第27話 シャチと鬼
自分の感情も上手く理解できず、もやもやとした気分で相手を倒すための戦いに意識を向けるだなんて出来るわけがなかった。
ただひたすら深く潜ってサンドバックを殴っていた方が楽だった。その方が、何も考えなくて済むから。
誰もいない真っ暗な世界の方が心地いいと思う時が来てしまうなんて……。
沈み過ぎた意識は簡単に戻らず、木製の桶が石製の床に当たって、かぽんと言う何とも間抜けな音がした時、意識がようやく戻った。
「今日の練習は最悪だったな。ありゃ練習じゃなくて八つ当たりって言うやつだ」
僕がお風呂に入っている横に、全裸の会長が豪快に入ってくる。
体脂肪率十パーセントを切っているんじゃないかと思うほど脂肪分が少ない。胸と頬以外に柔らかい部分はなさそうだ。
万亀雄なら興奮しているかもしれないが、僕からしたらただの猛獣がお湯に入って来たような感覚。鬼と一緒に地獄の風呂に入っていると言った方が良いか……。
「今日は自分を見失っていました。すみません。もう、大会が近いのに、僕、何も変わっていないみたいです。これじゃあ、鮫島さんに顔向けできません。鮫島昇も今の僕を見たら幻滅するでしょうね。こんな奴に兄のボクシング人生を終わらせられたんだって……」
僕は自分で嫌っていたしみったれた感情を口からボロボロとこぼしていた。あぁ、自分でも嫌気がさすほどに情けない。
会長に一発殴られた方がバカになって気持ちが切り替わるんじゃないかな。これだけ弱音を吐いているんだから、一撃くらい飛んでくるかも……。
僕は会長の鉄拳がいつ飛んできても良いように待ち構えていた。だが、会長は一切攻撃してこない。僕が弱音を吐いたらいつもぶん殴ってくるのに、なぜ今回はこんなに弱音を吐いても殴って来ないのか。
「なんで、今日は殴って来ないんですか……」
「今のお前を殴っても何も解決しないからだ。それに、弱音を吐くことが悪いことだとは思わない。練習以外の時だからな。逆に、溜めこむよりいいだろう。どうだ、子供の時みたく私の腕の中で泣くか?」
「……え、遠慮しておきます」
会長はちぇーと言いながら、棍棒のように太い腕を持ち上げ、石風呂の縁に掛ける。背筋を曲げ、体を思いっきり伸ばしていた。普段、見えたらいけない部分が完全に見えているのに気にしている素振りが一切無い。
僕は視線を反らし、膝を抱えて肩をすくめる。どうも、会長は僕の弱音がバカバカしいと思っているらしい。そんなこと考えているなんて弱者だとでも言いたそうにあくびしてコバエ目掛けて足を振り上げると、大量のお湯が巻き上がり一瞬だけ噴水が現れる。
どうして会長とお風呂に入っているのか謎だ。早く上がればいいのに上がりたくない。
「成虎は私の夫を見てどう思った?」
「え……、凄く強そうでした……。もう、熊かゴリラのどちらかから生まれたんじゃないかって思うくらい」
「はははっ! そうだな、図体だけなら、熊だったかもな。だが、あいつは精神が糞ほど雑魚だった。いつもベッドの上で丸まってジメジメしているような奴だったよ」
「えぇ……、う、嘘だ……。だって、ヘビー級で世界二位ですよ。化け物じゃないですか。もう、ヘビー級で世界二位とか、日本人の体を超越してますよ」
「そうだな。だがあいつはいじめられっ子で、私がよく虐めていた。図体がデカかったから私がボクシングに勧誘したんだ。毎日毎日ぼっこぼっこに殴り倒した。気絶するまでな」
――う、うわぁ……。愛龍のお父さん、可愛そう。
「そしたら、いつの間にか強くなっていた。夫を虐めていた不良共はすぐにいなくなった。男ってのは、なんでかな……。強くなったら威張りたくなるのか、力を使いたくなるのか、他の不良から虐められている奴らを助けに回りだしてよ……。今の万亀雄みたいにな」
会長の夫の話は驚くくらい長かった。それだけで会長がどれだけ夫が好きなのかもわかった。
今も大好きなんだろうなと思いながら、どうしても聞けない。もう、耳を塞ぎたくて仕方がなかった。
でも会長は僕が逃げられない状況だとわかった上で、永遠と大好きな夫の話を泣きながら語っている。
「私が唯一あいつに負けたのはベッドの上だけだ」なんて言いながら泣きまくっている。
「私の人生であいつがいない瞬間は無かった」とか「好きだと言われそうになった時、咄嗟にぶん殴って夫の前歯を折った」とか、会長ののろけ話を一時間ぐらい聞かされた。もう、半分以上理解できていない。
「はぁ、はぁ、はぁ……。私の弱音、すげーだろ。私は確かに世界を取った。だがな、弱音の量でも世界でためを張れる。強さの裏に弱さがあって当たり前だ。どっちかが大きくても世界は取れない。どちらも持ち合わせている奴じゃないと強くなれないからだ」
「会長が何を言っているのかよくわかりません……」
「まぁ、強い者ほど弱い部分を多く持っている。逆に言えば、弱い者ほど強い部分を多く持っている。それを生かすも殺すも己しだいだ。弱い自分を否定する必要はない。それだけ成虎が強いってことだかな」
――わかりそうでわからない。
僕は何とも言えない気持ちになっていた。だが、先ほどよりも心が軽くなった気がする。気のせいかもしれないけれど。
会長が長話していたせいで午後八時をとっくに超えてしまっていた。早く寝なければ新聞配達の時間に起きられない。
「会長、辛い時期に僕を育ててくれてありがとうございました」
「なんだいきなり……」
「伝えられるときに伝えておきたかったので」
僕は体を洗ってさっさと寝る準備を終わらせ、部屋に戻って眠る。
「バカ野郎……。辛い時期に愛龍とお前がいたから耐えられたんだろうが……」
「あれ? 成虎、いないじゃん。って、ママ、泣きすぎー」
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