え? 久保田所長、どうかしましたか?」
「ピンポーン」と呼び鈴が鳴ったのは、剛志がまさに事情を聞き出そうとした瞬間だった。時刻は午後8時30分。来客にしては遅すぎる時間帯だった。
彩音が玄関ドアを開けると、街灯の淡い明かりに照らされたスーツ姿の女性が立っていた。黒髪をきちんとまとめ、背筋は凛と伸びている。その表情には、疲労の色と緊張感がにじんでいた。
「こんな時間に失礼します。私は九条真紀と申します。実は折り入って探偵さんにお願いしたいことがあって参りました」
九条真紀と名乗った女性は、目元に深い疲れを滲ませながらも、真剣な面持ちで深く頭を下げた。
久保田探偵事務所の面々は一瞬顔を見合わせたが、依頼人を玄関先で追い返すわけにもいかない。
神崎が九条を応接室へ案内し、彩音はお茶を入れに給湯室へ向かった。このあたりは阿吽の呼吸だ。誰かが動けば、他の誰かが自然に役割を果たす。
九条の前にコーヒーが運ばれたタイミングで、神崎が口を開いた。「さて、どうされましたか?」
「実は、恩師である教授の様子が最近おかしいのです。研究室も顔を出さず自宅に籠りきりで、授業も休講を続けています。普段は温厚で人当たりもよかったのに、まるで人が変わってしまったようで……。こちらはオカルトにも強いと伺いました。非科学的な話は信じたくありませんが、教授に何が起こっているのか、調べていただけませんでしょうか」
九条の声は穏やかだったが、言葉の端々に切迫した思いが滲んでいた。
「俺はちょっと外すよ」
本来は部外者である剛志は、関係のない依頼に関わることを避けるべきだと判断し、そっと席を立とうとした。
だが、その瞬間。
「あなたにも聞いてほしいんです」
九条が語気を強めて言った。
「え?」予想外の引き留めに剛志は戸惑ったが、九条はすぐに続けた。
「とにかく私にとっては重要なことなのです。お願いできますでしょうか」
神崎が静かに眉をひそめる。
「申し訳ありません。現在、別件の調査で多忙でして……」
だが九条は一歩も引かない。
「謝礼はもちろんお支払いします。どうか、お願いします」
そう言ってカバンから取り出したのは、やや厚みのある封筒だった。それを机の上に置く。
久保田はしばらく思案したあと、静かに息を吐いた。謝礼の多寡ではなく、九条の放つ張りつめた気迫が決断の決め手となった。
「……分かりました。私たちで引き受けましょう。ただし、別件と並行しての調査になります。ご理解いただけますか?」
九条は深く頭を下げた。
「はい。本当にありがとうございます」
「剛志さん、ごめんなさいね。あなたもそれでよいかしら?」久保田が確認を取る。
「ええ、もちろん」半ば事後承諾といったところだが、剛志自身も自然と受け入れていた。
「それでは、詳しいお話をお聞かせ願えますか?」彩音が自前のメモ帳を広げ、真剣なまなざしで調査の開始を宣言する。
夜の探偵事務所には、コーヒーの香りと、新たな謎の気配が静かに漂っていた。
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