第48話 サメのお願い

 試合前、運営側が抽選で対戦相手を決める。僕の試合相手は今日一番戦いたくなかった鮫島昇だった……。

 コンディション最悪の時に、一番の強敵だと思われる相手。だが、抽選で決まったのなら仕方がない。そう思い、女子の試合を見ていた。愛龍はあまりにも容易く一回戦を突破した。やはり、彼女はボクシングをするために生まれてきたのだろう。

 試合が続く中、僕はある男性に話しかけられる。


「海原君……、君に何と言って謝ったらいいのだろうか……」


 悔しそうな顔を浮かべていたのは、鮫島昇の兄、鮫島和利さんだった。

 僕と和利さんは競技場から最も遠いトイレに移動した。当たり前のように、誰もいない。僕の目の前で鮫島さんが頭を下げる。


「ちょ、ちょっと、鮫島さん、どうしたんですか。頭を上げてください」

「昇はしてはならない不正を働いた。あいつはボクサーの風上にも置けない……」


 鮫島さんは歯を食いしばり、鋭い目つきをさらに吊り上げて怒りを露にしていた。


「昇は不良を使って海原君を痛み付けさせた。加えて、コンディションが最悪な君を狙うために運営に君と初戦で戦いたいと申し出た……。まさか通るなんて……」


 鮫島さんが何を言っているのかよくわからなかった。睡眠不足のせいではないだろう。昇が不良を使って僕を痛み付けたという点が謎だ。そんなことをする必要があるのか?

 昇は正々堂々と戦いたいんじゃなかったのだろうか。堅実的な姿を動画で見ていたので、和利さんの話を上手く理解できなかった。


「昇は海原君に勝ちたい欲望が強すぎた……。家に真っ赤な髪の藻屑高校の生徒が泣き込んできて昇がしたことを全て話してくれた。昇に『陸の鯱』という男をできるだけ痛み付けるように言われていたそうだ。『陸の鯱』がだれかわからなかったが特徴と高校名、ボロボロの海原君を見たら理解したよ」


 昇と鯛平が繋がっていて僕を落とし入れようとしていた……。両者とも、僕に恨みを持っていたのが共通点だろうか。

 互いの利害が一致し、手を結んだ流れだろう。自分の弟が、悪質な行為に手を染めてしまったのが物凄くやるせない気持ちなのか、鮫島さんは僕の肩に手を置いて悔しそうに泣きながらお願いしてくる。


「海原君、昇を完膚なきまでに叩きのめしてほしい。すでにボロボロで、俺のせいでトラウマを背負っている君にこんなことを言うのは恥も承知だ。だが、悪に手を染めてしまった弟に鉄槌を下せるとすれば、君しかいない。昇はすでに犯罪者も同然だ。不良を殴れるのなら、昇も殴れるはずだ」


 以前、鮫島さんからお願いされた内容と全く違う内容で、鮫島さんのボクシング愛がひしひしと伝わってきた。

 加えて彼の愛してやまないボクシングを愚弄している自分の弟に対しての怒りも、はっきりと伝わってきた。

 ここまでボクシングを愛している男からボクシングを奪ってしまった僕は、あまりにも重い罪を背負っている。きっと、昇は悪に手を染めるほど僕が憎いに違いない。倒すべき目標だった兄を奪い、兄からボクシングを奪った僕をどうしても倒したいのだろう。


「鮫島さん、僕は他人を罰するなんて権利は持っていません。なんなら、ボクシングや拳は悪人に鉄槌を下すための道具じゃない。だから、今回の鮫島さんのお願いは受け入れられません。それは、僕が大好きなボクシングへの冒涜ですから」

「海原君……」

「以前、鮫島さんは『俺の弟の目を覚まさせてくれないか。ボクシングは復讐のためじゃなくて魂をぶつけ合うスポーツなんだ。俺が愛してやまないボクシングをあいつに叩き込んでほしい』と言いました。僕はそれを鮫島昇に拳で伝えてこようと思います」


 僕が言い切ると、鮫島さんは目を丸くして顔から覇気が消えた。眼頭を押さえ、彼は僕の肩を強く叩く。青じみに響くからやめてほしいのだけれど、どこか熱がこもっていた。


「俺はバカだった……。昇にボクシングは復習の道具じゃないと伝えようとしておきながら、ボクシングで昇に鉄槌を下そうなんて、ほぼ同じ意味じゃないか」


 鮫島さんは顔を上げ、泣きながら満面の笑みを浮かべている。情緒不安定過ぎないかと思ったが、それだけ気持ちが籠っているのだろう。


「俺は海原君と戦えて幸せ者だ。俺と同じくらいボクシングを愛している君と戦えたことは俺の誇りだ。願わくば、俺は君ともう一度試合がしたい」

「鮫島さんが望むなら、僕は戦います。だから……、またリング上に戻って来てください。体の麻痺をリハビリで克服して僕ともう一度戦ってください。その時までに、僕もトラウマを克服して、あなたともう一度本気で戦います」

「ああ、約束だ。必ず、またリングで会おう。かなうなら、日本一を懸けて」


 僕と鮫島さんは拳を突き合わせ、再戦を誓い合った。彼から、ボクシングの辛さを教えてもらった。けれど、ボクシングが出来るありがたみや、懸ける思いの強さも教えてもらった。一度しか戦った覚えはないけれど、拳を合わせた相手であり、再戦を誓った好敵手でもある。これだけ熱い兄を持っておきながら、悪に手を染めるなんて鮫島昇は誰を見ていたんだ……。


 試合会場に戻ると、観客席の下側にある空間で試合を見ていた愛龍が近づいてきた。


「遅かったわね、何してたの?」


 僕は「ちょっと、男臭い約束をして来た」と伝え「なにそれ、意味わからん」と返される。そう言われるだろうなと思っていた。男は男の友情があって、女には女の友情がある。

 理解されるかされないかは問題ではない、自分自身が納得していれば、それでいい。


「私の試合、どうだった……」


 愛龍はやけに距離を詰めながら訊いてきた。肩が腕の側面に押し当てられ視線が肌に刺さってしまいそうな距離。そんなに近づく必要があるのかと思いながら僕は答える。


「いつもの愛龍の戦いで安心した。凄くカッコよかったよ」


 僕が褒めると愛龍は「えへへ……、そうかな~」と呟き、猫のように体を伸ばしながら全体で喜んでいるように見えた。叱られるよりも褒められた方が伸びるタイプ。まあ、叱るような部分はほとんどない。このまま行けば、またインターハイでも優勝しそうだ。


「でも、成虎の一回戦目の相手が鮫島昇なんてついてないね。今日当たらなければ難なく勝てたかもしれないのに」

「鮫島昇を相手にして難なく勝てる日は無いよ。彼は誰よりも勝ちたい欲望が強い人間なんだ。でも、ボクシングは勝利が全てじゃないと理解していないらしい」

「誰だって勝ちたいでしょ。負けるためにボクシングをする人はいないよ」


 愛龍の言葉はもっともだ。でも、負けた悔しさからさらに強くなろうと努力出来る。スポーツのすべてが勝ち負けにしか興味を示されないのならば全て賭博みたいなものじゃないか。スポーツは勝っても負けても人によって受け取り方が違い、良くも悪くも作用する。まさしく心を揺さぶる戦いだ。

 数多く存在するスポーツの中で、ボクシングほど相手を痛み付け、同じく痛み付けられるスポーツがあるだろうか。

 相手を殴るなんて敏感な日本人のほとんどが野蛮すぎると言うかもしれない。でも、人間が猿のような進化前の状態でも、殴り合いの戦いをしていたはずだ。

 相手を倒すため、縄張りや女を守るため、強さを証明するため、理由は様々だが、遺伝子に組み込まれた人間の闘争心は何万年経とうと消えずに残り続けている。だからこそ、人の魂を揺さぶるボクシングという競技は廃れずに残り続けている。

 愛龍と話ていると、僕の名前が呼ばれた。どうやら、そろそろ試合らしい。


「じゃあ、愛龍、行ってくるよ」

「うん、頑張って。成虎なら勝てるよ。成虎が勝ったら、ほっぺたにチュウしてあげる」


 愛龍は自分で言って恥ずかしくなったのか、頬を赤らめながら僕の背中を殴り気合いを忠魂してくる。肺から空気が一気に抜けそうになったが、堪えてリングに向けて走った。

 薄手の上着を脱ぎ上裸になって頭と胸を守る青い防具を身に着け、反対側にいる昇を見る。彼は、赤い防具を身に着けていた。

 はたして、僕は昇からどういうふうに見えているんだろうか。倒したい宿敵、越えたい壁、ねじ伏せたい糞野郎。どれにしても、僕は彼の本心を全て理解できない。けれど、拳を交えれば、それなりにわかるはずだ。

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