第28話 シャチと龍とベルーガ

 六月の第一日曜日、愛龍と桃澤さんと一緒に水族館に行く日がやって来た。僕は真面な私服をほぼ持っていなかった。ジャージかスポーツ用の薄手の服ばかり。万亀雄から服を借りようにも、以前の言い合いで物凄く気まずい状況にある。結果……、僕だけ制服姿で水族館を回ることになった。

 牛鬼ボクシングジムの入口に行くと愛龍に腹がねじ切れそうだと言うほど笑われ、すでに到着していた桃澤さんもは笑いを堪えるために口に手を当ててお腹をもう一方の手で押さえている。制服は学生の戦闘服なのだから別に変じゃない。逆に正しいまである。いや……休日に制服は無いか。

 愛龍は質素な半そでと、その上から水着のような服、ジーンズの短パンと皮のベルトを付け、白黒のスニーカーを履いていた。いつもと違ってものすごくお洒落な服装で、ヒップホップダンサーをほうふつとさせる。髪が短いので、胸の膨らみが無ければ美形の男だと思われてもおかしくない。ウェストポーチのせいか、余計男っぽい気もする。

 桃澤さんは柔らかそうな薄手のニットと丈の長いスカート。彼女の穏やかな雰囲気に会っており、舞台の上で歌を披露する歌手のよう。肩にかかっている髪は丁寧に編み込まれていて後頭部にバレッタが付けられている。使い勝手が良さそうな、おしゃれなトートバックを持っている。

 両者共に化粧しているのか、可愛さが普段の何倍にも上がっていた。元が良いから化粧の乗りも半端ではない。愛龍の姿を写真に撮って万亀雄に送ってやりたいが、桃澤さんの写真は送りたくない。


「ふ、二人共、手が込んでるね……」

「女の子なんだから、当たり前でしょ。成虎は適当すぎ。ただ、学校に行くだけと訳が違うんだからね」

「ご、ごめん……。高校生になってほとんど遊んでなかったから私服を使う機会が無くて」

「ま、服って結構高いからね。電車台もケチる成虎に五千円の服を買えとは言わないけどさ、ちょっとはマシな服を買った方が良いよ。うーん、二、三着、一万円を超える古参ブランドの服を買って何年も着回した方が流行の服を追うより成虎に会ってるかも」


 愛龍の漆黒の瞳の眼力はすさまじく、僕に服を確実に買わせようとしていた。彼女がそう思った以上、強引に話を進めるだろう。以前の携帯電話の時のように……。僕のアルバイト代が服に消えるのかと思うと、涙がちょちょぎれそうになる。


 今日も走って水族館に行こうと思ったが愛龍に一発殴られそうになって電車に渋々乗った。案外近場なので運賃は数百円程度。何本も通る電車の中は日曜日でも比較的空いており、壁側の長椅子に座れた。端に愛龍、中央に桃澤さん、その隣に僕。

 僕は電車に乗るのは久しぶりだった。いつも走っているので使う機会が無かったのだ。鉄製の車輪とレールが多少の凹凸で電車がガタンゴトンと小さく揺れる。だが、その揺れが無性に眠気を襲ってくるのだから不思議だ。電車に乗って五分ほど、隣にいた桃澤さんがメモパットを見せてくる。酔わない程度に筆談を繰り返した。


『水族館、楽しみだね』

『桃澤さんはアルバイトでいつも行っていると思うけれど』

『アルバイトと、遊びで行くのは全然違うよ。ゆっくり見たくても仕事の方が優先だし、周りの人に気を使っちゃう。でも、遊びに行くときは自由でしょ』

『確かに。でも、お金に余裕あるの?』

『ふふふっ、アルバイトも社員割りを使えるんだよ。だからものすごくお得に楽しめるの』


 桃澤さんは相当楽しみなのか、常ににっこにこだった。顔の周りから花が舞っているようなお気楽さで、時おり足を延ばしてバタつかせ、待ちきれない子供のような仕草を見せてくれる。スカートから素足が見えると無性にドキリとするのは男の性だろうか。


 電車を降り、駅を出て水族館までの道のりを歩いていると、日の光にじんわりと暖められた。空は雲一つない快晴。梅雨の時期なのに珍しい。青い海も日の光を反射してキラキラと光って見える。この時期はまだ夏休みシーズンではないので比較的空いている館内を回れるのが魅力だ。

 近くにフードコートもあるし、ショッピングセンターも構えられている。一日遊んでも回りつくせないだろう。まあ、水族館を回っているだけで一日が終わってしまうのだろうけど。


 石畳の道を歩き、移動してくると階段の先に大きな水族館が見える。券売所に並んで僕と愛龍はチケットを買い、先に行っていた桃澤さんと入り口前で合流。チケットにブルーライトで絵柄が見える特殊なインクのハンコを押してもらい、入館。今日中なら出入りは自由だと受付の方が言う。


 北館と南館に別れており、ものすごく広い。そのため、素人が上手く回るのはほぼ不可能。僕と愛龍も遠足や校外学習、休暇で何度か来た覚えはあれど、未だに上手く回れない。

 結局、自分が好きな所に行ってしまうから、中途半端な楽しみ方しか出来ていなかった。


 この水族館でアルバイトしている桃澤さんはふふんっと鼻息荒げに膨らみが大きな胸を張っていた。トートバックに入れていたスケッチブックを取り出すと、押さえておきたい場所と絶対に見ておきたいイルカのショーや鯱の訓練時間などのスケジュールが記されていた。

 館内を歩き回っている彼女にとって歩行時間もある程度わかっているらしい。しっかりと見て回るのなら、全ての場所を回ることは不可能なんだとか……。

 まあ、せかせかしたいわけでもないので、じっくり行こうと言う話しになる。いつもなら、突っ走る愛龍も館内で迷子になったら洒落にならないので、桃澤さんの横を歩きながら薄暗い場所でも目の輝きが一段と増している。その姿を見るだけですでに楽しんでいるのがわかった。


 必ず押さえなければいけないのが午前一〇時三〇分から始まるベルーガの公開トレーニング、午前一一時三〇分に鯱の公開トレーニング、午後一二時三〇分のイルカパフォーマンスだそうだ。丁度一時間置きにあるので移動にも余裕があり、時計を見ながら行動すれば何も問題ない。


 桃澤さんと愛龍は分厚いガラスにへばりつきそうなほど近くで巨大な水槽の中を眺めていた。

 巨大な水槽がある館内は薄暗く海の中に潜ってしまったかのような静けさが広がる。宝石のように輝く鱗を持つ魚たちが泳ぐ神秘的な光景が、ただただ綺麗だった。

 僕が潜る集中しきった暗闇の中 とかけ離れた空間。静かなのに妙に心が熱くなる。 周りの人々の顔は常に笑み。

 そんな景色を見て、少しだけ何か掴めそうな、気がした。写真撮影は禁止なので、後から見返せないが、愛龍や桃澤さん、周りの人々の笑顔が景色と結びついて思い出に残らない方があえりない。


 巨大な魚、小さなな魚、銀色の魚、色とりどりな魚。多種多様で、全ての名前を言い当てるなんて素人は出来ず、焼いたら美味しそうだななんて発言も聞こえてくる。まあ、考えは人それぞれ。綺麗と思う人がいる中で、汚そうとか、可哀そうとか、そう言う感情が湧く人もいるだろう。それも一種の思いなのだから、大切な感情だ。


 僕がチンアナゴのようにボーっと突っ立っていると愛龍と桃澤さんに引っ張られ、館内を歩く。

 見るものが多すぎて目が回りそうになる中、北館の二階でベルーガの公開トレーニングが行われる時間帯になった。水槽……、もはや池というか、広めの水場でベルーガたちが飼育員の女性と息の合った連係を見せてくれた。


 三頭のベルーガが飼育員の合図で一斉に声を出したり、手を振ったり、体を回したり、なんでそんな芸を教えられたんだと疑問が湧く。それ以外を除けば、愛くるしい姿に心臓を打ち抜かれそうになっている。一番興奮していたのは桃澤さんだ。

 掃除する時間帯とトレーニング時間が全く会わず、見た覚えがなかったらしい。だから、ぴょんぴょん飛び跳ねるようにして喜んでいた。いや……、ベルーガよりも愛くるしいんだが……。


 一五分程度でトレーニングは終了し、沢山集まっていた人たちは蜘蛛の子を散らしたようにまばらになっていく。

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