第4章 ヒドラ :4-8 聖地
薄暮が街を包み始めるなか、その五階建ての建物は、まるで都市空間のノイズから隔絶された異物のように、静かに佇んでいた。周囲には不自然なほど何も存在せず、空き地でも駐車場でもない“空白”がぽっかりと広がっている。都市部でありながら、まるで他の建物たちがこのビルの存在を避け、遠慮しているかのような異様な空間構成だった。建築的にはごく平凡な構造を持ちながらも、その場に立った者の胸に否応なく広がるのは、得体の知れない緊張と不安だった。久保田探偵事務所の一行は、言葉を交わすこともなく、その不穏な建物を見上げていた。
「ここが……“聖地”なのか」
剛志の低く漏らした言葉には、疑問と覚悟が入り混じっていた。目の前の建物は見た目こそ普通の都市型ビルだが、看板もなく、照明も落ちたまま、人の気配すら感じられない。まるでこの一角だけ、都市のリズムから切り離されているような奇妙さがあった。
見た目だけでは“聖地”とは思えない。だがこの静けさと空気の重さは、確かに何か特別な意味を持っているように感じられた。ここが、物語の核心へとつながる場所であることを、剛志は直感的に理解していた。
彩音が手元の端末を操作しつつ、周囲を確認した。「用途はずっと“空きビル”のまま。登記情報は更新されてないのに、税金はきっちり支払われてる。妙に手がかかってるというか……整いすぎてる」
「表向きは放置されているのに、内部は管理されている……ってわけね」
久保田が顔をしかめながら建物を見上げた。「気を引き締めましょう。ここが本当に“ヒドラの聖地”なら、油断は命取りになるわ」
神崎は無言のまま、バッグから小型のLEDライトを取り出した。その仕草にも、無駄のない緊張がにじむ。一同の表情には、言葉では形容しがたい覚悟が張り詰めていた。
意外なことに、入口の扉には鍵がかかっていなかった。ゆっくりと音もなく開いたその扉は、まるであらかじめ誰かが通ることを予想していたかのようだった。さらに、1階へと続く自動ドアもすぐに作動し、何の抵抗もなく彼らを中へと招き入れた。
誰もいないはずの建物が、まるで来訪者を待っていたかのように反応する。その無人の“もてなし”が、かえって不気味さを際立たせていた。剛志たちの胸には、歓迎されているのではなく、監視されているような妙な緊張が走った。
1階の内部は、広く、そして異様に静かだった。古びた受付カウンター、掲示物ひとつない掲示板、椅子もないロビー。だが、そこには埃の一粒すら存在せず、空間は不気味なほど清潔に保たれていた。その“整えられた空虚”こそが、むしろ意図的な演出のように映った。
2階、3階、4階へと階段を上がるたびに、彼らは同様の光景を目にすることとなった。部屋は確かに存在する。扉も、間取りも。しかし、その内部には家具も備品も一切存在しなかった。生活の痕跡は完全に消され、建物全体が“空間としての純度”を高めているかのようだった。
「……何もないって、こんなに怖いものだったっけ」
彩音の言葉が、空虚なフロアに吸い込まれるように消えていく。
剛志は、ただ“無”が広がるこの建物に、逆説的な意図を感じ取っていた。これは単なる放置ではない。誰かが、徹底的に“排除”と“整理”を行ったのだ。目的は不明だが、空間全体が強い意志を語っているようだった。
「ここまで徹底しているなんて……やっぱり異常ね」久保田が小さく呟いた。
「まだ上がある」神崎の低い声が、その場を引き締めた。
そして、一行は最上階──5階へと到達する。
階段を上がった先には、たった一つの扉があった。無機質な金属製で、表札や番号も存在しない。まるでこの空間が、記号的な“部屋”ですらないことを主張するかのようだった。
「いきましょう」剛志はゆっくりと息を吐き、前へと一歩踏み出した。
ノブに手をかける。掌に伝わるのは、冷たい金属の感触と、わずかな湿り気。手汗か、それとも扉自体が何かを滲ませているのか、判断がつかない。
深く息を吸い、剛志は扉を押し開けた。
そこに広がっていたのは、これまでとは明らかに異なる“空間”だった。
照度を抑えた間接照明のもと、部屋全体がやわらかな陰影に包まれていた。木製の床には緋色のカーペットが敷かれ、壁際には重厚な書棚が整然と並んでいる。中央のローテーブルには、陶器の茶器が丁寧に配置され、急須からは湯気が静かに立ち上っていた。
空間全体に漂うのは、香のような、ハーブのような、言語化し難い芳香。時間の感覚が鈍り、現実性がゆらぐような錯覚に襲われる。
そして──
その最奥に、男が立っていた。
長身で痩躯、年齢は四十代半ば。整えられた口ひげと、肩まで伸びたウェーブのかかった長髪が印象的だった。ゆったりとしたシャツにカーゴパンツという服装は、一見してカジュアルで、意外なほど柔らかな雰囲気をまとっている。だがその着こなしには、どこか計算された意図も感じられ、決してだらしなさはなかった。
表情は穏やかで、悟ったような静けさと、すべてを見通しているかのような落ち着いた眼差しをたたえていた。
「ようこそ」
その一言には、歓迎とも皮肉ともつかぬ含意が込められていた。
鬼塚──彼は、剛志たちを迎え入れるように静かに微笑んでいた。その姿は、まるで観客が全員揃うのを待ち望んでいた劇作家のようであり、同時に幕を引こうとする演出家のようでもあった。
これがヒドラという狂信的な教団の“長”だとするならば、その印象はあまりにも穏やかすぎる。剛志たちは、目の前の人物が本当に“鬼塚”なのかと戸惑いすら覚えるほどだった。
「……で、何しに来たのかな?」
その一言で、空気が凍りついた。穏やかだった眼差しからは一瞬にして温度が消え、氷のような鋭さが剥き出しになる。表情も服装も変わらないのに、まるで別人のような圧力がその場に満ちた。場を支配するのに言葉も動作も必要ない。ただその存在だけで、一同の呼吸を止めさせるほどの迫力だった。
その瞬間、誰もが直感した。
この空間、この人物、そしてこの瞬間こそが、物語の“核心”であるということを。
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