第5章 研究所 :5-1 まだ終わっていない

久保田探偵事務所の夜は、表向きには事件が解決したはずなのに、どこか落ち着かない空気が漂っていた。


応接室では、久保田、神崎、剛志、彩音の四人が向かい合って座っていた。テーブルにはコーヒーと軽食が並べられていたが、打ち上げの雰囲気とはほど遠く、会話も少なかった。室内には静けさが満ちていて、それぞれの思考が沈黙の中で渦巻いていた。


事件は一区切りを迎えていた。鬼塚は死亡し、鏑木は逮捕され、ヒドラ教団も壊滅した。それでも剛志と彩音には、まだ何か引っかかるものが残っていた。それは説明のつかない感覚ではあったが、確かに存在していた。


「静かね……」と久保田がつぶやいた。声にはどこか寂しげな響きがあった。


「確かに、一応は終わったはずなんですけど」と神崎が返す。だが、その言葉にも力がこもっていない。


そのとき、久保田のスマートフォンが震えた。画面を確認した彼女は、すぐに電話を取る。応接室の空気が一瞬緊張した。


「はい、久保田です。──志村くん、進展があった?」


短い沈黙のあと、久保田は軽く頷いた。


「……そう、須田智也。それが鬼塚の本名なのね。ありがとう、引き続きよろしく」


通話を終えた久保田が皆に向かって話す。


「鬼塚の本名が分かったわ。“須田智也”。警察の照合で身元が確認されたそうよ」


「やっぱり偽名だったんですね……」と彩音は驚きと納得の入り混じった表情で言った。


「そうみたい。でも、それ以上の情報はまだ出ていないらしいわ。履歴や経歴についても、データが古くて調査が難航しているようね」


剛志は無言でコーヒーカップを見つめていた。鬼塚が語っていた“あいつ”という存在──須田智也の過去を辿れば、その人物像が見えてくるかもしれない。だが、今の剛志には別のことが気になっていた。


「……終わってない」


小さな声でそう呟いた。


「え?」彩音が驚いて彼を見た。


「事件は、まだ終わってない気がする。鬼塚も翔太も、そして俺自身も、何かを“見せられていた”。ただの夢じゃなくて、誰かの意志がそこにある夢だ。あれは個人的な幻覚ではなく、共通のパターンがあった」


「夢……」と久保田がつぶやく。


「最初は鬼塚が他人に夢を見せていたのかと思ってた。でも今は違うと思う。彼自身も、誰かに夢を見せられていた側だったんじゃないかって。そして、それは彼を狂気に駆り立てた。あの夢の正体は、まだ分かっていないけど……何かが俺たちに干渉しているんだ」


しばらく沈黙が続く。その間に、それぞれの顔に思索の影が落ちていた。


やがて彩音が口を開いた。「鬼塚は“人の意志”だって言ってましたよね。前にも話したけど、“集合的無意識”という考え方があるんです。心理学者のユングが提唱したもので、人間には個人を超えて共有されるイメージや記憶があるっていう……」


「それについて、もっと詳しく教えてくれないか?」と剛志が身を乗り出す。


彩音はうなずいて説明を始めた。「『集合的無意識』というのは、心理学者カール・グスタフ・ユングが提唱した理論で、私たち人間の心には、個人固有の経験や記憶だけでなく、種として共有される深層の心の層があるという考え方です。この無意識の層には“元型(アーキタイプ)”と呼ばれる象徴的なイメージ──たとえば“母親像”や“英雄”、“影(シャドウ)”といった、特定の感情や意味を帯びたパターンが含まれています。


これらの元型は、文化や言語、時代が異なっていても、世界中の人々の神話や夢に共通して現れるんです。つまり、私たちが何かを見る、感じるといった行為の深い部分には、こうした共通のパターンが無意識に働いているということです。これは私たちが意識的に知っているというより、生まれながらに備わっていて、人間の精神の“設計図”みたいなものと言えるかもしれません。」」


神崎が、少し身を乗り出しながら疑問を口にした。「その無意識は、つまり“集合的”であることを前提としているとして……そもそも、どこから来たとされているんだ? 生物学的な進化の過程で形成されたのか、それとももっと象徴的な、あるいは哲学的な起源があるのか?」


彩音は少し考えるように目を細めてから答えた。「ユング自身は、それを生物的進化の産物と見ると同時に、人類の精神的遺産、つまり“魂の履歴”のようなものとして捉えていました。言葉や文化が形成される以前、人間が自然や死と向き合ってきた体験の積み重ね──それが深層心理の中に蓄積されていった結果が集合的無意識であり、元型なのだと。つまり、それは“自然発生的”に生成されたものであると同時に、我々の祖先の記憶のようなものでもあるんです」


「もしその無意識が夢を通じて何かを伝えているとしたら……あの夢は単なる幻想じゃなく、人類全体が抱える何かが形になったものかもしれない。そして、誰かがそれを利用していたとしたら……」


剛志は深く考え込む。


「やっぱりこの事件には、まだ追うべき真実がある気がします。終わりだなんて思えない。何かが、まだ隠れてる」


「もう少し付き合ってくれますか?」と剛志が久保田を見ると、彼女は笑みを浮かべて頷いた。


「もちろん。こういうオカルトっぽい謎は、私たちの専門でしょ」


そのとき、部屋の隅にいたキュミが「きゅみ~」と一声鳴いた。


その小さな鳴き声は、まるで新たな調査の始まりを静かに告げる合図のようだった。

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