第31話 シャチと兎

 閉館時間が迫ってきたころ、お土産コーナーに入る。お菓子やぬいぐるみ、文房具など、水族館限定の商品が沢山売られていた。

 僕はいつも入らないようにしてきたが愛龍が買い物したいと言うので、仕方なく入る。桃澤さんも一緒に入った。何か買う気だろうか。


「桃澤さん、予算は大丈夫なの?」


 桃澤さんは口を動かした。だが、やはり声は出ていない。

 この場合、僕が彼女の頭を撫でる。桃澤さんの頭に手を乗せて慰めた。失敗しても怖いことが起こらないと体に教える。その後、彼女はメモパットに文字を書き始め見せてくる。


『妹に貸していた五万円が帰って来たから問題ないよ』


「そうなんだ……」


 ――桃澤さん、妹に五万円も貸していたの? でも、戻ってくるっていったい何があったんだろう。気になるけど、なんか複雑そうだし、やめておこう。


 桃澤さんと愛龍はぬいぐるみを買うらしい。だが、どれもこれも職人の手作りの品だろうから、値段が張る。材料費とか人件費も高くなっているため、小さなぬいぐるみでも余裕で三千円を超えていた。


「値段を見て怖気づくのはみみっちいよ。ほしいって思ったら買った方が気持ちいでしょ」


 愛龍は僕がぬいぐるみの値段を見て何を感じたのか読んだのか、目を細めながら言う。


「豪快過ぎるよ……。そんな買い方をするから、お小遣いがすぐに無くなるんじゃないの」


「私の買い物にケチ付けないでー。私が良いならいいのー」


 愛龍に何を言っても自分が止めようと思わない限り、言うことを聴かない。我が強いのは良い所だが、友達が少ない理由もそう言うところな気がするな……。

 桃澤さんはベルーガのぬいぐるみを、愛龍はイルカのぬいぐるみを、僕は……鯱のぬいぐるみを買った。

 今日だけでいくら使ったんだろう……。まあ、良いか。今日は羽を伸ばす日だって決めていたんだ。お金を使った機会に後悔は無い。


 水族館の外に出て体を伸ばす。赤が増した空が見え、一日遊びつくした感覚を得る。ずっと練習して一日を終える日々も清々しいがたまには遊び疲れしてみるのも悪くなかった。


「ねえ、見て見て。七月一二日の海の日に祭りがやるらしいよ。また、皆で来ようよ。今度は万亀雄も誘ってやろう。絶対楽しいじゃん!」


 愛龍は水族館に置かれていた祭りのチラシを持っていた。僕たちの県大会が終わった後にある祭りか……。祝いの祭りになるか、慰安の祭りになるか……。


「そうだね。県大会が終わった後だし、行ってもいいかな。桃澤さんは……」


 桃澤さんは唇を動かし声を出そうとしているが出ない。近くにいた僕が頭を撫でる。


『期末試験があるころだけど大丈夫?』


「問題ない、問題ない。私、ボクシングで大学に行くし~」


 ――まあ、一年生で全国大会優勝していたら推選入試は余裕だろうな。


「僕もテスト期間はアルバイトを休ませてもらえるから、問題ないかな。あぁ、でも、一日勉強できなくなるわけだから余分に勉強しておかないと……」


 テスト期間中はさすがの会長も練習しろとは言わず、勉強に集中させてもらえる。良いか悪いか、僕はボクシング以外に対した趣味がないので誘惑が無く勉強できる。逆に愛龍は練習しなくていいと思うと、遊びたがる性格なので勉強よりも溜まっている漫画やテレビドラマを消化しているらしい……。


 僕たちは電車に乗り、牛鬼ボクシングジムまで帰る。

 愛龍が桃澤さんを家まで送ると言い、僕にまた夕飯の支度を押し付けてくる。料理が出来ない猛獣たちに包丁なんて持たせたらどうなるか……。考えただけで恐ろしい。


 先週の時のように、卯花さんがやって来てくれないだろうか。


 僕が食堂の調理場に行くと、僕の第三の母と言っても過言じゃない卯花さんが一羽の巨大な兎が描かれているエプロンを付けて調理場にいた。僕の姿を見るや否や、短い脚をちょこちょこと動かし、子供の用に駆けてきてムギュっと抱き着いてくる。


「え、えっと、卯花さん、どうしました?」


「し、成虎君、万亀雄が、万亀雄が……」


 卯花さんはくりくりとした愛くるしい黒目を潤わせ、口をもごもごさせながら話す。少し鼻水を啜ると小さな鼻がヒクヒクと動き、泣くのを必死に我慢しているように見える。


「万亀雄がどうかしたんですか? もしかして、大怪我……」


「万亀雄が日曜日のこの時間帯に、家にいるの……。うぅぅ、うわぁあ~んっ」


 卯花さんは小学校低学年のような泣き顔になり僕の胸に顔を擦りつけてくる。相手はすでに三五歳を超えているはずの二児の母だが、小学生だったかな? いや、そんなはずない。


 卯花さんの背中を優しく撫でる……。なんで、僕が幼馴染の母を宥めないといけないんだ。


「俺が料理を作るよ、なんて言うし。母さんに迷惑ばかり欠けてごめんとか、謝ってくるし。あの万亀雄は私の万亀雄じゃないわ! きっと宇宙人なのよ! だって、万亀雄があんなに優等生なわけないもの! 気持ち悪くて気持ち悪くて……」


 卯花さんはキッチンに置いてあった包丁を逆手に持ち、鋭い先端を見つめていた。何しに行くつもりなのか。


「ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってください。えっと、たぶん、喧嘩で頭を殴られ過ぎてバカから優等生になっちゃったんですよ。最近、毎日学校に来ますし、頭の打ち所が悪かったんだと思います。だから、その、包丁は置いてください……」


 僕は卯花さんの手から包丁を奪い取り、戸棚にしまっておく。


「うぅ……、どうしたら……」


「とりあえず、様子を見たら良いんじゃないですか。本当に怖くなったら、また僕のところに逃げ込んできてもらっても良いですから。僕が卯花さんを絶対に守ります」


 僕は泣きそうになっている卯花さんをぎゅっと抱きしめて恐怖心を取り除こうとした。背中に手を回し、後頭部を優しく撫でる。


「だ、だめよ、成虎君、わ、私には大切な夫がいるの……。あの人を裏切れないわ……。で、でも……、もう少しだけ、このまま……。あぁ、ち、力強い抱擁……、だ、だめぇ……」


「卯花! 早く離れろ! 成虎に沼るぞ!」


 背後から会長が料理場に入り込んできた。その勢いに驚いたのか、卯花さんは僕の体を押して離れる。だが、勢いが強すぎてそのまま、後ろに倒れそうになっていた。

 僕は彼女の小さな手を握り、右足を背中に滑り込ませて上下を入れ替え、倒れ込む。


「危なかった……。卯花さん、大丈夫ですか?」


「あ、あわわ……、はわわわ……」


 卯花さんは僕の体の上に倒れ込み、無傷。体が小さいからまったく重くない。後方にいる会長は大きな手を顏に当て、大きくため息を吐いていた。


「ご、ごめんなさい、成虎君……」


「気にしないでください。卯花さんに怪我が無くて本当に良かった。卯花さん、体は大事にしてくださいね。卯花さんが怪我したら、僕だけじゃなくて皆が悲しみますから。」


「う、うん……」


 卯花さんはちょこちょこと動きながら立ち上がる。そのまま、ボーっとしていた。すると、会長がむきたての湯で卵のようにつやつやした卯花さんのおでこ目掛けてデコピンを繰り出す。頭が割れるんじゃなかろうか。

 だが、案外石頭だった卯花さんはうううーっと少し唸った後、正気に戻る。


「あ、ありがとう、虎珀。生憎、成虎君に沼っちゃうところだったわ」


「気を付けろ。男と接点が少ないと成虎の沼にコロッと落ちちまうぞ。成虎も、甘い言葉を無意識に吐くな。勘違いするだろうが」


「甘い言葉? えっと、甘い言葉って何ですか? 砂糖、ハチミツ、アイスとかですか?」


 会長と卯花さんは溜息を吐き、僕の発言に何かしら不満がある様子だった。


 僕は昨日買っておいた食材を使ってカレーを作る。皆と被らないように先にお風呂に入り、寝る準備を終えた後、携帯電話を最後にチェックすると少し前にメッセージが二通入っていた。

 一通は万亀雄から『母さんに何しやがった。溜息をずっと吐いているんだが』と。

『万亀雄が優等生になって気味悪がっていたから、抱きしめておいた』と伝えておく。

『人の母親に手を出してんじゃねえぞ!』と怒りマーク付きで返信が返ってくる。


 抱き着かれたから、手を背中に回しただけなんだけどな……。

 顔が見えない相手に文章を送るのって難しいな。というか、万亀雄、僕に普通にメッセージを送ってくるし、怒ってないのだろうか。

 まあ、今は別の件で激怒しているんだけど。卯花さんの件で普通に謝ったら許しが出た。ほんと万亀雄は卯花さんが大好きなんだな……。


 もう一通は桃澤さんだった。『今日、水族館、凄く楽しかった。また一緒に行こうね。ああ、でも今度は万亀雄君も一緒が良いかな』と……。


 メッセージを読んだ瞬間、体の力が抜けて膝が崩れた。


 ――も、桃澤さんは万亀雄と一緒に水族館を回りたかったのか……。さ、最近、二人は凄く仲が良いし、桃澤さんが万亀雄を気になるのも変じゃない。万亀雄はカッコいいし、強いし、頭が良いし、モテる要素しかないじゃないか。逆にモテない方がおかしい。


 僕はなぜか、ものすごく泣きたい気持ちになっていた。

 別に、桃澤さんが万亀雄に好意を持っていても僕に何ら関係がないはず。なのに、驚くほど胸が苦しい……。

 今日撮ってもらった写真を見ながら『僕も楽しかった。また、皆で水族館に行こう』とメッセージを送り、写真と携帯電話を机の上に置いた後、ベッドに倒れ込む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る