第4章 ヒドラ :4-9 人というバケモノ

「……お前が、鬼塚か?」


沈黙を破った剛志の声が、部屋の空気を震わせた。


「いかにも」


鬼塚は冷たい目と、わずかな微笑をたたえて応じた。その表情には静かな確信が宿っており、まるですべてを見通しているような眼差しだった。剛志を含めたその場の全員が言葉を失う。威圧感というよりも、得体の知れない「信念の力」が彼の存在にまとわりついているかのようだった。


その場にいた誰もが思った──これが人々を惹きつけ、美咲を信じさせた男なのだと。


剛志の目はまっすぐに鬼塚を射抜いているが、内心では確かに、理解を超えた重圧を感じていた。


「俺たちはお前たちを止めに来た」剛志は自らを落ち着かせながら言った。


「そうか、そっちか」鬼塚がわずかに微笑を深めた。その目はどこか期待を裏切られたような、しかし面白がっているようでもある。表情の裏にある感情は読み取りきれない。


剛志は思わず眉をひそめる。──そっち、とはどういう意味だ?ヒドラの理念に共鳴した者が、あるいは信者として試練を乗り越え、ここに辿り着く者がいることを前提としていたのか?それとも、この聖地に至った人間が必ずしも敵ではないと、彼は本気で考えていたのか。


鬼塚の視線には、試すような光があった。剛志たちを敵と見るよりも、“選ばれた者”として測っているような──そんな奇妙な重みがあった。


「どうして止めたい?」


その言葉は、あまりにも答えが決まりきった問いだった。しかし、鬼塚はまるでその答えを聞くことに本気で意味があると思っているような口ぶりだった。


「どうしてって……そんなの、当たり前だろ! お前たちのしていることは、ただの残酷な殺人だ!」


剛志の語気には怒りと戸惑いが入り混じっていたが、鬼塚はまるでそれすらも興味深い観察対象であるかのように、静かに微笑んだ。


しかし鬼塚はそれすら受け止めることなく、まるで長年の知己と会話を交わすような自然さで口を開いた。


「君たちには、私の話し相手になってもらう。ここに辿り着いたというだけで、その資格はある。なぜなら──君たちは“真実”に近づこうとした者たちだからだ」


その声は静かだったが、妙に耳に残る響きを持っていた。理屈ではない、言葉の重みが剛志たちの胸に食い込んでくる。


「聖地にたどり着いたその執念、そして思慮の深さ。それはただの好奇心や義憤では届かない場所にあるものだ。議論の相手として、これほどふさわしい相手はいない」


言葉の一つひとつが、鬼塚の信念に裏打ちされていることがわかる。それは押しつけがましい教義の言葉ではなく、人間の根底を見透かした者が語る“真理”のように響いた。


剛志は反発心とともに、喉元まで何か熱いものが込み上げるのを感じていた。


「議論だと? そんなことをする必要はない。お前が鬼塚だと認めるなら、警察に通報して逮捕してもらえばいいだけだ」


「フッ……そんなつまらないこと、させるわけがないだろう」


鬼塚は少し肩をすくめて笑い、どこか楽しげに言った。「通報できるものなら、してみるといい」


剛志が携帯を取り出す。画面には“圏外”の文字が浮かんでいる。


「もちろん、この部屋から出ることも──私が認めるまではできない」


鬼塚の声は芝居がかったようでいて、どこか人を魅了するような色を帯びていた。まるでこの異常な状況すらも一つの“舞台”として演出しているかのように。


その姿に、剛志は不気味さと同時に、不思議な納得を感じていた──これが人を惹きつけ、信者たちに“教祖”と仰がせる男の、恐るべきカリスマなのだと。


「私は、自分の思考をもっと研ぎ澄まさねばならない。人類の未来のために」


鬼塚の言葉は静かだったが、内に宿した熱量が言葉の端々ににじんでいた。まるで独り言のように紡がれたその一言に、部屋の空気がふっと張り詰める。


「ヒドラの教義のためか」


剛志の問いは短く、しかし鋭く切り込んだ。だがその答えは、意外なほどあっさりとしていた。


「いや、そうではない」


鬼塚はにやりと笑った。その笑みには確信があった。信仰ではなく、理性でもなく、もっと根源的な“自分自身の意志”に突き動かされているという確信が。剛志はその笑みに、ほんの一瞬、背筋がぞくりとするような違和感を覚える。


「君の名前を教えてくれ」


唐突に尋ねられたその問いに、剛志は反射的に言葉を飲み込む。名を明かすことにどんな意味があるのか──しかし、鬼塚の目には異様なまでの集中が宿っていた。剛志の名を聞くことそのものが、何かを“見極めるための儀式”であるかのような、そんな圧力を感じた。


「……宮崎、剛志」


剛志の声は低く、しかしはっきりと響いた。鬼塚は満足げに一度頷くと、その名を静かに反芻するように繰り返した。「剛志か──いい名前だ」


「君は、人間ってどんな生き物だと思う?」


突然の問いに、剛志は一瞬だけ動きを止めた。その目に浮かぶ困惑を見て、鬼塚はゆっくりと微笑む。


「どういう意味だ?」


剛志の問い返しに、鬼塚はまるで詩を詠むかのように、静かに答えた。


「醜くて、汚くて、卑怯な存在。そうは思わないか?」


その言葉はまるで剣のように鋭く、そして氷のように冷たかった。だが鬼塚の声は驚くほど静かで、低く抑えられていた。その静けさが、かえって言葉の毒を強く引き立てる。


「思わない。翔太も、ここにいるみんなも、そんな奴じゃない」


剛志は即座に否定した。


「私は一人の個人の話をしているわけじゃない。──“種”としての話をしているんだ」


鬼塚は言葉に重みを込める。その瞳には、確信と絶望が複雑に混じり合っていた。


剛志は言葉を失った。そんな視点で人間を捉えたことなど、一度もなかった。


「人は皆違う。十把一絡げにするのは乱暴すぎる。そんな思い込みでヒドラを作って、儀式までやってるのか?」


精一杯の反論だった。剛志自身も、確信のもと言っているわけではない。しかし、それでも口にせずにはいられなかった。


鬼塚は小さく苦笑した。その笑みは冷たいが、どこか寂しさを含んでいた。


「人は、他人を攻撃するのが好きだ。しかも大半は、それを無自覚でやっている。救えないと思わないか?」


剛志は返そうとしたが、言葉が出てこない。


「救えない? 救済が目的なんじゃないのか?」


鬼塚の声が静かに、だが鋭く返ってくる。


「……人は、安全な場所から他人を陥れる。噂、掲示板、SNS、口コミ、質問サイト。自分の吐いた言葉が誰かを傷つけていても、平気な顔をしている。見えないから、気づかないから、痛まない。それだけだ。ただ思ったことを吐き出してるだけ。正義のつもりでな」


剛志はつばを飲み込んだ。鬼塚の凄みに、思わず圧倒される。


「無自覚な攻撃性──なぜそんなことが起きるのか? それが人間の本質だからだ。表には出さないが、皆、比べて、守って、正当化してる。隠していても、にじみ出てくる」


「違う……俺はそんな風には思っていない」


「全員、口では綺麗ごとを言うさ。だが、心の奥底では違う。他人の成功をねたみ、失敗を面白がる。表では同情の顔をして、裏では鼻で笑っている。──それが人間の本性なんだよ。無自覚のまま、誰かを傷つける。しかも、それにすら気づかず、自分は善人のつもりで生きてる」


その瞬間、剛志の脳裏に、あの夢の映像がフラッシュバックする。


ねじれた木、ぬかるんだ地面、蛇の文様、自分そっくりの影、沈み込む沼、そして無数のバケモノ──。


あの夢の情景が、剛志の脳裏に鮮明によみがえった。言葉にできない不快さと、不条理な悪意に満ちたその世界。


「お前が……夢を操っているのか?」


剛志の声は、かすかに震えながらも芯のある低音で響いた。まるで確信と恐怖が入り混じった問いだった。


「俺も、翔太も、美咲も……同じ夢を見た。他にも見ている人間がいる」


剛志の視線は、鬼塚の反応を探るように鋭く注がれていた。


鬼塚はにやりと笑う。「ほぉ……君も、か。どんな夢だった?」


剛志は応じる。ねじれた木、濁った水、蛇の模様、自分自身、泥、沼、そしてバケモノ。


鬼塚は沈黙し、考え込むように目を伏せる。


「……そこまで鮮明に見た者は、私の他にはいなかった」


「私もその夢を見ている。同じだ。だが、ほとんどの者は曖昧な印象しか持たない。蛇のシンボルだけが記憶に残る程度。君のように、詳細を語れる者はいなかった」


「剛志。君は私と同じくらい、“意志”を受け取っている」


剛志は眉をひそめる。「意志を……受け取る?」


「その夢を見て、君はどう感じた?」


「不気味で、不快で……でも、あいつらに負けたくなかった。あんな奴らと一緒にされたくない。ただ、それが“誰”なのかは、わからない」


鬼塚の口元がわずかに動いた。「そうか。それは当然だ。特定の誰かなど、いないのだから」


「……何を言ってるんだ?」


「──あれは、“人”そのものだよ」


沈黙が落ちた。


鬼塚は言葉を選ぶように、ひとつひとつ丁寧に口にした。


「私は確信している。あのバケモノは、人間の内側にある“無自覚な悪意”の具現化だ。そして私は、それを──“消し去る”」


鬼塚は、言葉を吐きながら興奮を隠せない様子だった。口調こそ静かだったが、その声の奥には熱があった。こんなにもはっきりと“同じ夢”を語れる相手など、自分の他にいなかった。初めて現れた自分を理解できるかもしれない存在──。


「消し去る? お前の目的は“救済”じゃなかったのか?」剛志はまだ追いついてこない。


鬼塚は鼻で笑った。その嘲りの笑みは一瞬にして場の空気を塗り替える。静けさにひびが入り、そこから滴るように狂気と怒気が滲み出すようだった。


「あんなもの、ただの小道具だ。教義なんて、信者を操るために作った道具にすぎない。俺がやりたいのは──"あいつ"をもてあそんだ無責任な人間どもを、この手でぶっ殺すことだ」


その瞬間、鬼塚の瞳が鋭く細まり、ただならぬ気配が全身から立ち上った。空気が一変し、まるで真冬の吹雪が吹き込んだかのような冷気が部屋を満たしていく。露骨な殺気が剥き出しとなり、これまでの鬼塚とはまるで違う雰囲気を放つ。


「あいつ」とは誰なのか──鬼塚の内に焼きつくように存在する、その影の正体は剛志には掴めなかった。だが、その口調と激情の深さから、鬼塚の憎悪が個人的な喪失から生まれたことは明白だった。


しかしそれを聞いた剛志は抑えきれぬ怒りを覚えた。翔太の死は教団の教義でもなんでもなく、目の前のこの男の個人的な願望の結果だったのだ。胸の奥で何かが爆ぜるような感覚とともに、言葉が絞り出される。目は真っすぐに鬼塚を見据え、その瞳には揺るがぬ意思が宿っていた。低く、しかし芯の通った声が空気を裂いた。「……ふざけるな」


「そんな理由で、翔太を殺すよう仕向けたのか? お前にとって翔太は他人だ。関係ないだろ。なのに勝手に踏み込んで、命を弄んで……それが、お前が忌み嫌う“人間”とどう違うっていうんだ。お前こそ、自分が蔑んできた存在そのものじゃねぇか。……自分を棚に上げるなよ、鬼塚」


「ふん、やつらとは違う。俺は無自覚なんかじゃない。すべてを理解したうえで、自分の意志で殺している。逃げず、目を逸らさず、自分の手で裁いてきた。──俺は、あんな醜悪な連中とは違うんだ」


「違う!お前は、自分の憤りから目を逸らして“人”のせいにしてるだけだ!本当は、自分の中に渦巻いてる後悔や怒りを処理できずに、それをあちこちにぶつけてるだけじゃないか!」


「なんだと……?」


鬼塚の声が低く、重く響いた。その眼光には静かな怒りが宿り、先ほどまでの理知的な雰囲気が徐々に剥がれ落ちていく。頬がぴくりと震え、拳がゆっくりと握りしめられる。


彼の全身から、張り詰めた殺気がじわりと滲み出した。


「お前の過去は知らない。でも、お前は自分の後悔から逃げてる。きっと、大切な誰かを無自覚な悪意によって失ったんだろう。その痛みを直視できずに、全部“人”のせいにして正当化してる。けど、俺は違う。翔太を守れなかった。それは俺の責任だ。犯人は憎い。お前のことも許せない。でも、一番憎いのは自分だ。だからこそ俺は、誰かにその責任を押しつけたりはしない。──お前とは、違うんだ」


「なっ……!」


鬼塚が言葉を詰まらせ、ほんのわずかだが後ずさった。剛志の言葉は、怒りにまかせてぶつけられた言葉ではあったが、鬼塚の心の奥に突き刺さった。それは鬼塚が認めたくない真実に触れていた証拠でもあった。


「何が分かるってんだ!何も知らないくせに、勝手なこと抜かすな!」

鬼塚の声は怒りと混乱で震えていた。


「俺は悪くねぇ……俺のせいじゃねぇんだよ……! どうしようもなかったんだ……!」


言葉は次第に叫びから呟きへと変わっていく。


「……あいつらが悪いんだ。俺のせいじゃない。全部、やつらのせいだ……」


感情を抑えきれなくなったように、鬼塚は乱れた息で言葉を続けた。


「だから、俺が消すんだ……あの夢が教えてくれた……あれが答えだったんだ……! あの夢が、くすぶってた気持ちに決着をつけさせてくれたんだよ……!」


鬼塚の目は焦点を失い、どこか別の世界を見つめていた。


「俺がやるしかない……俺がやらなきゃ、誰がやる……やっぱり、人間は……醜いんだよ……!」


「……かもしれない。でも、それでも俺は、お前とは違う道を選ぶ。俺は逃げない。自分の後悔を誰かのせいにはしない。そして真実を見つけ出して、決着をつける。それが、俺の生き方だ!」


「ッ....!くそう!あぁイライラする...!お前のような人間....!認められるかぁ!」


鬼塚が怒声とともに内ポケットに手を突っ込み、銀色の拳銃を抜き放った。その動きは荒々しくも迷いがなく、一瞬のうちに剛志へと照準を定める。銃口が剛志の胸元に向けられ、場の空気が凍りついた。


「死ねぇ!」


鬼塚の指が、トリガーにかかったままじわじわと締まり始めた。引き金の感触を確かめるように、そして迷いなく圧を加えていく。彼の目にはもはや理性の光はなく、あるのはただ、憎悪と破壊衝動の塊だけだった。


ダァーーーン!


銃声が空間を切り裂いた瞬間、剛志は目をつぶるほどの衝撃音とともに身をすくめた。だが、痛みは来なかった。


静寂ののち、鬼塚の額の中央にぽっかりと穴が開いていた。眉間を正確に撃ち抜かれた彼の体が、糸が切れたように崩れ、後ろへと倒れていった。重い音とともに床に横たわるその姿は、もはや恐れも憎しみも宿してはいなかった。


振り返ると、志村が両手で拳銃を構えたまま静止していた。銃口はまだ鬼塚の倒れた場所に向けられており、その銃口からは細く白い煙が立ち上っていた。志村の表情は硬く、瞳の奥には怒りとも悲しみともつかない複雑な感情が浮かんでいた。


「大丈夫か」


志村の低い声が響く。その背後には、拳銃を手に警戒を解かぬ田口、周囲を鋭く見渡す風間、そして捜査チームの面々が静かに立ち尽くしていた。全員が緊張の残滓を引きずりながらも、剛志の無事を確認しようとする視線を注いでいた。


剛志は呼吸を整えながら、震える声で返す。「……はい。ありがとうございます」


その言葉には、鬼塚との激しい対峙を終えた直後の疲労と安堵が滲んでいた。


ヒドラの教祖鬼塚は、ここに倒れた。

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