第39話 ベルーガ視点一〇

 次の日から一人で頑張ろうと思って午前五時に起きるために携帯電話の目覚ましをかけて眠る。

 時間通りに起きて、外を見ると雨が降っていた。

 雨の日でも傘を差すか、カッパを着て走れる。でも、海原君は家の前に当然いなかった。雲に覆われた空が真っ黒に見えて、嵐の海のよう。

 海の中に一人で飛び込むのは、あまりにも恐ろしい。こんな天気でも海原君がいれば、全く怖くない。逆に他の人と滅多にすれ違わないので、ずっと二人きりになれたはずだ。


 まだ日が差していない薄暗い街が魔境に思えて足がすくむ。もうすぐ日の出なので、走っている途中に少しは明るくなるはず。一歩踏み出せば行けた。

 でも、悪魔が「明日、頑張ればいいよ」と囁いてきた。一歩……下がってしまい、古びた鉄製の扉をゆっくりと閉める。

 結局、その日は雨だったから仕方ないと言い訳して晴れの日は絶対に走りに行くと決める。

 学校に行って合唱部の練習に参加。だが、妙に気合いが入らない。頑張ろうと言ったのは嘘だったのか? 嘘をつくなんて、悪い人。私は悪い人なんかじゃない。


「芽生、今の部分どうだった?」


 音楽室で合唱部の皆が歌っていた……はず。

 今日の朝、走れなかったなと自己嫌悪に陥っていて何も耳に入っていなかった。問題点や良い点を書くはずだったノートは、雪のようにまっさら。同じように私の頭も白飛びしたかのようにまっさらになっている。

 そのせいで、喋れなくなってしまった原因と思われる去年参加した全国大会の光景が一瞬でフラッシュバックする。


 通っている陸海高校が創立してから合唱部が初めて全国に行けた年だった。県大会の時は完璧に歌えたのに、全国大会の会場でステージに立って歌おうとしたら、頭が完全に真っ白になっていた。

 昔からよくあった。元父が母を殴っている時は頭を真っ白にして何も考えないようにしていた。いつの間にか、極度の緊張状態と元父の恐怖が合わさった瞬間、頭が真っ白になって何も考えずに済むようになった。電流が流れすぎて壊れないようにするための安全装置みたいな、心の防衛本能だったのだろう。


 全国大会の時、元父はすでにいないのに、極度の緊張が引き金になって歌詞が頭から飛んだ。死にかけの魚みたいな口パクになってしまった。

 歌が上手いとか、期待しているとか、初めての全国大会とか、褒め言葉を掛けられていたのも、極度の緊張に繋がったのかもしれない。


 頭を振り、部長に『すみません、聞けてませんでした』と伝える。部長はあからさまに顔を顰めた。明らかに私が悪い。

 次はちゃんと聞いてメモを取る。ずっと集中し続けて家に帰って来たら、もう、ヘトヘト。

 走りに行く気力もない。勉強や料理する気力も落ちていた。でも、頑張ると決めたから、嘘つく子は悪い子だから、勉強と発声練習をこなす。

 料理を作り、疲れが溜まっているんだと思って早く寝る。生理のせいかもしれないと、走れなかった原因を私以外の要因に擦り付けていた。


 結局、次の日も朝に走れなかった。晴れていたけれど、生理で血が出たら大変だと思い、行けなかった。部活が休みだからいつもより早く帰って過ごす。


 愛龍ちゃんは「顔色が悪かったけど、体調が悪いの? もしかして女の子の日?」と心配してくれた。生理だったからかな「ほっておいてよ」と返したくなってしまった。

 愛龍ちゃんは海原君とイチャイチャして楽しそうにしていたのに、なんで私だけと、自分で思い返すと全く関係のない所で怒っていた。

 勝手に心の中で嫉妬して八つ当たりしているだけ。愛龍ちゃんは何も悪くないのに自分だけ不幸な人間面ばかり。もう、嫌になる……。


 最近は自己嫌悪に陥るなんて、ほとんどなかったのに……。ネガティブになりやすい母の遺伝か、切れやすい元父の遺伝か、はたまた、それを全て遺伝のせいだと思ってしまっている私の貧弱な精神のせいか……。


 私が気分を落ち込ませている間、時間は止まってくれない。どんどん流れていく。

 舞は中学校にすっかり慣れてしまった。コミュ力が高いのかもしれない。

 私の生理はとっくに終わって体調が良いはずなのに、朝、走れていない。勉強しようとか、発声練習しようとか、言訳を考えていたらいつの間にか一週間が過ぎていた。


 海原君と愛龍ちゃんの県大会は今週の日曜日……。合唱部の県大会は再来週の日曜日。

 海原君と愛龍ちゃんは以前より厳しい練習をこなしているのか、毎日ボロボロ。でも、笑みがこぼれており調子は良さそう。

 逆に私は喉も痛くないのに笑えなくなっていた。私一人じゃ、何も出来ないんじゃないかと部活に行く時が毎回怖くなってしまって、無理やり行っても頭が真っ白になる回数だけが増えていく。


 愛龍ちゃんと海原君の距離感が気になって仕方がないし、未だに万亀雄君が何を考えているのか教えてくれない。怜央は帰りたくないと言っているらしい。

 そりゃ、家に帰っても口うるさい双子の姉と、暗すぎる姉、弱々しい母と言う居場所が無い状態だもんな。帰って来たくなくなるよね……。


 六月二二日までの二週間ほど、私は何をしていたのだろうか……。まったく覚えていない。

 ただ、一つだけ言えるのは海原君とずっと距離を置いていた。でも、今日で終わる。もう、明日は筆談しても良いんだと、なんなら、愛龍ちゃんのように抱き着いて頭をよしよししてもらおうと万亀雄君に文句を言われない。二週間の長い旅行から帰って来た飼い主に会うのが待ち遠しい犬の如く、早く明日になってほしいと思っていた。


「帰りなさい」


 私の前に、いつぞや見た部長の哀れみの表情。そこに、怒りが混ざり、はきはきとした声を私に突き着けてくる。

 朝、音楽室に来たところまでは覚えている。ただ、そこからの記憶が無い。ずっと早く今日が終わらないかなとだけ考えていた。ノートは真っ白、音楽室に入り込む陽光も真っ白、私の頭の中もベルーガの肌同様に真っ白……。


 部長は私の通学鞄に散らばっていた品を入れ、私の手首を掴み、無理やり立ち上がらせてくる。

 私は音楽室の外に出される。軽く押されただけで体勢を崩しスカートがめくりかえりそうなほど尻餅をついてしまった。

 分厚い金属製の扉から顔を少しだけ覗かせている部長が「もう、来なくていいから」と言う。


 重たい扉が世の中を拒絶するように力強く閉まると視界が滲む。二週間前から止まっている手書きのカレンダーが私の無能さを物語っていた。

 廊下に尻餅をついている自分の姿があまりにも情けなくて、すぐに立てない。眼から涙が溢れ出して止まらない。泣いたところで何も解決しないのに。ふらふらと立ち上がって、通学鞄を持って走り出した。


 靴を履いて校舎を飛び出して、正門を越え、海原君が毎回、登校で使っている大通りをひたすら走る。

 二週間真面に走っていなかったが、一ヶ月走っていたから、案外走れた。でも、すぐに息が上がって脚が止まりそうになった。

 でも、脚を動かして涙と鼻水を垂れ流しながら直走った。本当なら、アルバイトに行かないといけないのに初めてバックレてしまった。

 やっぱり、私も悪い人なんだ。母を蹴って殴って他の女を作って家を捨てたような男の血が流れている悪い女なんだ。怜央の言い分は正しかったんだ……。どれだけ頑張ってもしょせん悪い人の子どもは悪い子なんだなと、認めたくないが認めざるを得ない。

 舞が、彼女の好きな相手とうまくいくわけがないと否定したり、愛龍ちゃんと海原君の関係を変えさせようと策略したり、自分が良い思いをしようと企んだり、決めたことをちゃんと出来なかったり、愛龍ちゃんに嫉妬ばかりしてたり、母のためだと言いながら始めたアルバイトをバックレたり……、私は自分が大嫌いだ。


 明日から解放されるなんて、よく言えたものだ。自分一人じゃ何もできないくせに……。助けてもらってばかりで、何が「海原君も頑張って」だ。いったい何様のつもりだよ。


 胃が痙攣し嘔吐しそうなほど走って、思い出の河川敷までやって来た。ほとんど無意識だった。

 いつも海原君と一緒に走っていた道で一緒に頑張ろうと誓った場所。

 ここに来たら、少しでも海原君に近づいた気がして心が少しだけ柔らかいだ。でも、私は一ヶ月半前と何も変わっていなくて乾いた笑いが零れる。

 もう、あの大きな橋から川に飛び込んでしまおうかななんて、バカな考えまで浮かんでしまう。


 『歌は心の叫び』と海原君は言った。

 今の私の心は何と叫びたいんだろうか。それすらわからない。

 一年前からずっと心が空っぽのままなのかもしれない。だから、声が出ないんじゃないだろうか。一年生の時は心に何が入っていたんだろうか。何かしらの自信が入っていたのかもしれない。

 歌が上手いと言う自信だけで歌っていたのかも。歌えなくなって自信が無くなったら声が出せなくなって歌えなくなってしまった。

 こんな自己嫌悪になっているのに自信もくそも無い。叫びたい気持ちがあるはずなのに、それは心に入れちゃ駄目だと何度も拒否している大きくて熱い思い。

 入れたら歌えるかもしれない。声が出せるかもしれない。でも、それじゃあ、愛龍ちゃんと親友でいられなくなってしまう……。


 海原君の汗のにおい、くすぐったいくらい優しい声、月明りのように柔らかい笑顔、抱き締められたくなるがっしりとした男らしい体、自分が二週間何していたのか思い出せないのに、海原君のことなら簡単に思い出せた。

 逢いたい。また力強く抱きしめてほしい。全力で甘やかしてほしい。関節キッスとかもっといっぱいしたい。何なら、唇でもいい。愛龍ちゃんじゃなくて、私を選んでほしい。


 海原君のせいで日に日に強まる性欲と走りすぎて酸欠になった頭のせいで理性が弱まり、薄汚い願望が頭に浮かんでくる。

 海原君と愛龍ちゃんがいっしょにいた時間と比べたら、私と過ごした時間なんて瞬きの間程度だろう。それでも、私にとっては人生を大きく変えるほどの時間だった。長い短いなんて関係ない。この気持ちを私の空っぽの心に入れて今すぐ叫び出したい。でも……、


 私は年々膨らんでいく胸に手を当て、心臓を握り潰すように力を入れる。胸がパンパンに膨らんだ風船のように張り裂けてしまいそう。指が肉に食い込んで赤い跡が付いているかもしれない。

 胸をどれだけ押さえても心臓の音は鳴りやまなくて、息苦しくて、その場に蹲る。


「桃澤さん。大丈夫? 足がつったの? 一人で立てる?」


 まただ。私の目の前に現れたのは、ランニング中の海原君だった。二週間真面に筆談していなければ、メッセージのやり取りだってそっけなかったのに、話し掛けてくれた。こんな、ヒステリックな女に恐怖せず、普通の女の子と接するように……。


 今すぐ飛びついて泣き出したい。でも、それじゃあ、前と全く同じじゃないか。今、甘えたら絶対に同じことの繰り返しになってしまう。


 私は海原君の手を取らず、彼を弾き飛ばすように立ち上がって、また走った。

 あぁ、絶対嫌われた。せっかく手を差し伸べてくれていたのに、自分から切り離してしまった。今日が終わったら謝ろう……。

 二週間、そっけなくしてごめんなさいと、いや、そうじゃない。本気で頑張れなくてごめんなさいの方が正しい。一緒に決心したことを一人でこなせない、こんな私に海原君の試合を見に行く資格なんて無いんじゃないか。

 心の中でひたすら謝りながら、腕を大きく振って走った。

 もしかしたら追いかけて来てくれるかもしれない。そんな淡い考えがまだ浮かぶ……。ほんと、私はヘタレ雑魚野郎だ。

 そんな時、後方から海原君の優しいのに力強い声が聞こえた。


「桃澤さんは十分頑張ってるよっ! 僕、桃澤さんのために絶対に勝つからっ!」


 海原君の声を聴いた瞬間、涙を溜めているダムが崩壊し、とめどなく溢れ出て来た。

 家に帰って布団の中にくるまり、万亀雄君からの連絡があるまで待った……。もう、これ以上、私に私を嫌いにさせないで。これ以上、海原君を大好きにさせないで。


 万亀雄君から連絡が入ったのは午後一一時。あり得ないくらい遅い連絡だった。私は夜行性の生き物じゃないのに……。家を出ると制服を着崩した万亀雄君がいた。


『怜央から家の位置を訊いたの……』とメモパットに書いた文を万亀雄君に見せる。


「ああ、そうだ。じゃあ、ちょっとついてきてくれ」


 夜の万亀雄君は雰囲気が少し違った。外が暗いせいかもしれない。一人で歩けなかった暗い街は誰かといれば簡単に歩ける。


 やって来たのは先ほど情けない気持ちになった河川敷。大きな橋を通っている車のハイビームやロービーム、街灯が明るくて視界は良好だった。そのせいで、星が全く見えず趣もくそも無い。


「姉貴……」


 河川敷を歩いていたら背後から怜央の声が聞こえた。階段から上がって来たのだろう。すぐ駆け寄って抱きしめようとしたら、首に太い腕が回された。気管支は苦しくないのに、頸動脈を押さえられているからか頭に血が上らなくなって意識が途切れていく。怜央の顔が霧のようにぼやけて……、手を伸ばしても届きそうにない。

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