第33話 シャチとサメ

 愛龍と桃澤さんの三人で遊んだ次の日の午前二時。

 新聞配達に行くために起き上がり、服を着替えてからアルバイトを開始する。新聞を全て配り終わった後、桃澤さんの家に向かい二人で朝のランニングに出かけた。

 桃澤さんの走りは以前よりも軽快になり、呼吸が深くなっている。肺活量が増えた結果だろう。途中でばてる機会も減り、ウォーキングから軽いランニングになっていた。朝だけではなく、他の時間にも軽い運動を取り入れているのかもしれない。


 昨日の今日で声が戻ったりしないが、深呼吸して口パクからの筆談は効果があるかもしれないと薄々感じているらしい。それならよかった……。でも、少しだけ心から喜べない自分がいた。

 桃澤さんの声が完全に治ってしまったら、僕と桃澤さんの関係が終わってしまう……。

 そうなれば、彼女は気になっている万亀雄と沢山話して笑みを沢山浮かべるのだろう。

 やはり万亀雄が羨ましいと思ってしまう。僕も桃澤さんの笑顔をもっと見たいのに……。

 でも、僕は万亀雄からボクシングを奪い、親友でもいられなくなってしまった。万亀雄が好きな相手は愛龍だと思うのだけれど、最近は愛龍よりも桃澤さんと話している時の方が多い。

 相手にされない愛龍より、笑顔をくれる桃澤さんの方が良いと思ったのかな。だとしたら、僕は潔く手を引くべきなんだろうな……。


 天気は澄み切った快晴、でも僕の気持ちは靄が掛かったような曇天。情けない顔面を桃澤さんに見せたくない。

 横並びから、少しだけ前に出て顔を見られないようにする。でも、桃澤さんも一生懸命ついて来て、すぐに追いつかれる。その繰り返し。

 彼女は息が絶え絶えになって僕のジャージを掴んだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……。すぅ……、はぁ……。は、早いよ……!」


 桃澤さんの口からごく僅かだが、声が聞こえた。やはり、今の桃澤さんの声を出す練習は的を得ているのかもしれない。

 僕は彼女の成長に喜びたい一心。でも、桃澤さんが喋れるように、また一歩近づいた。すると、僕と彼女の距離が一歩遠ざかってしまったかのような気がする……。それが、狂い難いほどに耐えられない。


 桃澤さんは自分の口から微かに声が出せた状況に驚きを隠せていない。泣きそうなほど満面の笑みを浮かべている。声が出せた結果を褒めなければ……。でも、唇が震えて考えが上手く纏まらない。


 僕は汗だくだと言うのに、喜びに打ちひしがれている彼女の体を前からぎゅっと抱きしめた。

 髪や衣服から香る僕の好きな石鹸の爽やかで甘くて暖かい匂いが、金木犀かと思うほど漂ってくる。いつまでも嗅げてしまう優しい香りだ。

 走った後の熱を帯びている柔らかい桃澤さんを抱きしめていると、このまま離れたくないと思ってしまった。でも、もう、離れないと……。


「桃澤さん、声、出てたよ。凄いよ。本当に凄い」


「う、うぅ……、うぅうぅ……」


 桃澤さんも他人の前でようやく声が出せて、相当嬉しかったのか僕に抱き着きながら泣いていた。泣き虫なのは相も変わらず。でも、大きく大きく一歩前進した。加えて、僕のもとから彼女が離れてしまう時間も近づいてきた。

 第一ラウンドが始まったばかりだと思っていたのに、いつの間にか、第九ラウンドにまで行っていた気分だ……。

 そう考えた瞬間「桃澤さんの声が戻らなければいいのに」と一瞬でも思ってしまった。


 ――あぁ、僕って最低だ……。


 桃澤さんを家に送った後、愛龍に桃澤さんの声が少しだけ出たと伝えると、リングの床を連続で踏みしめるほど足を速く動かし、ロープを掴んで体を揺らしまくる。僕も愛龍ほど喜べれたらよかったのに……。


 朝練の時、桃澤さんと同じように深呼吸してからサンドバックに張り付けている相手の顔に見立てた丸い布目掛けて左拳を打ち込む。

 一瞬、鎖が切れたかと思うほどの激しい音が鳴り響いた。左手から伝わる刺激は腕を伝い、脳に到達する。

 いったん離れ、深呼吸して自分を褒める。その繰り返し。

 桃澤さんが全く出なかった声も微かに出せるようになるくらい効果が高い。僕も少しくらい良くなるはず……。そう思ってリング上で試すも効果はない。

 そりゃあ、この短い間で出来るようになったら苦労しない。

 桃澤さんの場合は、多少なりとも僕との関係が深まっていた、加えて走りすぎて疲れから緊張感が無かったのだろう。口から漏れ出してしまったかのような声だった。それでも、凄い……。


 朝練を終えて登校時間になると、桃澤さんがジムにやってくる。そのまま、愛龍と抱きしめ合い、少しだけ声が出た進捗を喜び合っていた。

 僕は二人を避けるようにジムを出て、学校に向かった。今日も万亀雄は登校して来て、身が震えそうになるほど睨まれた。卯花さんの件、まだ怒っているらしい……。


 授業中は不機嫌な万亀雄と上機嫌な桃澤さんが筆談を繰り返している。

 不機嫌だった万亀雄はときおりくすりと笑ったり、桃澤さんに向ってデコピンや耳を軽く摘まむと言った軽いスキンシップまで……。

 そのたびに、桃澤さんは恥ずかしそうにむくれている。前よりも仲良く見えるようになったのはなぜだろう。


 僕は頬を軽く叩き、県大会の方に集中しなければと、気持ちを無理やり抑え込む。

 携帯電話と言う気を紛らわせるのに物凄く最適な文明の利器を手に入れたのだから使わなければ損だと思い、触れてみるが……どうも気が乗らない。

 送られてきたメッセージが無いか確認するだけ。すると会長が、県大会に出場する選手がプリントされた用紙を写真で撮って送ってくれていた。


 ミドル級の出場者は八名ほど。僕を抜けば七人。そのうちの一人に鮫島昇の名前が入っていた。

 トーナメント戦なので、三回勝てば、優勝。八階級もあるので、人数がばらける。加えて皆、下の階級に行きたがるので、ミドル級が案外少なめだった。県大会の日時は六月二三日、日曜日。再来週だ。


 会長曰く、僕の力を出し切れば勝てるらしい。ただ……、桃澤さんに勇気を与えるために頑張って来たのに、声が少しだけ出て、近くに仲が良さそうな万亀雄がいる彼女に勇気が必要なのだろうか……。まあ、万亀雄は関係ないか。


「桃澤さんに、全力でやり切るって言ったんだ。なら、やるしかないじゃないか……」


 会長から送られてきた動画を再生する。

 動画投稿サイトにアップロードされていた鮫島昇のテレビ取材の映像だった。

 強豪私立のボクシング部で練習している彼は兄同様にプロ注目選手として取り上げられている。

 才能の塊だった兄の悲劇を経験した弟と言う、いかにもテレビ番組が好きそうな肩書を持っており、案の定、スポーツ紙の記者が鮫島昇に密着取材している。アップロードされた日は昨日だった。ものすごく最近の動画らしい。


 牛鬼ジム以上に設備が整っている強豪私立のボクシング部内のリング上に昇はいた。監督と思われる厳つい男性にカジキすら一撃で貫きそうな鋭い左ストレートを打つ。細い目をかっぴらき、引き締まった腕や額から汗が飛ぶ。

 フットワークが軽く一撃一撃が重そうな拳を連続で打ち込んでいた。

 その姿を見て、ボクシングが楽しそうだと思う者は一切いないだろう……。彼の見ている先に、僕がいるのだと思うと、裸の状態で冬の外に放り出されたような怖気が全身に走る。だが、逆に今のままでは手も足も出ないかもしれないと、感じさせるほど必死に見える。


『昇君、以前にも増して気合いが入ってますね』

『そりゃあもう……、倒したい相手がいると思うと嫌でも気合いが入りますよ』

『倒したい相手。なるほど、ライバルと言う奴ですか?』

『ライバル? ふっ、違いますよ。単なる独りよがりです。でも、兄以上に勝ちたいと思った相手も初めてなので……。絶対に負けたくないんです』


 動画の中の昇 は勝つためにただひたすら努力していた。

 僕の気持ちが浅はかすぎるほど、情熱にあふれている。

 彼と戦うのなら、僕もそれ相応に力を出し切らなければならない。落ち込んでいたのに、なぜか少しだけやる気が湧いた。

 和利さんを倒した相手として、昇が追いかけていた相手の代わりとして、僕は彼と全力で戦わなければならないんだ。

 そう言う使命感のような気持ちが僕の背中を押してくる。

 僕が戦えば、桃澤さんだけではなく、和利さんや昇、会長、愛龍、三バカ……の皆が別々の気持ちを抱くはずだ。どんな気持ちになるかわからないけれど、僕に出来る精一杯の恩返し、何なら自己主張、そんな気持ちをぶつける方法がボクシングなのだ。


 桃澤さんを勇気づけるとともに、感謝の気持ちを伝えたい。沈んでいた僕に戦う理由とこれほどまで熱い気持ちを湧き立たせてくれたことを……。そのために、全力を出しきらなければならないんだ。


 桃澤さんと万亀雄が楽しそうに筆談している中、僕は気持ちを改める。県大会まであと、二週間ほど。やれる練習はとことんやる。これでボクシングを辞めても後悔が残らないくらい全力で、やり切るんだ。

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