第51話 成虎と芽生

 僕と愛龍の一回戦が終わり、今日の試合はもう無い。そのため、そのほかの選手を見て研究しておく。昇より実力のある者は同じ階級にいない様子だった。だからといって油断するつもりはない。

 でも、先ほど昇に左拳を打ち込めたのは彼に伝えたい気持ちがあったからだ。他の者達に左拳を打ち込める気がしない。


 男子ミドル級の試合が終わった後、選手たちは解散となる。控室で乾いた体操服に着替えた後、階段を使って上階に行く。

 観客席に入れる扉が数枚見える広い通路に出た。通路で待っていたのか、階段を上り切って真っ先に飛びついてきたのはプリン頭の少女だった。


「え、えっと……。君は桃澤さんの妹さんだったの?」

「わ、私もびっくりしました。U・Sさんがお姉ちゃんの同級生で、クラスメイトだったなんて。これはもう、私達、運命の赤い糸で結ばれちゃっていますよっ~!」


 桃澤さんの妹は僕に抱き着きながら飛び跳ね、短くなった髪を靡かせていた。


「今さらだけど、僕の名前は海原成虎。よろしく」

「わ、私の名前は桃澤舞です! えっと、えっと、け、結婚前提で付き合ってください!」


 舞ちゃんは便箋を僕に差し出しながらいきなり求婚してきた。


「ま、舞、い、いきなり過ぎるよ……」


 その背後から桃澤さんが舞ちゃんの口を押えるようにして苦笑いを浮かべている。というか、桃澤さんの声が小さいながらも出ていた。

 その姿に唖然としている僕の方に桃澤さんの大きな双眸が向けられる。少し長めの髪を耳に掛けると頬だけではなく外耳まで赤く染まっており、熱って見えた。


 桃澤さんは息を深く吸い、口を開ける。すると……、


「海原君、おめでとう。勇気、貰い過ぎちゃった。今も、手が汗まみれだよ……」


 桃澤さんは手の平を見せてくる。汗でじっとりと濡れており窓から差し込んでくるオレンジ色の光を反射させていた。


「そっか。届いたんだ。よかった」


 僕の一つの大きな目標がしっかりと達成出来ていて肩の荷が下りたような気分だった。

 けれど、そうか……。桃澤さんはもう喋れるようになったんだ。なら、僕と桃澤さんの繋がりはあと少しで終わり。

 来週の日曜日、合唱部の県大会が終われば、僕たちの関係は前に戻るのだろう。少し寂しいけれど、それでいいんだ。


「桃澤さんの心の叫びが物凄く鮮明に聞こえた。あれが無かったら、僕は勝てていなかったと思う。本当にありがとう。あと、おめでとう。桃澤さんは昔の自分に打ち勝てたんだ」


 桃澤さんは瞳に涙を浮かべ瞬きと頷く動作が合わさって鉛のように重そうな一粒の涙が頬に流れる。ずっと声が出なかった状態から少しでも脱却できたのなら、もの凄い進歩だ。


「桃澤さん、えっと。舞ちゃんも桃澤と言う苗字だし、怜央君も桃澤と言う苗字だから、その、万亀雄と同じように名前で呼ばせてほしい」

「う、うん。じゃあ、私も成虎君って呼ぶね……」


 芽生さんに名前で呼ばれると身がぞくりと震えた。なんだろう、芽生さんの声が良すぎるのだろうか。声を聴くと鼓膜を擽られるような感覚に陥る。この声で歌ったらそりゃあ綺麗に聞こえるだろうなと優に想像できた。


「私も、私も成虎さんって呼びます! じゃあじゃあ、勝った記念に一枚!」


 舞ちゃんは僕をかがませ、首に抱き着きながら携帯電話の内側カメラを向けてくる。その瞬間、プニっと柔らかい何かが頬に当てられ、シャッター音が連続する。

 ボクサーの反射神経でも、さすがにカメラの連射機能に勝てず、一秒で飛びのいても舞ちゃんの持つ携帯電話の画面に頬にキスしている彼女とピースしている僕が写っていた。


「えへへ~、既成事実を手に入れました。これで、成虎さんを脅せますね~」


 近くにいた芽生さんが「舞っ!」と叫びながら携帯電話を奪い取り、写真フォルダに入れられている連射された写真を全て削除してくれた。


「ちぇ~、ちょっとした冗談だったのに~」


 冗談にしてはものすごくやる気満々の顔に見えたのは僕だけだろうか。でも、むやみやたらに男の人にキスしていたら、多くの男の人が困惑してしまう。ここは大人らしく注意しておかないと。


「頭の悪い男は可愛い舞ちゃんにキスされたら好意を持たれているかもしれないって思っちゃうから、むやみに男の人にキスしたら駄目だよ。本当に好きな相手にしておかないとまた悪い男に引っかかるかもしれないからね」


 僕が舞ちゃんの頭に手を置いて真剣に話したのだが、彼女は茹でられたタコのように真っ赤になる。今さらになってキスしたのが恥ずかしくなったのかな。

 芽生さんの方を見ると、口角が少し上がり、表情が引きつっていた。


 僕と愛龍は会長の、芽生さんたちは卯花さんの車に乗って牛鬼ボクシングジムに戻った。

 万亀雄から激励の言葉を貰い、ありがたく思っていると背後に現れた会長が万亀雄の首根っこを掴んだ。


「万亀雄、今日は一緒に風呂でも入ろうか」

「か、会長、そ、そんなことしたら俺、ど、どうにかなっちまう」

「おうおう、なんだー。私の体でも見て興奮するくらい男になったのか~?」


 万亀雄は初恋の会長にニタニタと笑われながら風呂場に連れていかれ、百回くらいお尻ぺんぺんの刑にあっていた。一回でも、痔になりそうな強烈な一撃なのに百回も食らったら多分気絶する。万亀雄の耐久力が高い理由は過去に会長や卯花さんからのお仕置きを何度も受けていたからだと推測している。あながち間違いじゃないだろう。


「芽生の家族も一緒にお風呂に入って行ってよ。寮のお風呂、結構広いから皆で入れるよ。なんなら、晩御飯も一緒に食べよう!」


 愛龍が桃澤家の人達に声をかけると桃澤家の人達は戸惑っていたが、卯花さんも腕によりをかけて夕食を作ると息巻いている姿を見て、皆、半泣きになりながら頷いた。涙もろい家系なのかな。

 芽生さんや舞ちゃん、両者の母親がいる中、僕はお風呂に入れるわけがなかった。同じく、怜央君も思春期で入れない。お尻ぺんぺんの刑を執行され、泡を吹いて気絶している万亀雄は半裸で風呂場に捨てられているところを愛龍に蹴飛ばされて脱衣所で倒れている。


 僕と怜央君は食道の料理場で卯花さんと一緒に料理の手伝いに回った。

 料理場にいても風呂場から芽生さんと思われる綺麗な歌声が聞こえた。少々聞き入ってしまいボーっとしていると、僕の体が卯花さんに当たってしまった。

 「きゃっ!」と言う甲高い声と共に卯花さんが反対方向に倒れ、僕は抱きかかえようと手を伸ばす。反対方向にいた怜央君も卯花さんを支え、事なきを得た。


「そ、そんな、だ、駄目よ、二人で私を抱きしめるなんて……。わ、私には大切な夫が」


 卯花さんは昼ドラ愛観者なのか、こういう場面になるといつもボケてくる。

 調理場の扉が開くと額に静脈を浮かべた万亀雄がやって来て抱きしめている卯花さんを彼が抱きしめた。そのまま「母さんは俺だけの母さんだ!」とマザコン発言を叫び、卯花さんを盛大に喜ばせ、頬に沢山キスされていた。

 ただ、万亀雄は自分の発言が恥ずかしすぎたのか、顔を真っ赤にしていく。


 夕食の準備がある程度できた頃、女性達がホカホカになって食堂にやって来た。

 僕と怜央君、万亀雄もお風呂に入り体を洗って食堂に戻る。大量の料理が並べられており、瓶ビールがポンポンと開けられていく。宴会ムード満載で、後片付けが面倒臭くなるなと思いながら雰囲気を楽しんだ。


「芽生さん、明日から朝に一緒に走らない?」


 芽生さんはから揚げを口にパンパンに詰め込んで、喉に詰まらせそうにした後、大きく頷き了承してくれた。どうやら、彼女も一人より二人の方が走りやすいと思ってくれていたらしい。


「芽生さんの合唱も絶対に上手くいくよ。さっきの歌、凄く上手だった。もし、また声が出なくなっても大丈夫。僕がまた勇気を送るから」

「うん、私、後一週間しかないけど、今までの時間を取り戻すくらい頑張る!」


 口の中にパンパンに入っていたから揚げを全てのみ込んだ芽生さんは力強い声で宣言していた。

 今の姿だけ見れば、今まで声が出ていなかったなんて考えられないほど流暢だ。家族の前だと話せると教えてくれた。ブランクはあまりないのかもしれない。

 僕と愛龍の二人で桃澤家の皆を家に無事送りとどけ、寮に戻った。

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