第26話 シャチと亀とベルーガ

 梅雨時の六月になった。

 最近のこの時期は夏かと思うほど猛暑日で、湿度も高くジメジメとした嫌な空気だった。

 席替えの結果、愛龍と桃澤さんは近くの席で、僕は離れた席だった。

 授業中、筆談できなくなってしまい、少々残念。

 ただ、今週の日曜日、会長から強制的に休めと命令が下った。愛龍が水族館に強制連行するとのこと。それなら一人でいいと思ったのだが愛龍いわく、桃澤さんが水族館の中を案内してくれるそうだ。

 アルバイトを休んでまで案内してくれると言うのだから、ものすごく嬉しかった。なぜだろう……、愛龍と行くのなら別に一人でもいいと思っていたのに桃澤さんが来てくれるとわかると無性に心が躍る。

 水族館が好きなもの同士だからだろうか。日曜日の休みを考えるだけで、練習が苦でなくなる。ただ、焦りは増えるばかり。

 なんせ、未だに相手の顔が殴れないと言うイップスは解消されていない。そんな時に休んでもいいのかと思ったが、会長から今の僕は練習のし過ぎなのだと言われた。肩の力が入りすぎているとも。

 会長と貸し切り露天風呂に入るのか、愛龍と水族館に行くか、選択を迫られ、泣く泣く愛龍と水族館に行くを選ばされる羽目に。会長は悔しそうにしていたが僕に何をする気だったのだろうか……。


 六月に入って初の月曜、万亀雄は午後になってから現れた。昼頃にやって来たため、自分の席の場所が変わっており、困惑していたので僕が教えようとしたら、桃澤さんが手を振って万亀雄の席を教えていた。


「芽生、ありがとう」


 万亀雄は桃澤さんにぎゅっと抱き着いて名前を言いながら感謝の言葉を口にしていた。 


 僕はいつの間にか席を立ち、茫然としている。なぜ? いつからそんなに仲良く……。


 桃澤さんは、不意を突かれて顔を赤らめながら動揺していた。


 僕の方に気づいた万亀雄は軽く微笑んで「シゲ、どうしたんだ?」と聞いてくる。


「桃澤さんといつの間に名前で呼ぶ仲になったんだ……」


「べつに、どう呼んだって俺の勝手だろ。な、芽生」


「う、うん……、万亀雄君なら別にいいよ」


 僕はボクシングの試合でこめかみを思いっきり殴られたかのような衝撃を受け、椅子に座り込んだ。

 いつもなら、立ち上がろうとするのに、今は立ち上がれる気がしない。今頃、会長が白いタオルを投げているところだろう……。そんな経験は一度もないが、万亀雄にKOされた気分だった。


 ――な、なにを気にしているんだ。ただただ桃澤さんが万亀雄と呼んでいるから万亀雄も桃澤さんの名前の方を呼んでいるだけ。愛龍だって、芽生と呼んでいるんだから、ごく自然な流れじゃないか。


 なんなら、万亀雄の席は桃澤さんの隣になっている。授業中、万亀雄と桃澤さんが筆談を繰り返している姿が見えてしまう。いったいどんな筆談をしているのか気になって仕方がない。

 万亀雄に笑顔を向けている桃澤さんを見ると無性に心臓が締め付けられた。もう、一〇キロメートルを全力で走った後よりも苦しい。


 まあ、万亀雄は教室をすぐに退出するだろうと考え、息を整えていた。だが、午後からずっと帰らず、そのまま桃澤さんの隣に座っていた。なぜ? という疑問は尽きない。


 次の日、その次の日も、万亀雄は朝から学校に来て授業を受けていた。

 と言っても、桃澤さんと筆談しながらだけれど……。会長の言う通りに足を洗ったのか……。正義感の強い万亀雄が巡回活動を止めたのか。地域に不良の生徒が入って来て悪さをしてもどうでもよくなったのか……。

 気になりすぎた僕は万亀雄に直接聞くと言う強硬手段に出る。


 学校の授業が終わり、帰ろうとしている万亀雄のもとに駆け、話し掛けた。


「万亀雄、どうして学校に来るようになったんだ?」


「どうして? 俺だって高校生だぜ。学校に来るのが普通だろ。なんだよ、シゲだって足を洗えって言っていたじゃねえか」


「そ、そうだけど……。もう、他校の生徒が地域で暴れてもいいの? 藻屑高校の生徒がこの高校の生徒を虐めていてもいいの?」


「なんで、シゲがそんなこと気にする必要があるんだよ。お前は楽しいスポーツを一生懸命にしてればいいだろ。俺のことは気にするな」


「気にするよ。だって、万亀雄は僕の親友だから……。僕のたった一人の親友だから」


「はっ……、親友ねえ……。俺が辛くて苦しい時、いつもシゲが近くにいてくれた。だが、最近はめっきり無くなっちまったな」


「それは……、ごめん……」


「なに謝ってんだよ。別に気にしてねえから」


 万亀雄は僕のことを親友とは言わず、口では笑っていたが目が笑っていなかった。


 たしかに、僕は高校生になってから万亀雄一人にずっと辛い思いをさせて来た。きっと、万亀雄だってボクシングがやりたかったに決まっている。初恋の会長にずっと雑魚呼ばわりされているなんて彼も嫌だろう。見返したいはずだ。男だと認めてもらいたいはずだ。


 会長が泣いて不良紛いなことはしないでくれと頼んできても、万亀雄は自分を曲げなかった。なのに……、なんでそんなあっさり自分を曲げて普通に生活しているんだ。


「じゃあ、牛鬼ボクシングジムに戻って来なよ。理由はわからないけれど、学校に来れるのならジムにも来れるでしょ。会長も会いたがっていたよ。帰ってきたら一緒に風呂に入ろうって言っていた」


「な……、んんっ。い、行かねえよ。俺はボクシングが嫌いなんだ。喧嘩の方が何万倍も楽しいんだよ。あぁ、そうそう、芽生はめっちゃ良い奴だな。見目あるじゃねえか。でも、未だに苗字呼びする仲じゃ、先が思いやられるな。その間に、俺のものに……」


 万亀雄が言い切る前に、僕は彼の胸ぐらを掴んでいた。背丈は彼の方が高いので見下ろされている。だが、これだけは言っておきたかった。


「万亀雄の戦いに桃澤さんをまきこむな……」


「そんなつもりは微塵もねえよ。ま、大物を釣る良い餌になりそうだがな……」


 万亀雄は僕の手を振り払い、そのまま帰ってしまった。

 外は土砂降りの大雨。殴ったら簡単に割れてしまう薄いガラスに斜めから打ち付ける雨水の音が薄暗い廊下に響いていた。


「あれ、万亀雄、帰っちゃった? 最近のあいつ、良い感じになって来たと思ってたのに。ま、こんな大雨なんだし、電車に乗るでしょ。成虎も、今日はさすがに電車に乗りなよ」


 愛龍は通学鞄を持ち、明るい教室から廊下に出てきて話し掛けて来た。背後に万亀雄の姿を追うように出て来た桃澤さんがいる。


「カッパを持ってきたから、走って帰るよ」


「はぁ……、生粋の貧乏性だわ……」


 僕はカッパを着こみ、外に出た。

 横殴りに降る雨粒を一身に受け、排水が滞っている水たまりを軽くよけながら帰路を直走る。

 心の中と全く同じ天気で気が滅入る。水を吸った靴が重くなり、走りずらい。見栄を張らずに電車を使えばこんな辛い思いをせずに済んだのに、少し休んでもいいんじゃないかというしみったれた感情を出してしまった自分に腹を立てていた。

 桃澤さんと約束したじゃないか。県大会まで本気でボクシングをやると。雨ごときに止められるほど、僕は軟じゃない。


 ビチャビチャに濡れながらジムに帰って来た。すでに愛龍は室内でトレーニング中だった。移動時間がいつもより確実に遅くなっている。服をすぐに着替えてただひたすら練習。

 それだけでいい。無駄な思考は必要ない。

 万亀雄が桃澤さんを名前呼びしていたとか、抱き着いて感謝していたとか、授業中にメモパットで筆談していたとか、毎日来るようになったとか……。今の僕に何も関係がない。

 戦って勝つ。そうすれば、桃澤さんに勇気を与えられるはず。そうすれば、桃澤さんの声が戻るかもしれない……。桃澤さんの歌を聞いてみたい。

 そのために僕が出来ることは、ただひたすらに練習するだけだ。

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