第50話 シャチは拳に思いを乗せて

 僕の拳は昇にしっかりと入っている。ジャッジの人達が得点を入れているはずだ。でも、同じくらい昇の攻撃も僕に入っている。今のところ五分五分……。


 ――フェイントを打って、もう一度ボディーを打ち抜く……。


 僕は決定打を放つため、左拳を昇の顔目掛けて打ち込んだ。だが、その瞬間を待っていたとばかりに、昇の右拳が僕の左腕を押し上げるように放たれ、左面に勢いよく打ち込まれた。その瞬間、あまりの衝撃を受け、視界がブラックアウトし、微かに残っていた意識が途絶える。


 僕が倒れているのか、立っているのかも理解できず、音のしない世界で孤独感を受け止めていた。息が出来ず沈んでいく鯱はそのまま死んでしまうだろう。自分がどこにいるかもわからず、仲間の声も聞こえず、死ぬときは地球最強の生物も孤独を感じるに違いない。

 このまま、何もしなければどれだけ楽だろうか。辛くなく痛くもなく、長い静寂……。


『私はボクシングが好きだよ。見ていると勇気がもらえるもん』


 そんな文字が暗い意識の中で浮かび上がって来た。ボクシングを捨ててでも助けたいと思った大切な人が教えてくれた本質。

 僕は見ている人に勇気を与えられただろうか。ここであきらめて、気持ちが届くだろうか。

 吐き気と眩暈に襲われ、体に力を入れるのもままならない。


 今頃、自分が倒れていると認識して足を震わせながら立ち上がろうとする。鯱だって、ただ沈むだけじゃないはずだ。尾びれを動かして上か下かもわからない海の中で息するために賢明に生きようとするはずだ。


 僕は立ち上がりレフェリーに戦える意思があると判断してもらえた。それでも、僕の意識は未だに暗い海の中にある。このまま戦ったら確実に負ける。もう一度ダウンを奪われ、時間も過ぎ、完全な敗北を叩きつけられる。

 それでもここで戦わないわけにはいかない。


『ボクシングは復讐のためじゃなくて魂をぶつけ合うスポーツなんだ』と教えてくれた鮫島さんの思いも僕は背負っている。僕は、昇に魂の籠った拳の一発を未だに打っていない。


 目の前から永遠と生え変わる数百本の鋭い歯と真っ赤な口内を見せてくる巨大な鮫が迫ってくるかのような威圧感を全身で受け止める。

 きっと昇が勝負を決めに来たんだろう。最後に立てただけでも偉い、彼は強かった、このまま潔く負けを認めてもいいかもしれない。でも、生憎、僕もボクサーの端くれ。ボクサーはほぼ全員といっていいほど負けず嫌いな生き物だ。


 動物が同種と戦うのは自分の強さを見せるため、縄張りや仲間を守るため、好きな女を得るため。そんな心理が遺伝子に深く深く刻まれている。

 ――女の子の前で、情けない所を見せられるか……。

 そう思っても、体がピクリとも動かない。あと少しで海面に出て息が吸えそうなのに、弱っている部分を見計らって食らいついてくる鮫の攻撃の方が先に迫っていた。


「成虎君! がんばれぇええええええええええええええええええええええええええっ!」


 暗い海の中でベルーガのような透き通った声が鈍っていた耳を劈き、脳内に直接入ってくる。ここまではっきりとした声を聴いた覚えは一切無かった。けれど声質からして彼女以外ありえなかった。きっと他の人も僕を応援してくれていただろう。だが、彼女の声が他の声よりもより鮮明に聞こえた。


 魂の叫びが僕の心を震わせてくる。呼応するように息を深く吸った。脈動と共に全身の血が沸き立ち、毛細血管を通って手足に血が通っていく。

 会場全体を包み込むような透き通る大声に気を取られたのか、昇の拳に一瞬でも迷いが生れていた。悪に手を染めてまで勝ちたがっていたのに最後の最後、詰めの甘さを見せてくれた。

 昇の懇親の左ストレートをほぼノーガードで躱し、右拳で彼のボディを狙う。


 昇は当たり前のように腕を引き、腹を守るためにガードを下げ、顔を見せた。彼は戦っている途中に僕が顔を殴れないと感づいたのだろう。一切の迷いいなく腹を守ってくれた。


 僕はその場からさらに一歩前に踏み込んだ。そのまま、打ち出していた右腕を勢いよく引き、力を溜めていた左拳を勢いよく突き伸ばす。僕の左拳は相手を壊してしまうほど強力で、凶器のように危険極まりない。けれど、和利さんのおかげで気づいた。僕の左拳は相手の魂を揺さぶる拳なんだと。


 ――はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!


 心の中で叫びながら咥えているマウスピースを嚙み千切ってしまいそうなほど力を溜めに溜めた左拳を昇の顔目掛けて打ち込んだ。

 相手を倒すのではなく魂をぶつけるんだと言う気持ちで振りかぶるとほんの少しだけ体の硬直が弱まり、ほぼノーガードだった昇の顔に左拳が直撃した。


 和利さんの顔を殴った時と同じように嫌な感触を受ける。『お前は間違っていたんだ、ボクシングは怒りをぶつけ合わせる競技じゃない。魂をぶつける熱いスポーツなんだ』と、彼に言いたい気持ちを拳に乗せ、彼の脳に気持ちを直接突っ込む思いで振り切った。


「あぁ……、ああぁ……」


 渾身の一撃を食らった昇は腰が抜けて後方にふんぞり返り、リング上に大の字になって倒れ込む。そのままレフェリーのカウントを受ける。鼻から血を流している姿が少々痛々しい。目を上下左右に揺れている状況を見るに脳が完全に揺れてしまっている。互いにダウンを一つずつ奪った。ここで昇が立てば今までの得点で勝負となるだろう。だが……、

 レフェリーのテンカウントが終わっても昇は立ち上がれなかった。静かだった世界はちゃぶ台をひっくり返したのかと思うほどドッと湧き上がり、試合会場が拍手に包まれる。


 ずっと酸欠で意識が飛びそうなのであまり大きな声を出さないでほしいのだけれど、この拍手は聞いておかないといけないなと思い直し、棒立ちになって息を深く吸った。

 僕は昇の手首を取り、立ってもらう。人を殴って嫌な感触はあったが、どこかが折れたような嫌な音は無かった。きっと怪我は負っていないはずだ。


 昇は立ち上がり、僕は汗だくの彼を抱きしめて試合してくれて感謝の意を見せる。だが、軽く突っぱねられた。

 昇が何を思っているのかわからなかった。彼はすぐに鼻血の治療に取り掛かる。真面に動けない様子だったが、和利さんがすぐに駆けつけて来た。


 治療を終えた昇がリング上に戻ってきた後、レフェリーが僕たちの手首を持って、僕の左腕を持ち上げる。再度拍手が送られ、僕は昇に勝てたんだと実感した。


 会長のところまで戻ると体が拉げそうになるほど抱きしめられ、鬼の目にも涙と言うことわざを思い出しながら彼女の温もりを受け取る。

 防具とグローブを会長に戻し、汗が滝のように流れているので投げ入れる寸前だったと言う白いタオルを掛けてくれた。


 僕がリングを出ると次の者達の試合が始まる。県大会なので、世界選手権のような盛り上がりはないけれど仲間内の皆は、泣いている様子だった。近くで応援を送ってくれていた愛龍の抱き着き攻撃と感極まっている状態なのか、頬に熱烈なキッスをくれた。いや、まだ、一回戦を突破しただけなんだけれど。仲間内は、僕が県大会で優勝したかのような盛り上がり。他の人もいるのだから、まだわからないのに。


「うぅー、成虎、いつもカッコよかったけど、今日は一段とカッコよかったよぉ~」


 愛龍の泣き顔が会長とそっくりで、血のつながりを感じた。それに、彼女が薄着なので上裸の僕にとっては肌に直接柔らかさが伝わって来てしまう。試合していたので体が熱い。彼女の体も同じくらい熱かった。手に汗握ってくれたのかもしれない。


「もう、ダウンした時はどうなるかと思ったんだから……。立ち上がっても腕を上げないし、あのまま殴られるんじゃないかって心配したんだからねっ!」


 愛龍は泣きながら盛大に怒ってくる。その顔もまた会長に似ており少し笑ってしまいそうになった。けれど、彼女の心配度合はしっかりと伝わったので軽く抱きしめて謝罪する。

 その後、和利さんに肩を借りて歩いている昇が僕の方を見たが、何も言わず背中を向けて控室に戻っていく。彼に僕の魂が届いてればいいのだけれど……。

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