第46話 ベルーガ視点一一
私は万亀雄君に締め落とされ、意識を失っていた。
目を覚ますと卑猥な恰好で身動きが取れなくなっていた。多くの不良から気持ち悪い視線を送られる。かつての父のような視線。
万亀雄君と以前、私と愛龍ちゃんに話かけてきた赤髪の不良が話合っていた。「『陸の鯱』をこいつで呼べる」や「俺が体力を削ったところで数で倒せ」と、万亀雄君は赤髪の不良に商談話しているようだった。
そこで、気づいた。私は彼に利用されていたんだと……。
でも、なんで私なのか理解できなかった。どこかで聞いた覚えがある『陸の鯱』という名前。愛龍ちゃんや舞、怜央の口から時おり聞こえていた異名。
いったい誰のことを言っていたのかわからない。不良たちが大人数で倒したい相手と考えると、不良たちから相当嫌われているらしい。
正義感の強い人なのかもしれない。もしかしたら助けてもらえるかも……、でも、一人と何十人が相手じゃ、勝てる訳がない。
私はこのままどうなってしまうのかと、不安で仕方がなかった。それでも、この情けない姿が私を表している。
広い海で泳いでいたのに捕まえられてストレスから声が出なくなってしまったベルーガの如く、横たわっている。水族館で多くの者からじろじろ見られる魚たちの気持ちが少しだけわかった……。
気が付いてから三〇分も経たずして、一人の青年が汗だくになりながら走ってきた。最初、私は恐怖のあまり、すでに放心状態になっていて誰かわからなかった。恐怖から体を守る防御反応が働いていた。そんな時、万亀雄君に頬を叩かれ意識がはっきりする。
そこにいたのは海原君だった。
海原君と万亀雄君が力強く話合い、そのまま殴り合いが始まった。でも、万亀雄君が海原君を殴っているだけ。あまりにも一方的な戦いだった。
私と愛龍ちゃんを守ってくれた時も、海原君は牛鬼ボクシングジムに戻って来た時、ボロボロだった。
愛龍ちゃんが言っていた気がする。海原君はリングの上以外で人を殴らないと会長さんに約束しているんだと……。破ったら、どうなるかくらい会長さんの威圧感から察せる。
海原君にとってボクシングは何よりも大切なものなはず。大切な繋がりなはず。
愛龍ちゃんや会長さん、その他の者達を結んでいる本当に大切な繋がり。私の歌なんかよりもずっとずっと彼にとって必要なはず。なのに……、
『大切な人を見捨てるくらいなら、僕はボクシングを捨てる!』
海原君の言葉を聞いた瞬間、心臓をショットガンで打ち抜かれてしまったような衝撃が全身を駆け巡った。卑猥な結び方のせいかもしれない。体の熱が経験した覚えもないほど上昇し、心臓に耳を澄ませなくても脈動が大きすぎて心拍がすぐにわかってしまう。
海原君はそこから反撃を開始し、万亀雄君に膝をつかせた。顔を殴れていないけれど、それでも素人の目から見て彼はボクシングするために生まれて来た存在だと悟ってしまう。
わかってしまった瞬間、身の熱が痺れへと変わり電撃を受けたかのような衝撃が巡る。私なんかのために海原君がボクシングを捨てるなんて、あっていいわけがない。
万亀雄君もしぶとくて海原君と笑いながら拳を打ち合っていた。もう「止めて!」と何度叫ぼうとしても声が出ない。時間が経つたびに傷が増えていく海原君を見たくない。
眼を瞑りたくても瞑れなくてずっと見開いていた。ドライアイになりそうもないくらい涙があふれ出ている。
寒くもないのに唇が震えて仕方がない。今、心から気持ちを叫び出したい。それが出来ない自分が心底嫌になる。
海原君達の戦いの裏で怜央が私と赤髪の不良の間に立った。まだ、中学二年生の弟が、一八〇センチメートルは超える赤髪の不良に立ち向かっていったのだ。何度も殴られ蹴られ、倒れているのにすぐ立ち上がる。怜央の姿はまさしく元父に殴られても立ち上がっていた母のそれ……。
怜央の頑丈強さは母の遺伝に違いない。不良になってしまったのは悪いことだけれど、怜央のすべてが元父からの影響じゃないんだと実感できた。彼の優しさも母親譲り。今まで、元父の面影ばかり見て来たが、今、守ってくれているのは優しい母の血を受け継いだ弟なんだと優にわかる。
今の彼となら、面と向かって話せる。もう、怖がったりしない。だから、もう無茶しないでと……声に出したくても出来ないもどかしさ。奥歯が割れるんじゃないかと思うくらい噛み締めて、自分の無力さを呪った。
怜央と赤髪の不良が戦っている最中。海原君と、万亀雄君が横並びになって藻屑高校の生徒達のもとに向っていく。藻屑高校の生徒は二人の威圧感に押され、後方にたじろいでいた。その姿が二頭の鯱に恐れる魚の群れのよう。
海原君と万亀雄君の後ろ姿が頼もしすぎた……。藻屑高校の不良たちと海原君たちが殴り合いを始め、私の体は怜央に持ち上げられて河川敷の端へと移動させられる。
海原君と万亀雄君の拳が不良たちをなぎ倒して行く姿は圧巻で、拳や蹴りを躱しながら正確に相手の急所目掛けて拳を放っている。こんな光景、見た覚えが無い。
怜央が私を置いてまた戦いに行ってしまう。どうして、男の子たちはこんなに野蛮なんだ……。もっとお淑やかにおままごととかしていてよと、思っても不可能なのはわかっている。
男は本能から戦いが好きなのだ。だからか、ほとんどの者が笑みを浮かべている。海原君だけ、息苦しそうな表情だった。あんなに息苦しそうな顔を見たのは初めてで、リング以外で人を殴るのが本当に嫌なんだろうなと、ひしひしと伝わってきた。
ほんの数十分、雄叫びが響き渡る中、怜央が赤髪の不良を倒した。あの場で叫べたらどれだけ気分がよくなったことだろうか、そう思ってしまう私は少し野蛮か。
海原君と万亀雄君も全ての不良をなぎ倒し、赤髪の男を軽く脅迫していた。その後、私のもとに傷だらけの海原君がやってくる。
私は今すぐ抱き着こうとしたが、彼は視線を反らし頬と耳を赤らめていた。改めて自分の姿を思い出した。あの時、血液が沸騰していたに違いない。
海原君が手足の縄を解いてくれて、動けるようになった後、迷いなく彼に飛びついて泣いた。その間、彼は私の背中や頭を優しく撫でてくれた……。温かくて優しくて、汗まみれなのに物凄く良い匂いがする。彼の心臓の音が私と同じくらい早くて、無性に心が躍った。
離れたくても離れられず、ずっと抱き着いていたい気持ちが強すぎた。キスしたい気持ちをぐっと堪え、彼に抱き着くだけで我慢する。そうしないと、歯止めが利かなくなってしまいそうだった。女の本能が完全に目覚めてしまっているところを実の弟に見られ、我に返る。すぐに海原君から離れ、怜央を叱りつけ、万亀雄君に鬱憤のすべてをぶつけた。私はずるい女だ……。
いつの間にか、海原君がグローブを川に投げ捨てようとしていた。すぐさま止めさせて愛龍ちゃんにメッセージを送る。会長さんに事情を話せばわかってもらえると思ったのだ。万亀雄君が全部悪い。そう言えば、海原君はボクシングを辞めないで済むはずだと……。
でも、律儀なのか、頑固なのか、海原君は自分の意思で人を殴ったんだと言い、田舎の祖父の家に帰ると言い始めた。彼と会えなくなると思うだけで熱かった体は凍り、思考が止まる。
ただ、会長さんのげんこつ一発で不問となった。
私は愛龍ちゃんの部屋で寝ることになり、海原君と玲央がお風呂に入った後、私もお風呂に入った。脱衣所で服を着替えて愛龍ちゃんの部屋に連れていかれる。彼女の持っている壁一面を覆いつくすトロフィーと盾の数より、ぬいぐるみの数に圧倒されながらベッドの上で横になって話し合った。
愛理ちゃんから「私ね、成虎にお試しで付き合ってみないって言ったの」と聞かされた時は、口から心臓が飛び出しそうになった。でも、愛龍ちゃんの口調からして上手くいかなかったとすぐにわかる。
「私、成虎のこと、ものすごく好きみたい……。気心知れた仲だし、簡単に付き合えると思っていた私がおバカだった。超恥ずかしい」
愛龍ちゃんは苦笑いを浮かべ、やっと自分の気持ちに気づいたっぽい。それが二週間ほど前だというのだから、私がどれだけ彼女から目を反らしてきたのかがわかってしまう。
私は最も怖い体験を通し、自分の気持ちがはっきりした。その点に関しては万亀雄君に感謝する。部屋の明りを付けて、紙にマッキーペンで書き殴る。
『愛理ちゃんは私の大親友だけど、今日から恋のライバルだよ』
「……芽生。ふっ、超燃えるじゃん。相手にとって不足なし。私にとっての大親友が、最大最強のライバルになるなんてね。でも、芽生が相手だからって私は手加減しないから」
『望むところ』
今まで、愛龍ちゃんに遠慮して自分の気持ちをないがしろにしてきた。でも、自分の本当の気持ちに気づいてしまったのだ。加えて、親友の愛龍ちゃんにも譲りたくないと思ってしまうほど私にとって大きな気持ちだった。
だから、私は愛龍ちゃんに向って宣戦布告した。きっと彼女も私の伝え方で大方理解しただろう。これで、恨みっこなし。横取りも不意打ちも関係なく、真正面からの殴り合い。
こんなに正々堂々と伝えることじゃないのかもしれないけれど、彼女と親友であり続けるためにこうするのが一番だと考えた結果だ。
拳と拳をぶつけ合わせ、私と愛龍ちゃんの間でゴングが鳴り響いた。
絶対に負けたくない、勝ちたい、愛龍ちゃんを倒したい、という気持ちになった経験は一度もない。もちろん本気で拳と拳で戦ったら愛龍ちゃんに負けてしまうに決まっている。
でも、海原君の幼馴染の彼女にも私が勝てる可能性はあるはずだ。初めから諦めていたら試合にならない。
私と愛龍ちゃんは軽く微笑みながら、ベッドに寝ころび一緒に眠った。
海原君と愛龍ちゃんの県大会当日、ジムで出された朝食に驚きながらも、お腹いっぱい食し、いったん家に帰る。
「あっ! 怜央っ! お姉ちゃん! もう、昨日、どこに行っていたの!」
家に入るや否や、朝食を準備していたエプロン姿の舞が怒り口調で現れる。
「舞、その……。この前は、殴ろうとしてごめん!」
怜央は舞に向って大声を出し、頭を下げるが「は? きっも!」と一瞬でどつかれ、顔を顰めさせていた。
「舞、今日は一緒にボクシングを見に行かない?」
「ボクシング? えぇ……、私、ボクシング嫌い。だって糞野郎が好きだったんだよ。なんで、私達がそんな殴り合いを見ないといけないの。私は行かなーい」
元父がいた頃、ボクシングの試合の中継中は誰にも危害を加えなかった。けれど、自分の好きな選手が負けたり、イライラし始めると飲酒の影響もあって暴れ出していた。きっと舞のボクシングのイメージは最悪だろう。私だって実のところあまり好きじゃなかった。
でも、一度だけボクシングの試合を見に行った覚えがある。しかも、案外最近。
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