第36話 シャチとカメと少年

 午前二時、目を覚ましたあと新聞配達に向かう。来週はアルバイトを休ませてもらい、万全の体調を整えるつもりだ。でも、一週間前までしっかりと働かせてもらう。

 寮を出て新聞を発行している店に到着。バックに新聞を二三〇部ほど入れて街中を走った。


 いつもの河川敷を走っていると、大橋の下で何かこまごまと動いていた。車がハイビームを照射しながら大橋を通っているのに加え、街灯の明かりもあるので視界は明瞭だ。


 僕はいつの間にか、大橋のもとに向かって走っていた。


「おらっ! どうした、どうした! 強くなりたかったんじゃないのか~!」

「俺らの攻撃くらい、ちゃんと防がねえと鯛平先輩みたいになれないぜ~!」

「中坊の癖に、生意気なんだよっ! ション便臭い糞雑魚が!」


 着崩した制服、派手な髪色、耳にいくつものピアスを付けた藻屑高校の生徒三人と、生え際から黒髪が生え始めた金髪オールバック少年がいた。

 藻屑高校の生徒が少年を蹴り合うようにいたぶっている。

 見ていて気持ちが良い光景ではない。だが、少年は何度蹴られても起き上がり、拳を構えていた。

 高校生たちはそれが気に食わないのか、蹴ったり殴ったり、投げ飛ばしたり、関節技を決めたり、完全に力の加減を誤っているように見える。


 僕は手に持っていた携帯電話で警察を呼ぶ振りをして叫んだ。


「おい! なにしてる! 今、電話したから、もうすぐ警察が来るぞ!」


「ち……、めんどくせえことしやがって……。お前、警察に俺たちのこと、言うんじゃねえぞ。言ったら、二度と仲間に入れてやらねえ」

「警察なんかに頼ったら鯛平さんもがっかりするだろうなー」

「お前は一生負け犬の糞雑魚なんだよ。これに懲りたら母ちゃんのおっぱいでも吸ってな」


 藻屑高校の生徒達は捨て台詞を吐きながら逃げて行った。不良と言っても警察はやはり怖いらしい。

 金髪の少年はいつぞや見た覚えがある面だった。少女を殴ろうとして僕に止められ、蹴り掛かって来てすっころんで背中から硬い地面にぶつかった不格好な中学生の不良少年。

 少年はフラフラと立ち上がり、拳を上げてファイティングポーズをとる。もう、不良はいないのに誰に殴りかかろうとしているのか……。

 そう思っていたら、僕目掛けて拳を打ち込んできた。もう、フラフラで真面に前も見えていなさそう。

 あんなに蹴られて殴られていたのに、まだ動けるのは体が頑丈だからだろう。万亀雄と似たタイプだった。


「もう、不良はいない。僕は君を攻撃しないから」


「うおらああああああっ!」


 金髪の少年は頬が腫れ、ところどころ内出血しておりとても痛々しい見た目だった。声を出して力を振り絞るが、膝から力が抜けて前のめりに倒れる。


 僕は前に出て身長一六二センチメートルほどの少年を支える。歯がおれていたり、体の骨に異常が無いか軽く見るが、そう言った場所は見られなかった。

 丈夫な体に生んでくれた母親に感謝してもらわないとな。お父さんの遺伝かもしれない。


 交番に連れて行くか……、病院に連れて行くか……、それとも……。


 僕は二十四時間やっているコンビニに足を運ぶ。とりあえず、マーガリンと砂糖を混ぜたジャムをパンの上に塗り手繰った、いかにも高カロリーな菓子パンを購入。そのまま、コンビニの外に座らせておいた金髪少年のもとに向かう。


「…………お前、この前の」

「お腹空いてるでしょ。食べなよ」


 パンを渡すと、少年は勢いよく奪い取り、包装を破って食い漁る。

 僕はそんな少年と携帯電話を見て少しだけ笑った。


「ここで待っていて。すぐ、人が来るから」


「なんだよ……。警察なんか呼んでんじゃねえよっ!」


「警察は呼んでないよ。でも、君にとっては警察よりも頼りになる人かもしれない。さっきの戦い、見たよ。三人の高校生にタコ殴りにされたところ。凄くカッコよかった」


「つっ……、ふざけんな……。俺がガキだからっておちょくってんじゃねえ!」


「おちょくってなんかいないよ。高校生三人を相手にして何度も立ち上がるなんて、そうそうできたことじゃない。背丈や体重、筋肉量も何もかもが違うのに、重症一つ受けないで最後まで立っていた。相手は逃げ出したんだ。もし、あれがボクシングなら、君の勝ちだ」


 僕は少年の頭に手を置いて撫でまくった。ワックスでグチャグチャだが、気にしない。


「ちょ、ふざけんな、髪型を作るのもただじゃねえんだぞ!」


「そうだね。えっと君は十分強い。今の君なら『陸の鯱』が相手でも勝てると思うよ」


「どいつもこいつも『陸の鯱』の話しばかりしやがって。そいつはもう、鯛平先輩がボコボコにしたってのに。俺は鯛平先輩みたいに堂々としたデカい男になりたいんだ。あいつらを倒して稽古をつけてもらう。強くなれば、今度こそ皆を守れるんだ」


 少年は俯きながら拳を握りしめている。きっと過去に何かあったのだろう。でも、僕は聞かない。聞く必要が無いから。

 それよりも、うちの地区の中学生に藻屑高校の生徒が接触しているなんて。藻屑高校の生徒がそれだけ地区内に入り込んでいるのか。

 五分もしないうちに僕が通っている高校の制服を着崩した服装の知り合いがやって来た。


「珍しいじゃねえか、シゲの方から俺を呼ぶなんてよ」


「万亀雄、この子に喧嘩……、いやボクシングを教えてあげてほしい」


「はぁ? バカかお前。そんなことしたら……、か、会長に締められるぞ」


「万亀雄はもう、会長に会う気が無いんでしょ。なら、かまわないはずだ。この子、素質があると思う。藻屑高校の生徒三人から攻撃を受けて大きな傷を受けずに最後まで立っていたんだ。どうも、帰れない事情があるみたいだし、藻屑高校の三人……、いや、鯛平をぶっ飛ばしたいらしい」


「ちょっ! そ、そんなこと言ってな……」


「へぇ……、そうか……。なあ、お前、好きな女はいるか?」


 万亀雄はしゃがみこみ、ブロックに腰を下ろしている少年に真剣に話しかけていた。


「い、いるか。す、好きな女とかいるわけないだろ!」


「じゃあ、守りたい奴は?」


 少年は少し黙り込んでから小さな声で「……いる」と呟いた。その声を聴いた瞬間、万亀雄は笑い、少年の頭に手を置いて撫でた後に立ち上がった。


「よし、行くぞ。ガキ」


「が、ガキじゃない! 俺の名前は怜央だ!」


「ほう、威勢がいいじゃねえか。俺は万亀雄だ。んで、そいつが『陸の鯱』」


 万亀雄が僕の方に指を差した。その瞬間、金髪少年の口が曲り「へ?」と言う変わった声を出した。その時の顔は中学生相応にあどけなかった。


「だから、そのカッコ悪いあだ名はやめてよ。って、ああぁ、もうこんな時間。じゃあ、万亀雄、怜央君のこと頼んだよ。僕は新聞配達に行かないといけないから!」


 僕は怜央と言う少年を万亀雄に託した。

 本当なら警察に預けて親に迎えに来てもらったほうがいいんだろうけど、あの子はそんなんで改心するような子じゃないと思った。

 なんせ、瞳が大物を狩りたいと心を燃やしている小さな獣のそれだったから。あのまま、藻屑高校の生徒に殴られ続けていたら、いくら素質があっても体が壊れてしまう。

 でも万亀雄から色々教われば、殴られ続ける中で闘志を燃やしている一匹の猛獣が目を覚ますかもしれない。


 ☆☆☆☆


 新聞配達を終え、桃澤さんの家に行き二人で住宅街を走った。走りやすい河川敷付近を通っていると、先ほどの光景が思い浮かぶ。他の場所でも同じようなことが起こっているのかもしれない。そう思うと、どこかやるせない気分になってしまった。


「桃澤さんは誰かをぶん殴りたいと思ったことある?」


 突拍子もないことを桃澤さんに聞くと、彼女は頭を一度だけ縦に動かした。だが、その時の表情はあまり聞かないでほしいと言いたげな暗い顔。


「僕はボクシングしているのに、人を殴るのが嫌いなんだ……。喧嘩しているわけでもないし、好きな女の人を取り合う訳でもない、縄張り争いと言う訳でもない。でも、相手が悪い奴だったら殴りたくなる」


 桃澤さんは僕が何を言いたいのか理解できないらしく、首を傾げながら黒い瞳を僕に向けていた。両親の話をしっかりと聞こうとする子供のよう。たいそれた話じゃないんだけど。


「僕、リングの上だと心の底から本気になれていないんだ。拳は悪を払うためにあるべきだと思うから……。もちろん本気で戦っているんだけど、相手の痛みを考えてしまう。こう考えると、僕はボクシングにつくづく向いていない人間なんだ」


 僕は一度立ち止まり、ぽかんとしている桃澤さんの顔を見る。

 艶やかな白い肌、整えられた眉毛に、大きな黒い瞳、それを縁取る長く反ったまつ毛。筆を一本入れたようなすーっと通った鼻筋に、少し触れただけで破れてしまいそうなピンク色の唇。そのすべてが小さな顔の中に完璧に納まっていた。


「人を殴ることは嫌いだけど、人を応援することは好きだから、リングに立って桃澤さんを必ず勇気づける。あと、二週間、一緒に頑張ろう」


 桃澤さんは昇る日にも負けないほどの明るい笑みを浮かべた。

 一年間も言葉を失っていた彼女の笑みは感情がしっかりと籠っており、他の人の笑顔と全く違った。

 桃澤さんの笑顔を見ると、浮足立って走り出したくなる。加えて日向ぼっこしているかのように体温がじんわりと上がっていく。

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