第40話 シャチとタイとベルーガ
僕の手を振り払い、桃澤さんは走り去っていった。
今日は土曜日。僕は休みだったが、体を動かしていないと気が休まらず、ウォーキングして気分を静めていた。
桃澤さんを見つけて話しかけたが、彼女は気分が悪そうだった。追いかけるか追いかけないか迷ったが、彼女の顔から『話しかけないで』と言う拒絶の感情がにじみ出ていた。
なのに本心じゃないような、変わった表情だった。まるで仮面を被っているような顔だ。
二週間、顔をまともに合わせていなかったから嫌われてしまったか、はたまた僕の眼が悪くなってしまったのかもしれない。眼は虫の羽ばたきもはっきりと見えるくらい良い方なんだけどな。
――でも、桃澤さんが仮面を被るほど辛い状況なのはわかった。僕のやることは変わらない。明日、鮫島昇に勝って桃澤さんを笑顔にして見せる。
ただ、僕は未だに相手の顔が殴れなかった。
深呼吸からの攻撃は様になって来たが、やはり人が相手だと体が委縮してしまう。実際、一回戦を突破できるかすら、あやしい。でも、口から出た真と言うことわざもあるし、僕は桃澤さんの頑張りを褒め、勝利宣言した。一度も振り返ってくれなかったが、声は届いているはずだ。
寮に戻って夕食の準備に取り掛かろうと思ったら、食堂のキッチンで卯花さんがすでに料理を作っていた。今日は休みのはずなのに……。
「明日、成虎君と愛龍ちゃんの県大会があるでしょ。もう、応援しないわけないじゃない。今日の夕食と明日の朝ご飯。昼食も任せておいて!」
卯花さんは小さなグーサインを作り、満面の笑みを浮かべていた。凄く頼りがいのある笑顔で、僕も笑う。
食堂の椅子に座ってボーっとしていると隣の席に愛龍が座って来た。
「ねえ、成虎。最近、芽生の様子、変じゃない?」
「僕たちに配慮してくれているみたいだけど……」
「にしては、そっけなさすぎる気がするんだけど……。まあ、明日、私達の勝利を見せてあげれば元気が出るか!」
「そうだよ。明日、最高の試合を桃澤さんに見せて、元気になってもらおう」
僕たちは卯花さん特性の親子丼をお腹の中にかき込み、体力をつけた。
大会前は皆でお風呂に入ると言う謎の儀式が行われ、僕も参加させられた。儀式内容は言わないが、本当に死にたい気分だった。
午後九時にベッドに入り、メッセージを確認。一通もメッセージは送られてこなかった。すぐに眠り、朝に目を覚ます予定だった。
だが、午後一一時三〇分ごろ。万亀雄から連絡が入った。電話は僕を起こすための目覚ましの役割を果たし、彼の声を聴く前に切れる。
教えた覚えもない藻屑高校の鯛平から通知がいくつも入っていた。それを見た瞬間、自分の目を疑い、夢かもしれないと思ったが現実だと知ると血の気が引いた。
桃澤さんの体にいくつも縄がめぐらされており、手首、足首はもちろん、万亀雄が貸してくれていた卑猥な本に登場する女性がされていた亀甲縛りと言う方法で、拘束されていた。裸じゃないので幸いだが、なぜ桃澤さんが鯛平に捕まっているのか謎で仕方がなかった。
『よお、久しぶりだなー。俺様といっちょやりあおうぜ……。無視するなら、この女が多くの不良に輪姦されると思ったほうがいい。いやぁ、胸と尻に油が乗って美味そうな女だ』
『拳にバンテージを巻き、グローブを持って大橋の河川敷まで来てもらおうか。もちろん一人で。警察に通報したらこの女は監禁して頭がおかしくなるまで滅茶苦茶にしてやるよ』
『午後一二時までに来なければ、女の服を少しずつ切っていくぜー』
僕は時計の時刻を見る。午後一一時三五分。大橋の河川敷まで、そう遠くない。県大会用にしっかりと手入れしていたグローブとバンテージを握りしめ、ランニングシューズを履いて部屋を飛び出していた。
「はぁ、はぁ、はぁ……。なんで、桃澤さんが鯛平に捕まっているんだ。たまたま……、なわけが無いよな。鯛平と桃澤さんは一度しかあった覚えがないはず。適当な女の子よりも確実に僕を釣るために桃澤さんを使うなんて。いったい誰が……」
いったい誰がなんて考える必要もないほど、鯛平に手を貸した人物の姿が脳裏にはっきりと浮かび上がっていた。でも、考えたくなかった。
その相手は僕の大切な親友で、一緒に苦難を何度も乗り越えて来た大切な存在。彼に最も信頼を寄せていたし、何度も頼って来た。愛龍同様に本当のきょうだいみたいな感覚で、不良だけど曲がったことが嫌いな正義感溢れる男だ。そんな彼が小悪党に手を貸したなんて考えたくなかった。
僕は走りながらバンテージを巻き、桃澤さんを取り返しに河川敷に向った。
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