第5章 研究所:5-5 九条の依頼

夜の帳が静かに久保田探偵事務所を包み込む。外の喧騒も沈みきった時間帯、応接室にはコーヒーの香ばしい香りが漂っていた。その香りすらもどこか緊張感を孕んでいた。


応接室には5人の姿。剛志、彩音、神崎、久保田、そして訪問者の九条真紀。彼女の姿勢はまっすぐで、表情には冷静さと不安が同居している。


「調査をお願いしたい人の名前は、白神 努といいます。私の大学の教授で、心理学を専門にしている方です」


九条の声はよく通り、抑揚に無駄がない。だがその端々に、深く抑え込まれた焦燥がにじんでいた。


「はくじん、つとむ……漢字はどう書きますか?」


彩音の問いに、九条は静かに頷くと、手帳を取り出し、端正な字で名前を書き記す。その手つきにも、張り詰めた緊張が見て取れた。


「いつ頃から様子がおかしくなったのですか?」神崎が穏やかに問いかける。


「異変に気づいたのは、およそ3か月前です。その頃から徐々に大学に姿を見せなくなり、研究室の業務は私が代行することになりました」


九条の言葉には、背負いきれないものを抱えた苦しさが滲んでいた。


「4年生は無事に卒業させられましたが、新年度が始まっても教授の状況は改善せず……。先月までは連絡が取れていましたが、今月に入ってからは電話にも出ず、自宅を訪ねても応答がありません。けれど、中に人の気配はあるんです」


「教授ご本人の雰囲気にも、変化があったのでしょうか?」


神崎の問いに、九条は少しだけ口元を引き結び、ゆっくりと頷いた。


「もともと温厚で、学生にも親切な方でした。でも最近は、まるで別人のように無口で、どこか遠くを見つめているような表情をしていて……。話しかけても反応が遅く、“あぁ、大丈夫だ、すまないね”とだけ言って話を打ち切られてしまうんです」


その声は震えてはいなかったが、彼女の両手はそっと膝の上で握られ、指先はわずかに強張っていた。


久保田は静かに頷きながら言った。「なるほど、それは確かに心配ですね」


「だから、皆さんに調査をお願いしたいんです。大学にはもう現れませんし、自宅でどんな生活を送っているのか、誰と接触しているのか……。先生は独身でご家族もいません。生活が破綻していないか、健康状態はどうなのか、気がかりで仕方がないんです」


言葉のひとつひとつには、仕事としての責任感だけではなく、敬愛する師を想う心情が色濃く滲んでいた。


剛志はふと、かつて弟の翔太が不安そうに相談してきたあの日のことを思い出す。翔太には兄という存在があった。だが、白神教授には誰かに弱音を吐ける相手がいただろうか。


(夢の事件と何か関係が……?)そんな疑念が一瞬、剛志の頭をよぎったが、すぐに打ち消した。何でも結びつけるのは早計だ──と、自らに言い聞かせるように。


「もしかすると、教授は誰か──良からぬ人物と接触しているのかもしれません。それが、最近強く感じる不安です」


九条の言葉には、無意識のうちに感情の色がにじんでいた。


「分かりました。まずは白神教授のご自宅周辺から調査してみましょう」久保田が頷く。「神崎くん、彩音さん、お願いできるかしら」


「承知しました」神崎が即答し、彩音も黙って頷いた。


九条は差し出された彩音の手帳に、白神の住所を丁寧に書き写した。その筆跡には緊張が込められていた。


「私は……少し気になることがあるので、そちらを調べてみるわ」


久保田が立ち上がり、背筋を伸ばして言った。


「今夜はもう遅いですし、調査は明日からにしましょう。九条さんも今夜はお帰りください。何か分かり次第、こちらから連絡します」


「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


九条は深く頭を下げた。その姿からは藁にもすがるような思いがにじんで見えた。


その夜はこれにて解散となった。

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