第41話 シャチとカメ

 車の騒音と川のせせらぎがあまりにも不協和音な河川敷にやってくると、まるで夜行性の魚かと思うほど大量に集まった藻屑高校の生徒達が拳を握りしめ、僕の姿を見て口角をにちゃりと上げている。

 その中に体がひときわ大きくて真っ赤に燃えるような赤髪の男がいた。着崩した制服、右手と左手に血がしみ込んだような赤いバンテージが巻かれており、手首の捻挫を防止している。グローブは持っておらず、桃澤さんから離れて立っていた。


 桃澤さんは意識があるみたいだが、体を縛られて真面に動けない様子。どこか、放心状態で〆られた魚のようにピクリとも動かない。元から傷心しているのに、そこにさらに大きな傷を与えるなんて……。


 胸の内側から溢れ出る憤怒が思考を止めさせ、あの群れに無理やり突っ込ませようとしてくる。でも、無意識で戦っては駄目だ。

 そもそも、僕は会長との約束がある。外で拳を振るってはならない。そうなれば、大会はおろかあの寮を出て行かないといけない。


「来たか……。ずいぶんと速い到着だな。『陸の鯱』」


 鯛平は腕を組み、僕を刺し殺すような視線でにらみつけて来た。そのまま、手を軽く上げてザワザワとしている仲間達を黙らせる。


「俺が初めにボコボコにしてやってもいいと思ったんだが……、お前をどうしても倒したいって言う男がいてな。そいつに一番をくれてやることにした」


 鯛平や藻屑高校の生徒が両側に寄り、中央を開けると僕が通っている高校と同じ制服を着崩し、黒色の整えられた短髪とバンテージが巻かれた硬そうな拳、僕よりも身長が高く足が長いスタイルの良い体型が露になる。

 明りが無くてもわかりそうなほど一緒にいた、明神万亀雄だった。


「万亀雄……、どうして、鯛平に……」


「どうして? そりゃあ、女を餌にして『陸の鯱』を釣るために決まっているだろう。俺がやっても効果は半減する。あいつらにやってもらえばシゲは必ず来ると思っていた」


「言ったはずだ……。桃澤さんは巻き込まないでほしいって」


「知るか。シゲを確実に釣るために使っただけだ。まあ、お前が倒れれば、あの女は雑魚どもに食い荒らされる結果になるだろうな。そんなこと、俺にとってはどうでもいいが」


「な、なんで……、万亀雄は桃澤さんと仲良くしていたじゃないか。彼女の笑顔を受けて、心が癒されたはずだ。一緒にいたら心が躍ったはずだ。心から守りたいと考えただろ!」


「ぷっ……、あははははっ!」


 万亀雄は僕の発言を聞いて、腹を抱えて笑っていた。あまりにも豪快に笑い、大きな声は夜の空に吸い込まれていく。


「俺から見たそいつの笑顔は醜かった。一緒にいるだけで疲れる。利用するために仲が良い振りをしていただけだ。全員が自分と同じように見えていると思うなよ、バカが」


 万亀雄は桃澤さんの近くにより、頬を軽く叩きながら話かけていた。


「おい、意識をほったらかしてんじゃねえ。ボーっとしてたら、見逃しちまうぞ」


 万亀雄が立ち上がると桃澤さんと目が合った気がする。遠目からでもわかるくらいボロボロと泣いており、自分の状態よりも僕の方を心配してくれているような優しい瞳が星のように輝いていた。


「時間制限無し。蹴る、絞める、関節技無し、全て拳だけ。勝ち負けはどっちかが立てなくなったらだ。もし、わざと倒れてみろ……、お前を殴り殺す」


「僕は……外で人を殴れない。会長と約束したんだ。もう、不良と拘わらないって……」


「じゃあ、シゲは何しに来たんだよ。あの女を何もしないでどうやって助けるって言うんだ? お前が何もしなければ、あの女はお前の目の前で輪姦されるんだぞ。その後、あの女は笑顔なんて一生できなくなるだろうな。一生、心を閉ざすかもしれない。お前は大切な女を見捨てるって言うのか?」


 万亀雄は拳を握りしめた。昔使っていたグローブを律儀に嵌め、学生服にグローブと言う何とも似合わない恰好になる。そのまま、四の五の言わずに殴りかかって来た。


 僕は両腕で万亀雄の拳を防ぐ。だが、僕が顔を殴れないとわかっているから万亀雄はほぼノーガード。息つく暇もない、拳の連打が押し寄せる。

 ときおり挟まれるボディーが体の内側にダメージとなって蓄積し、腹を庇いたくて腕が下がり始める。ただでさえ体格が違う相手からの攻撃、なんなら毎日毎日喧嘩してきた万亀雄の格闘センスは僕以上に光っている。彼なら、どんな格闘技でも上位に食い込めるほどの選手になれるだろう。蹴りや締め技、投げ技が使えないと言うのは、今となっては万亀雄だけの縛りだ。


 万亀雄は「おらっ!」と叫び、全身に力を籠めながら僕の左頬を右拳で打ち抜いた。

 僕の体が傾くほどの衝撃が走り、天地がひっくり返ったのかと思うほど視界がぐらつく。すでに腹筋に力を入れ過ぎて酸欠状態。息を吸わなければ立っていられない。


「はははっ! 良いぞ、良いぞ、もっとやり合え。ボコボコにしちまえ。さて、あいつらがやり合っている間に、俺は女で遊ぶか……」


 万亀雄の連打を食らっている中、腕と腕の隙間から鯛平が桃澤さんのもとに向っていくのが見えた。激痛が走る自分の体より桃澤さんが心配で仕方がない。


「ほらほら、良いのかよ……。あいつは待てすら出来ない犬以下の雑魚だぞ。このまま行けば、あの女は確実に汚されるな。脱がされて写真や映像を取られ、社会的に死ぬ」


「くっ。なんで、どうして……。僕はもう誰も傷つけたくないのに……」


「シゲ! 人生、舐めてんじゃねえぞっ!」


 万亀雄の硬く鋭く重い拳が僕の顔にまた打ち込まれ、僕の体がサンドバックのように吹っ飛び地面を二、三回転がって止まる。脳が揺れ、三半規管が狂い体が真面に動かない。


「誰も傷つけたくない? 違うだろ。お前は傷付きたくないだけの弱虫だ。周りは怪我招致で戦ってんだよ。勝ちたい負けたくない強くなりたい見返してやりたい、そう言う気持ちを持って戦ってんだ。何の信念も持ってないやつがボクシングなんかにしがみ付いてるんじゃねえ! それなら、大切な女にしがみ付いている方がよっぽぼましだボケ!」


 万亀雄は僕の胸ぐらをつかみ、無理やり立ち上がらせてくる。そのまま、腹と顔を数回連打され、口の中が切れたのか鉄のような血の味が広がっていった。

 万亀雄の顔は軽く泣きそうになっていて、彼のそんな顔を見たのは生まれてはじめてだ。


 鯛平は万亀雄のあまりにも激しい連打に軽く引いており、桃澤さんは体を捩らせて何かを叫んでいるのか、大泣きしながら僕の方を見つめていた。声は出ていないけれど「もうやめて」とか「逃げて」とか、そう言う優しい言葉なんだろうなと優に想像できる。


「これ以上、手間かけさせんじゃねえよっ! シゲの大バカ野郎っ!」


 万亀雄の鋭い拳が鳩尾に叩き込まれ、体の内側が破裂するんじゃないかと思うほどの激痛が走る。胃がひっくり返るような刺激が体を回り、息など出来るわけもなく眩暈と吐き気、意識の低迷が起こり、立っているなんて不可能だった。その場で倒れ込み、胃の中身を地面に吐き戻して溺れているかのような息のしづらさの中、無理やり空気を吸い込む。

 ぐらつく視界の中、下半身に無理やり力を入れて立ち上がる。ボクシングは何度も倒されたら負ける。でも喧嘩は何度倒されようとも、そのたびに起き上ればまだ負けじゃない。


「はぁ、はぁ、はぁ……。万亀雄は知らないかもしれないけれど……、僕は信念をもってボクシングしているんだ……。ごく最近のことだけれど……、やっと、僕が何のためにボクシングをするのかわかった。僕は見ている人を勇気づけるようなボクシングがしたい」


「なんだそりゃ……、意味わかんねえ。あんなもん見て、誰が勇気づくってんだ」


「正々堂々殴り合って勝負を決める。強敵相手にも果敢に攻めて殴られても痛み付けられても、攻め続ける。勝った方が目立つけれど負けた方だって多くの者の心に残っているはずだ。僕はそう思いたい。強い相手を倒せば、それだけ多くの者に勇気を与えられる」


「そいうのは、お前みたいな強者じゃなくて、弱者が言うようなセリフなんだよ……」


「僕は強くなんかないよ。会長から教わった技術を忠実に守っているだけ。でも、僕がリングに立つ日は、もう無い。大切な人を見捨てるくらいなら」


「僕は……ボクシングを捨てる!」


 拳を構え、足を無理やり動かす。体から力を抜いて腹式呼吸を深くしっかりと行う。


「やっとその気になったのかよ……。手間かけさせやがって……」


 万亀雄は怖い笑顔を作りながら僕に長い腕を使って拳を打ち込んでくる。


 僕は出来る限り躱し続けた。万亀雄の体力を削りに削って開いた右わき腹目掛けて左拳のボディーブロウを弾丸の如くぶち込んだ。グローブ越しから硬い触感が伝わってくる。何かしら仕込んであるらしい。鉄板かな……。


「つ! いってえなあ、おい。こちとら、板を仕込んでんだぞ。内側に響きすぎなんだよ」


 万亀雄は少し下がり、右腹を右手で少し抑える。

 僕はそのまま、前に出て息を吸ってから右拳を万亀雄の顔目掛けて放った。


「まじかっ!」


 万亀雄は僕に顔を殴られると錯覚したのか、両腕で顔をガードした。その瞬間を見計らい、一歩溜めた左拳を右わき腹に再度打ち込む。金属がミシミシと拉げているような感触が拳から腕を伝って脳まで届く。

 苦し紛れの万亀雄の拳が放たれるが、その拳も躱して左拳を右わき腹に打ち込む。


「ぐぅぅぅうぅぅぅぅ……」


 万亀雄はさすがに耐えきれなくなったのか腹を抱えるようにしてダウンした。喧嘩なら万亀雄の方が強いかもしれないが、ボクシングなら僕の方が強い。でも彼も喧嘩で負け無しと言うほど、我慢強い男だ。この程度で終わるなんて微塵も思っていない。


「たくよぉ……、こんな奴にボクシングで勝たなきゃいけないなんて、理不尽すぎるよな……。だが、お前には何が何でも勝ちたいんだよ……。愛龍に振りむいてもらうためにはなぁ。それが、絶対条件なんだよっ!」


 万亀雄は当たり前のように立ち上がり、殴り掛かってくる。防御が得意な彼らしからぬ連続攻撃で大きな隙だらけ。

 僕はボディーブロウを右わき腹に打ち込むが彼は歯を食いしばって拳を打ち込んでくる。カウンターのような重い一撃を食らい、体がよろめいた。

 周りの音が聞こえず、目の前にいる親友の姿だけがはっきりと映って見える。鬼気迫る顏とは違う。この一瞬を楽しんでいるかのような笑み。

 だが、桃澤さんを守りたいと言う僕の信念と僕を倒したいと言う万亀雄の信念のぶつかり合いなのだから、面白いわけがない。それでも親友と拳を合わせているこの瞬間は相手の感情が体に直接流れ込んできているのかと錯覚しそうなほど、満ち溢れた時間だった。

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