第49話 シャチ対サメ
「成虎、相手も左利きだ。ストレートの威力は兄以上だろう。もろに食らったら一発でKOの可能性がある。気を引き締めていけ」
会長は僕の肩や腕を持ち、骨が軋みそうなくらい力を入れてくる。その後、背後から優しく抱きしめてきた。
じんわりと暖かい熱が体に籠り、とても心地よかった。けれど、背中を手の跡が残りそうなくらい強くひっぱたかれ、涙が出そうになる。
気持を引き締めた僕はリングの上に上った。他の場所よりも高く、審判の男性と赤色の防具を身に着けている昇がよく見える。高い観客席に私立高校の関係者と思われる人々が多く座っていた。そんな中、両手を振って立ち上がった黒髪と金髪が合わさったプリン頭の少女が見えた。その隣に桃澤さんも座っている。
――あの子、桃澤さんの妹だったのか。じゃあ、怜央君の双子の姉ってことになる。世間は狭いなぁ……。
僕と昇は向かい合い、レフェリーのファイトと言う合図のもと、第一ラウンド開始の合図であるゴングの甲高い音が汗と熱気に湿った空間に響き渡る。
僕と昇は拳を突き合わせ、戦う前の軽い挨拶を交わした。その後、バックステップで距離を取り、昇の出方を窺う。昇も同じ考えなのか拳を顔付近まで上げながら足踏みし、リング上の感覚を確かめていた。
長い間、停滞しているわけにもいかない。先に攻撃した方が得点を貰いやすくなる。だが、昇の「かかってこいよ……」という何とも挑発じみた雰囲気から、何かしら考えを持っていると悟る。
――でも、攻める!
僕はマウスピースを噛み締めながら先に仕掛け、昇と距離を詰める。頭を軽く振り、フェイントを掛けながら鼻から息を深く吸いこみ、左拳を昇の頭目掛けて打ち込む。当てる気はなく相手に攻撃を打たせたいためのブラフだ。昇は僕が頭を殴れないと知らないはず。もしかすると初戦で彼に当たれたのは運がよかったのかもしれない。僕が頭を殴れないと知れば、昇の猛攻に耐えられた自信がない。
昇は兄の体を壊した左拳を警戒し、体を大きく反らせる。だが、すぐに体勢を整え、長い左腕を引き、顔に打ち込んでくる。
僕は頭を傾けて回避した後、開いている右腹目掛けて左拳のボディーブロウを打ち込んだ。グローブ越しから伝わってくる昇の腹筋の硬さとさらに奥側にある内臓の柔らかい感触、不良たちの多くを静めて来た人間の急所に鈍く鋭い刺激が全身を襲うはずだ。
ボディーブロウを食らった昇は歯を食いしばっていたが「ぐっ!」と喉をつぶされたような声を漏らし、すぐに後退して足踏みしながら呼吸を整え始める。
額や体から、脂汗をじんわりと掻き始め体が激痛によって反応している様子が見て取れた。だが、不適な笑みを浮かべ、ちらりと見えるマウスピースに照明の光が反射する。
攻撃を受けた直後、昇は僕に向って走り込んでくる。左拳を顏目掛けて打ち込もうとしていたのだろうが右肩付近に当たった。
その瞬間、金づちで右肩付近を思いっきり叩かれたのかと思うほどの激痛が走る。万亀雄と不良たちの攻撃を体で受けていた部位だったのか、鈍く熱い痛みが脈拍と連動するように流れてくる。
右腕を上げているだけでも傷が痛み、ガードするのが厳しい状況だ。でも、今はまだ意識を保ち、周りの音も聞きながら戦えている。
最も大きい音は昇が通っている私立高校のボクシング部の部員たちが彼を応援している声。
リングを移動している間に時々聞こえる会長の猛々しい声。
観客席から飛ぶ声援もまだ聞こえていた。
ただ、二分が経過し一ラウンドが終わると、普段以上にダメージが体に蓄積していると察する。
軽い寝不足と深夜の喧嘩で追った肩や胴体の傷への偶然とは思えない攻撃が思った以上に体を蝕んでいた。
インターバルは一分、疲労困憊の状態だと、ほんの一〇秒程度にしか感じられない。
アマチュアの試合は三ラウンドまで。あと二ラウンドで勝ち負けが決まる。一ラウンドは二分しかないため、探り合いはこれ以上起こらないだろう。
「成虎、相手のペースに持っていかれるな! こっちから攻めろ! 体力がなくなる前にポイントを稼ぐんだ!」
会長は僕が咥えていたマウスピースを外し、スポーツ飲料を飲ませてきた。顔の出血は得点に関係してくるので、すぐに治療される。
けれど、昇の攻撃は顔に当たっていないので出血はなさそうだ。水分補給と会長からのアドバイスを貰っただけで休憩時間は終わり、第二ラウンドが開始される。
僕と昇は互いに駆け出した。先手を取って流れを掴みたい。そのために質の高い拳を打ち込みたい。
僕は観客席から試合を見ているであろう桃澤さんに、少しでも勇気を与えるため、厳しい中でも積極的にボディーを狙った。
対する昇は僕の腕が下がり始めたのを良いことに、顔を狙い始めてきた。疲労による視界の揺れや掠れの影響で拳を完璧に躱すのが難しくなってくる。
いくらボディーに拳を打ち込んだところで、頭部への攻撃を受けていなければ根性で耐えるのは不可能じゃない。
それこそ勝ちへの執着心と僕を倒すためだけにボクシングを練習し、悪に手を染めたのだから腹に何発攻撃を食らっても耐えてやるという雰囲気が昇の拳からひしひしと伝わってくる。
僕が出来るのは昇の腹部を狙った攻撃と頭部を殴ると見せかけるフェイトくらい。
鯱は母親から食べて良い物や狩りの仕方などを教わる。そのため、母親から教わっていない食べ物や狩りはしない。けれど、もし、それが出来なくなってしまったら鯱はどうなるんだろうか。考えなくてもわかる。広大な大海原で何も食べられずひたすら沈んでいくだけだろう。真っ暗な世界で息継ぎの方法も忘れてしまうかもしれない。
意識が暗い空間に沈み始めた僕は、ボクシングシューズの裏面のゴムがリング上に擦れる感触と無駄に早い鼓動しか感じられなくなっていた。
なんなら、それも次第に感じられなくなっていく。昇の気配だけを感じ取り、攻撃を食らう前に相手に攻撃を加えてやろうという猛獣のような考えが本能のまま働き、体を動かしている。
「成虎! 息を吸え! 攻めすぎだ!」
誰かの大きな声が聞こえたような気がするものの、水の中にいるかのような籠った声で何を言っているのか上手く聞き取れない。
第二ラウンド終了のゴングが鳴ったのか、それすら理解できなくなって来た頃、体が止まる。レフェリーが僕と昇の間に入って、止めてくれたらしい。
息を吸って脈が妙にうるさく感じる聴覚の中、汗で滲む視界で会長のいる場所まで歩く。
僕の顔に出血があったのか、会長はワセリンを使ってすぐに止血してくれた。
口を開いて何かを喋っている会長の声も籠っていて聞き取りづらい。体が痛いし、息もしずらいし、ボクシングなんて何が楽しいのか、なんでボクシングなんてしているのか。信念があったはずなのに、何も考えられないくらい疲労が蓄積している。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
昇はただ一点を見つめ、集中力を高め続けているようだ。やはり、和利さんの弟なだけあって一筋縄で勝たせてもらえそうにない。
二ラウンド目のインターバルは体感一秒程度。残り二分で、試合の勝敗が決まる。
昇は三ラウンド目も変わらぬ鋭い拳を顏目掛けて打ち込んでくる。一度ならず、二度、三度と拳は僕の顔目掛け飛んでくる。常人なら腰が引けて尻餅をついてしまいそうな速度と威圧感。
リングの上で倒れたらダウンを取られてしまい一点減らされる。けれど、その後の展開が良ければ問題ない。ただ、すでに三ラウンド目。この場でダウンしたら残り時間から考えて点を取り返すのが難しくなる。
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